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雨中感歎號 (四)

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雨中感歎號 (四)

香港島九龍醫院{病院}の庭で、阿Bは待っていた。醫院の敷地内で煙{たばこ}を吸うことは許されていないので、手にした煙を弄んでいると護士{かんごし}が睨んで横を通っていったので、苦笑してパーカのポケットに突っ込んだとき、建物のほうから幼い女仔を抱いて歩いてくる人影が目に入った。
「ボウイ」
幼い頃から呼ばれていた英名(*7)を、媽が呟くように呼ぶ。
幼い妹妹{いもうと}は、小さな掌を広げ、無邪気に阿Bのほうへと手を伸ばしてきた。少女のようにか細い媽が抱くには大きくなった年齢のはずの妹妹は、まだ十分、媽の腕に抱かれていられるほど小さい。病のせいで3、4歳は幼く見えるほどの体格だ。
「退院おめでとう。アイリーン(*8)」
しばらくぶりに会う兄でも、妹妹は気にしないで頬を摺り寄せる。生後一年ほどしか一緒に暮らしておらず、見舞いにだってほとんど来ない。ずっと離れて暮らしてはいても、それでも心のどこかが兄だと愛しんでくれるのだろうか。
「治療はうまくいったの?」
「ええ。とりあえずは」
「例の大きな手術というのは?」
「それは、まだ――」
媽の顔が曇った。
「じゃあ、具合が悪くなったらまた入院か」
どんなに悪どい男でも、アイリーンへの愛情はあるのか、アイリーンの治療費と生活費には糸目をつけないでくれていると媽は言う。数か月に空けず具合が悪くなり加療の必要があるアイリーンを、ちゃんと入院させて、見舞うことすらあるという媽のかつての情人は、阿Bにとって、不思議な人物だった。
媽にでなく、腕の中の愛伶に向かって呟く。
「早く醫院と縁を切れよ」
9歳の妹妹は、今日は体の具合も良いからか、ことさら機嫌が良く、阿Bに抱かれて輝くばかりの笑顔を見せていた。
それだけ話すと、母と息子の間では話すことが無くなった。愛伶のはしゃぐ声だけが、辛うじて母子の間の隙間風を追い払ってくれる。だが、決して居心地が悪い訳ではなかった。元々、大きくなった息子と母など、そういうものだからだろうか。言葉ではなく、同じ時間と空間を共有しているだけで、気持ちが満たされるものかもしれない。離れて暮らしているせいもあるかもしれない。かつては、自分の心の片隅にいつも、媽への毒々しいがあったことを阿Bは識っている。
そうしているうちに、芝生を踏んで立ち止まった綺麗な鞋{くつ}が見えた。
「迎えに」
そこに陳輝火が立っていた。
阿Bはものも言わず、アイリーンを母に返し、そのまま踵を返す。
「ボウイ」
媽が、短く呼んだ。
肩越しに微かに首を振り向けてはみたが、見たいものがあるとすれば妹妹の笑顔くらいのものだった。もう、媽の顔も見たくない。情人の息子である陳輝火に生活を面倒みてもらっていることから、陳輝火の前では、媽は媽の顔ではなくなる。
我を疎ましく見る、――我を捨てた媽の目。
さっさと背を向けて、家族から遠ざかる。
その広がっていく背中側の空間が、いやに涼しく、堪えるというのを、阿Bは初めて実感した。それは、自分ひとりが立ち去るというのに、あの男が母と妹妹の傍らに居るせいなのかもしれない。

◆◇◆◇◆◇◆

休みの日に何をしたいということもない。妹妹の愛伶の退院は喜ばしい話だったが、元々が、入院していたからと言って見舞いに通ったわけでもなければ、世話をしていたのでもないのだ。あの日、お節介な美紅に言われて退院を祝いに会いに行ったのが本当に特別なことで、あの場所あの時間だけが過ぎれば、いつものごとく、なのである。店の妹{おんなのこ}たちなどは、休みには家の掃除をして、洗濯をして、映画を見て、デートをして、ということを言うが、阿Bにはそういう相手もいない。せいぜい、洗濯くらいはコインランドリーに行くが、街をぶらつく目的もなく、ましてや午{ひる}も近い遅い朝に目が覚めてみれば雨模様ともなると、ますます出かける気など起きるはずもなく、そこらに投げ出したままの古雑誌の頁をめくりながら、ゴロゴロしていると、ドアを烈しく叩く音がした。
「阿B。阿B!  いるのか、阿B!」
「阿友か。どうした?」
ドアを開けると、翡翠夜總曾の同士{同僚}の阿友が血相を変えて立っており、息を切らしながら言った。
「許経理{マネージャー}が。経理が、すぐに来いって」
「経理が? 點解呀{なんで}?」
「あ。えーと、美紅が・・・美紅が怪我して」
「怪我?」
それが我になんの関係がある、と言いかけて、次の阿友の言葉にはさすがに驚いた阿Bだった。
「美紅が、刺されて、それで、許があんたに店まで来い、って」
刺された、という衝撃的な言葉に、許経理がどうしてそれで自分を呼んでこいと阿友を寄越したかなどは吹っ飛んでしまい、阿Bは5楼{階}の自分の部屋から、唐楼の階段を駆けおりた。
「阿B! 下に的士{タクシー}がいる。行き先を知ってるから」
たちまち頭の上に遠くなる阿友の声を受け取って、阿Bは唐楼の地上階から出たところにいた的士に飛び乗った。
「快的[0牙]{いそいで}!」
的士の司機{運転手}はすぐに走り出した。勿論、阿友の言った通り、阿Bが何も言わずとも要領を得ていたように。
車が走り出して少し経つと、阿Bも少し気持に落ち着きが出て、車窓から街並みを見るゆとりができた。司機に訊ねる。
「どこへ向かっているんだ?」
的士の司機は何かもごもごと口の中で言ったが、阿Bには聞き取れなかった。どこか強い訛りのある言葉だ。まあ、いい、と阿Bはすぐに諦めた。いずれ九龍側の的士(*9)だ。
連れて行かれたところは九龍塘(*10)の住宅{やしき}だった。
金を投げるように払って的士から降りると、そこには美紅が外壁に凭れて立っていた。
「あーあ。ノコノコ来ちゃって」
「美紅?」
見れば、美紅は何処にも怪我ひとつない様子で阿Bを見ている。
「點解{どうして}・・・あんたが刺されたって、阿友が」
振り返り、自分を連れてきた的士をゆび指そうとしたら、的士はとっくにUターンして発車していた。
それになり代わるようにやってきた別の的士が吐き出したのは、経理の許だった。
苦虫を潰したような顔で、許が美紅と阿Bを見比べる。
阿Bは、咄嗟に言い訳をしようと思った。だが、言い訳する言い訳を持っていなかったのだ。多分、阿友に嵌められたのだろうということだけは理解できたが、何故嵌められたのかがわからない以上、巧い言い訳もできない。かと言って、正直な申し開きをするほどの事情がわからない。
そんな阿Bを知ってか知らないでか、許はにやりと笑った。
「役者は揃ったってわけだ」
そして、「乗りなさい」と美紅と阿Bに言い、自分が一番先に、乗ってきた的士に戻った。

◆◇◆◇◆◇◆

後部座席に許と美紅。助手席に阿Bが乗り、三人を乗せた的士は既に指示を受けていたのか、許が何も言わないうちから走り出した。
「からくりはお見通しのようね」
美紅が許の顔をちらりと見ながら言うと、許は許で「紅姐こそわかっていて子供だましな手に乗るんじゃない。話がややこしくなる」と笑いながら返した。許が、自分のところで使っている妹{おんな}を「紅姐」などと呼ぶとは、夜霧が言ったように、美紅は本当に組の親分の情婦なのかもしれない。
ちらりとバックミラーに映る許を見ると、笑いを浮かべている。機嫌は悪くないらしい。
「まだよくわかっていないのは姑爺仔だけらしいな」
「薇薇よ」
阿Bをからかう許に、美紅のほうが解答を教えてくれた。
「薇薇?」
「阿友は薇薇に惚れこんでいる。それに、教えてやったろう、薇薇は你、阿Bに入れあげているんだ」
「そして、薇薇姐は我{あたし}が目障り、と。仕組んだのは微微。潮時ね、許。我、夜總曾を辞めるわ」
自分こそが言いたかった言葉を美紅に先取りされてしまい、助手席の阿Bはややも不満げに鼻を鳴らした。
「阿B」
許が美紅の言葉を無視して、阿Bに話しかける。
「夜總曾を今日限りで辞めろ。仕事は世話してやる」
美紅は、許の隣で唖然としていた。

◆◇◆◇◆◇◆

もう、今日、このまま辞めていい、と言われ、中環{セントラル}あたりで車を降ろされた。
解放された、という気持ちよりも、ひとり、街からも拒まれたかのように身の置き所がなかった。
「したいこともない。会いたい人もいない、しなくちゃいけないこともない、か」
「借りものの土地、借りものの時間」と言われるこの街で、皆は何を自分のものとして持っているというのだろうか。賑やかな繁華街で、自分だけが喧騒を切り取って立っている気がする。
ぼんやりと歩くともなく人ごみの中を肩を右に左にぶつかりながら歩いていると、突然右脇に派手にぶつかって走り抜けようとする者が在った。
唔該、と言おうとして、その者と一瞬、目が合う。
瞬間、そいつに小路に引き込まれた。
「喂・・・喂!?」
放せ、と言う前に口を塞がれた。
「唔好・・・」
黙れ、と言いかけた男の吻{くちびる}が、阿Bの吻に押し当てられた。
騒がしく人を探す様相で、外の通りを走り抜けていく一団をやり過ごすと、男の顔が阿Bから離れたが、吻{くちびる}の代わりに大きな手で口を塞がれたまま、「もうしばらくこのままで」と低い声で男に命じられた。通りのネオンに照らされたその横顔には覚えがあった。
「你{おまえ}、店に来た、あのときの・・・」
確か、エリック、と名乗った青年だった。
「エリック藩{ブーン}?」
「しっ」
男が自分の口許に当てた長い指が血にまみれていた。
「それ」
「あ」
阿Bのシャツの胸にもべっとりと血がついていた。
「あとで謝る」
「いいけど・・・そっちのほうは大丈夫? 怪我?」
「ああ。どこかな」
エリックが左腕の内側を見て、外側を返したとき、血に染まっているシャツの袖が切り裂かれているのがわかった。
「わっ。好痛{いたそう}・・・」
「そうでもない。切れ味のいい刃で切られたみたいだな」
冷静にシャツの切り口を見ているエリックに、阿Bが言った。
「うち、近いけど、来るか? 傷口くらいは洗える」
「 ―― Thanks呀」
黄色く透けた髪に、外の路{みち}に点り始めたネオンが写って虹色に滲む。唐突に再会し、唐突に、かなり不躾なことをされた割には、阿Bは腹も立たないのだった。

◆◇◆◇◆◇◆

「唐楼の5階はさすがにキツイな」
「運動不足なんじゃ?」
すらりとした体格のくせに、息が荒くなっているエリックを、先の踊り場から見ながら阿Bが笑う。
「學生だからね。日々勉学にいそしんでいる身には、授業以外で運動する余裕はないよ」
「學生さんか」
阿Bにとって、「大學生」=「金を払ってまで読書{勉強}したがる銭のあるやつ」という意味になる。
なんとか5階まで上がり切って、自室のドアの前に立つと、阿Bがノブに手をかけて止まった。錠が壊れている。
「何?」
「しっ」
細く開けた隙間から、夜總曾翡翠の同朋{同僚}の阿友が見えた。知った顔だったためか、侵入者相手だというのに、僅かに油断した阿Bが「阿友」と声に出して言ってしまったところで、中にいた阿友がドアに体当たりを仕掛けて来、外にいた阿Bとエリックは突き飛ばされた。ドアの下方部が砕けて、木片が飛び散る。
「阿B、逃げろ!」
阿友が叫び、阿友の背後にいた巨漢の男に顔面を殴られるのを目の端に見ながら、エリックの背中を押しやりつつ、阿Bも即座に階段を飛び降りるように駆け下りた。
「你{あんた}、走れるか?」
「いいから、自分のことだけ考えろ」
阿Bがエリックを心配して声をかけるが、エリックはそれまで抑えていた出血創から手を離し、阿Bに並んで走り始めた。
唐楼の玄関を出ると、待ち伏せていたらしき男がふたり、右と左からエリックと阿Bを押さえにかかる。そこへ背後から「金髪のほうだ」とダミ声が飛んだ。先刻の阿友の背後にいた大男か。阿Bは事情が知りたくて、「逃げろ」と言ってくれた目で阿友を探す。が、さっき真正面から大男に殴られていたように見えたから、そのまま失神したのか、近くにはいないようだ。
ひとりがエリックの肩を押さえ、もうひとりが手にコンバットナイフを持ちながらエリックのほうへ近づいてくのが見えた瞬間、阿Bは足元に転がる酒瓶を握って拾ったかと思うと、ナイフの男の背に向かって投げつけた。
背に酒瓶がぶち当たった男が阿Bを振り返り、刃をこちらへ向けようとしたとき、空車の的士が走ってくるのが阿Bに見えた。
もうひとつ、今度は空き缶を拾って、エリックの肩を押さえているほうの男を狙って投げる。空き缶なら万が一外れても、エリックにさほどの害はないだろう。
「搭{乗って}!」
それだけ叫んで、阿Bはナイフの男の振り出してくる腕の下を掻い潜って、エリックのほうへと走った。
阿Bが的士の前に身を乗り出して車を無理やり止め、阿Bの投げた缶が命中した男の手が肩から離れたすきに、エリックが左の後部ドアを開けて車内に滑り込む。
「右的! 開放呀{右のドア開けろって}!」
阿Bの声がエリックと司機に聞こえたかどうかはともかく、阿Bが無理やり開けた右扉から社内に飛び込み、エリックと阿Bは同時に司機に叫んだ。
「快D呀!{早く行け}」
息遣いが落ち着いてきたころ、司機がどこへ行くか聞いてきた。荒事には慣れっこといった風の司機は、騒ぎについては何も問うてはこない。
「とりあえず、地鐵站{地下鉄の駅}で」
いいかな、と問いかけたエリックが、隣に蹲る阿Bに気づいた。
「おい。どうした?」
阿Bの異変を感じた司機が、そのとき初めて迷惑そうな顔を見せて言った。
「面倒ごとならこのまま警察に行こうか」
司機は親切で言っているのではない。ただただ、自分自身が面倒ごとに巻き込まれたくない一意で言って寄越すだけで、車から叩き下ろされないだけまだマシである。ましてや、警察などにつれていかれたとて、警察は弱者の味方ではないのだ。賄賂と裏の人脈が横行している強いものには巻かれろ的な組織である。
「無問題呀{だいじょうぶだ}。紅磡までこのまま行ってくれ」
寄りかかる阿Bの体重を支えながら、エリックが司機に指示を出した。

< 五に続く >

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(*7)香港では特に決まりはないが多くの人が英語の通称名を持つ。これは好きなときに好きなものに変更することも可能。

(*8)愛伶の英名。名前の発音に似た英語名があればそれをつけることもある。

(*9)香港のタクシーは営業エリアが分かれていて、営業エリアを越えて遠くまで行かないものがある。

(*10)九龍エリアの中の地名。

 

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