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永不放棄

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「阿B、起きろ。出かける」

跑馬地{ハッピーバレー}の楼{マンション}で、火仔に起こされる初一(*1)の朝。

昨夜、晦日の晩は、それぞれの仕事が終わってから、珍しく阿Bから火仔に連絡を取った。火仔から頼まれていたリサーチの報告がてら一緒に食事をする流れになり、互いに話に熱中して論戦となり、半ば喧嘩腰になったまま、飲みなおそうということになって、一番近いから、と、この楼{マンション}へやってきた。火仔がときどき、仕事が遅くなったときに使っているらしいことは聞いてはいたが、自分が泊まるのは初めてだった。

広すぎる部屋と、広すぎるベッド。こんなところに普段は一人で泊まるのか、と、ちょっと呆れる。まあ、どうせ、必要ないと思ったら売りに出すんだろうから、自分のためにあつらえた部屋でもなし、こんなもんか、と思いながら一晩過ごしたのを覚えている。ベッドに入る前に火仔がかなりムッとしていたことを微かに覚えているから、多少、嫌味も言ったかもしれない。

それにしても、無味乾燥な生活観のない部屋に、一人で来て、出て行くときの火仔はどんな顔をしているのだろうか。そんなことを気にしながらではあるが、昨夜は久々に、酒で温もった互いの軆温を肌に感じながら眠ったせいか、それとも今朝は自分以外の声がすることで目覚めたせいか、少しだけ気分が良かったのだが。

「阿蓮の媽が亡くなった」

「外婆{ばーちゃん}が?」

ジェイムズが一足先に行っているから、と言われ、急いで服を着て身支度を整える。ここからなら、淺水湾{レペルス・ベイ}の阿蓮の自宅まで車で20分もかからないだろう。

「阿蓮の楼でいいのか?」

「ああ。そのようだ」

上着を手に取りながら、デスクの上のキーボックスから車のカギを取り上げると同時に、火仔に衫{シャツ}の背中をつかまれた。

「咩呀{なに}?」

「車はやめておけ」

「點解呀{なんで}?」

軽いキスをされる。

「你、無問題{だいじょうぶ}か」

面白いもので、阿蓮は媽の敵だった。媽が、火仔の父親の陳輝大との間にアイリーンをもうけ、アイリーンと媽が陳輝大に引き取られたと思ったら、陳輝大は媽を愛人のままに扱い、女実業家のやり手の名も高かった阿蓮と結婚した。もっとも、いまさら思うに、敵というにも当たらなかったのだろう。阿Bの媽はただの鶏{娼婦}で、阿蓮も水商売上がりと噂されてはいたが、商業的センスで実業家の名を物にした女仔だ。

火仔も阿Bも、阿蓮のことは決して嫌いではなかったし、阿蓮の媽は、洒脱で陽気で、まるで本当の外婆のように火仔のことも阿Bのことも可愛がってくれた。

「無問題呀{だいじょうぶ}」

「・・・好呀{なら、いい}」

火仔の腕が阿Bを抱く。

阿Bの耳元で、火仔が小さくため息をつくのが聞こえた。阿Bも火仔の背中に手を回して、軽くその背を抱く。もしかしたら、自分よりも火仔のほうが、外婆の死にショックを受けているかもしれない、と思った。

「車は停められないかも知れないから、やはり的士にしよう」

狭い香港は、そもそも車社会ではない。だから、マンションの駐車スペースの分譲もゆとりはあまりない。火仔の言うとおりなので、大人しくカギを手放した。

「快的喇{急ごう}。」

的士を呼び、後部座席に並んで座りながら、隣の火仔に問いかける。

「外婆って、今年八〇になるんだったよな?」

「ああ。お祝いをしなくちゃ、って言ってたんだったな」

会話が止まる。どうにも話が続かないのは当たり前かもしれない。血の繋がった父親は憎しみの対象でしかなかった火仔と、血の繋がった母親の眼中になく育った阿Bとが、初めて肉親らしい感情を抱いていた人に逝かれたのだ。数年前に妹妹{いもうと}の愛伶が幼くして死を迎えたときとは、また違った感情だった。

淺水湾のひときわ高い楼へ着くと、いくらか青ざめた阿蓮が自分で玄関を開けて迎えてくれた。

「近いうちにこんな日が来るってことはわかっていたことだし、苦しまなかったみたいだから」

ビーチが見えるバルコニーで、ジェイムズの入れたお茶を飲みながら、阿蓮がそっと微笑んだ。

「阿蓮、外婆の葬儀、しないって?」

ジェイムズから先刻聞かされて驚いたことを、阿Bは阿蓮に訊いた。

「ちゃんと弔いはするわよ。でも、せっかくの春節なんだから、賑やかに送ってやろうと思うの。你たちも明日、来てくれると嬉しいんだけど」

「梗係{もちろん}」

ジェイムズは準備を手伝うと言って残ることになり、阿Bと火仔は翌日を約束して阿蓮の屋企{家}を後にすることになった。

「なんだか、不思議ね」

門口{玄関}で、阿蓮が二人を見送りながら言った。

「こうしてふたり一緒に来てくれるようになるなんてね」

媽も喜ぶわ、と、二人をかわるがわる抱きしめた。阿蓮もまた、阿Bと火仔がかつては敵対するかのように反発しあったことまで知っている、姉のような存在になっていた。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

 「なんだか、阿蓮、か弱くみえたな」

超がつく高級マンションが立ち並ぶ淺水湾のビーチを歩きながら阿Bが言うと、火仔は「そうでもないと思うぞ」とあっさり否定する。

「大丈夫だ。すぐに元気を取り戻す。あれはそういう女だ」

「女に厳しいからな、你は」

阿Bが笑うと、火仔は格好よく肩を竦めた。普通ならポーズが決まりすぎる嫌味さも、火仔なら感じられない。そういうところは昔の明星{タレント}のままだ。

「厳しいわけじゃない。你{おまえ}より冷静に分析できているだけだ」

さて、と火仔が腕時計を見る。その文字盤を掌で塞いで阿Bが言った。

「火仔。你{おまえ}、初一まで仕事する気か」

「・・・ああ。そうか。習慣だな」

「もし中環(*2)まで戻るんなら搭せて行ってくれよ」

中環には、火仔の統べる会社の本社も、それから本宅として使っている部屋もある。

「何か中環に用事があるのか?」

「いや。スーツが屋企{いえ}だし。取りに帰ろうかなと思って。明日また、阿蓮のところへ行くのに、さすがにジーンズじゃあんまりかと思って」

「なら、このまま中環まで行って、尖沙咀(*3)までフェリーで渡るか」

「你もうちに来るのか?」

「悪いか」

自分が仕事を依頼している「得意先」の仕事場を見に行って何が悪い、とまで言われた。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

 ところが、フェリーから降りて半島酒店{ペニンシュラホテル}の角に差し掛かったところで、交通整理の差人{警察官}に止められた。

「自分ちに行きたいだけなんだけど」

「ああ。而家{いま}、駅のほうは火が出ているから通行止めだ」

いい加減な香港警察は、止めるときも、こちらのことはおかまいなしで、様子を聞いても「詳しいことは言えない」で何も教えてくれないまま、「兎に角入れない」を繰り返すだけである。どこが火事だ、と聞けば、「地鐵站{駅}周辺」としか返ってこない。むしろ、周辺にいる野次馬をつかまえたほうが話が聞ける、とばかりに阿Bがそこいらの人間を片っ端から捕まえて聞いてみれば、どうやら、地鐵站の地下で小火騒ぎがあったとのこと。

「横着して、このまま夜のパレードまで閉鎖したままにしそうだな。スーツを取ってくるのは諦めるか」

初一の夜には、尖沙咀はナイトパレードで通行止めになる。

「どうしても必要なら買えばいいさ」

「有銭{金持ち}は言うことも気楽だな」

呆れて睨んだが、火仔は全く意に介していない様子だ。

「じゃあ、まあ、そういうことで、仕事場見学も諦めてもらうとして、どこかで早餐{朝飯}でも・・・って時間じゃないのか、もう」

時計を見ると、午{ひる}も近いが、さすがに初一で開いている店も少なそうである。地鐵站がある彌敦道{ネイザン・ロード}だけが野次馬で湧いている。

「ペニンシュラは入れるぞ」

「你と一緒にいると、我はすぐに破産するな」

高級ホテルで観光客向けのブランチなんぞできるか、と阿Bは通行止めの路を避けて小路に入っていく。火仔は黙って後をついて行った。

「粥と麺、どっちがいい?」

「麺」

即座に返答が返ってきた。それなら、といくつか心当たりに立ち寄るが、当然といえば当然で、旧正月の元旦から開けている舗はやはり少ない。4軒目でようやく開いていた舗に入り、火仔と阿Bは雲呑麺にありついた。

「好食」と呟いた火仔に気を良くして、阿Bが奢る。

阿Bが会話の中で呼んだ名前に反応して、舗のほかの男客が「火仔って、あの、昔、電視{テレビ}に出てた火仔か?」と聞いてきた。

「んなわけないだろ。我{おれ}の仕事仲間だよ」

そうかなあ、似てるがなあ、と首を傾げる叔叔{オッサン}を置いて、とっととふたりで舗を出る。

「もう少し先に行くと牛奶布甸{牛乳プリン}が好食{美味しい}舗があるんだ」と言う阿Bを火仔はまじまじと見つめて、「細蚊仔{ガキ}」と鼻で笑った。

「じゃあ、你なら何食うんだよ」

暫く考えて「芒果布甸{マンゴープリン}」と答えた火仔に、どこか違う、と阿Bが背中を小突いた。

甜品屋{甘いもの屋}へ入って、芒果布甸はあるが牛奶布甸は今日は作っていない、と言われ、むすっとしながらも阿Bも芒果布甸を注文する。

カウンターで「もしかして、明星{タレント}の火仔なのかい」と亜嬸{おばちゃん}が阿Bにこそっと聞いてきたが、阿Bは思い切り真面目な顔で、「めちゃくちゃ似てるだろ。そっくりさんで電視{テレビ}に出たこともあるんだ」と言い逃れる。

食べ終えて甜品屋を出たところで阿Bがため息を吐いた。

「你{おまえ}目立つんだよ・・・」

「そうか?」

「そうだよ。・・・可能{たぶん}。我は慣れているけど、でも、たぶん、你、ビシバシと明星{芸能人}のオーラ出まくってるんと思うぞ」

はぁ、と迷惑げに大げさにもう一度ため息を吐いてみせる。

そもそも、背が高いってだけでかなり目立つ上に、さほど高くない自分といると凸凹がついて余計に目立つ。その上、小汚い格好の自分と一緒に、いかにも有銭{金がある}ように見える格好をしているのだから ――。

「ああ。そうか」

阿Bが、思いつく。

「よし。火仔。つきあえ」

裏通りをすいすいと抜けていき、小さな舗{みせ}で真っ先に眼鏡を手に取る。

「嗱{ほら}。かけてみろ」

イギリス国旗がプリントされたセルフレームを手に取ろうとしたが、思い切りイヤ~な顔を火仔がしたので、隣にあったフレームを手に取って渡す。

かけた瞬間、笑ってやるつもりでいたが、かけてみるとそれはそれでなんとなく様になるから、呆れたもんである。

「吹呀{どうだ}?」

得意げな顔をする火仔にムッとして、「麻麻哋{まあまあなんでないの}」、と気のない返事を返しながら、阿Bは内心面白くないので、とにかく安いものを適当に着せていく。

裏から裏へふたりで小路を歩く。阿Bはあちらこちらで声を掛け、掛けられる。火仔の周囲にはない気安さだ。いや、TVB(*4)の明星だったころは同期もいたから、同じ明星同士ならこんなものだったかもしれない。ロケで街を歩いたり、そうだ、電影{映画}の中の散仔{チンピラ}役のときなどはこんな情景を演じていたようにも思う。

ふと、昔の阿Bを思い出す。出会った頃の阿Bは、今のような気安さも明るさも感じられなかった。少なくとも、火仔に対してはその欠片も見せなかった。会うといつも刺さりそうな棘を出し、互いに相容れない関係しか二人の間にはあり得ないと思わせられた。

「どうした?」

舗先で何か値切っていた阿Bが、振り返った。

「いや。別に」

正直、タレント活動をしていた頃のことは、あまり記憶にない。思い出したいとも思わない、というとネガティブに聞こえるが、「思い出すほどのこともない」程度だと思っている。父親への反発で経営の道に進みたくなく、大学を辞めて、スカウトに乗った結果の数年というだけなのだ。ただ鮮烈に覚えているのは、阿Bの媽{はは}と妹妹{いもうと}とを火仔が引き取ったことに対する阿Bの反発と、火仔自身へ向けられていた憎悪をひしひしと感じていたこと、そして、そんな阿Bに対する自身が抱いた対抗心の強さである。

その阿Bは、と言えば、今、戦利品を入れた袋をポンポンと跳ね上げながら、ご機嫌で舗{みせ}から出てきた。袋をボールのように火仔に投げて、「これでおしまい。着てみろ」と寄越したのを火仔が受け取って開けてみた。

「亜嬸{おばちゃん}、奥の部屋、借りるよ」

阿Bが舗の奥の物置に火仔を押し込む。

「阿B! 講笑喇{じょうだんだろ}! こんなもん着られるか」

「似合う、似合う。無問題」

言うが早いか手が早いかで、阿Bは火仔のコートを脱がせ、上着とシャツを剥ぎ取ってしまい、ついでにキスをして、脱がせたシャツを持ったまま物置の窗簾{カーテン}を乱暴に閉めて出て行ってしまった。

「火仔。きっと、メーカーからCM依頼が来るぞ」

「攪錯ッ・・・!(*5)」

シャツを剥ぎ取られた以上、下着で出て行くわけにもいかない。窗簾から首だけ出すと、店の亜嬸がにやっと笑った。

「火仔だろ? 覚えてないかい? 你、昔、この店にロケで来たことあるんだよ」

「え?」

「覚えてないか。忙しそうだったもんねえ。ほら。ローラと」

阿姨が示した壁を見ると、そこには火仔と、火仔と同時期に活躍した明星{タレント}のローラ張のサインがあった。それを見て、確かにローラと一緒に何かの番組で買い物ゲームに来た記憶が蘇る。

「阿Bは外で待ってるって。上着をちゃんと買っていたようだから、安心しな。これは、我{アタシ}からの利是(*6)。你とローラのおかげで、当時は客足が随分上がったからねえ。そのお礼さ」

とんでもないキャラクターもののトレーナーをもそもそと着込むと、阿姨に「似合うよ」と揶揄われながら、舗の表へ急ぐ。

「よう。火仔」

煙を吐き出しながらそういった瞬間に、阿Bが咳き込んだ。と言うより、体を二つに折って笑う。息も継げないらしく、咳と笑いと涙で苦しんでいる阿Bが手にしていた上着らしき布を、火仔は無言でひったくった。

ひー、ひー言っている阿Bを無視して、ペラペラのスタジャンを着込む。前さえ閉めれば、このキャラクタートレーナーを着て歩かされるよりはマシだ。

「に、似合うぞ。火仔。さすがに、その格好じゃ、タレントだとは思われない。日本の観光客が物珍しくて買ったくらいにしか思われない」

トレーナーの前面いっぱいに描かれている清仔は、日本のインスタントラーメンのイメージキャラクター(*7)だ。

「二度と你とは服は買わない」

「とか言いつつ、これは?」

スタジャンの前をめくり上げて、これまたキャラクター物のバックルつきのベルトを示す。

ちてしまいそうなんだ」

「思ったよりウエストが細いんだな。そりゃ、悪かった」

「我のサイズくらいわかるだろうが」

大真面目に言う火仔に、「我、你ほど賤格{スケベ}じゃないし」と目尻に涙を浮かべて、ようやく笑いを収めた阿Bと、むすっとしながら阿Bから受け取った眼鏡をかける火仔の横を、観光客の女仔がなにやらいいながら通り過ぎていく。

「ふうん」

「どうした?」

「今の日本妹{女の子}たち。你のこと、靚仔(*8)だから誰か明星じゃないか、だって。結局、明星オーラは何着てても変わらんわけか」

「我はもう明星じゃない―― おい。阿B、你、日本語がわかるのか」

「ちょっとだけ。それより」

手にしていた紙袋のひとつを火仔に押し付けて、また阿Bが笑い出した。

「こっちに着替えろ。今までのは冗談」

そう言いながらも涙を浮かべている。思い出したら、笑いが止まらないらしい。

紙袋をひったくって、中身を確認し、火仔はその場でスタジャンを脱ぎ、続いてトレーナーも徐に脱いだ。

「哎呀(*9)。ここで脱ぐのか?」

明星オーラもさることながら、怒気が立ち上るかのようだ。阿Bは笑いを引っ込め、煙を吸いながら、通りで火仔の着替えが完了するのを待った。

いつの間にか、そのあたりの舗の亜嬸たちが阿Bの背後に集まってきて、火仔の着替えを見ている。火仔が着替え終わると、「ほーーーー」と亜嬸たちのため息が聞こえた。

「亜嬸たち、工作{しごと}に戻りなよ」

我慢できずに阿Bがまた吹き出す。そんな阿Bの背中を勢い良く叩いて、ひとりの亜嬸は大笑した。

「春節だよ。初一だよ。客なんてひやかしばっかりで、まともな商売になりゃしないって。おかげでゆっくり楽しませてもらったよ」

とりあえず、差し出された亜嬸たちの手を火仔に握り返させて、阿Bはジョルダーノのトレーナーとジャケットを着た火仔を引っ張って舗を後にした。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

 夕泥む頃合の小輪{フェリー}で、手すりに凭れて対岸を見入る火仔の肩に、阿Bが手をかける。薄桃色に色を染めていく空に、うすぼんやりと摩天楼が浮かび始めていた。

「珍しい?」

「まあな。普段は車で海底隧道{トンネル}だからな。小輪に乗ったのは、二〇年ぶりくらいか」

「二〇年?」

火仔はまだ10歳くらいだ。

「家出したんだ。陳輝大に新しい愛人ができたことを電視{テレビ}で知って。あれが初めてじゃなかったのに、なんだか無性に腹が立って、それで、家をふらふらと出て、歩き回って」

「愛人って、阿蓮か?」

「阿蓮の前の愛人だな。金も持っていなくて、中環の乗り場にぼーっと立ってたら、観光客が何だか話しかけてきてくれて。どうやら、『船に乗りたいのか』って聞いてくれたらしいんだが、それで我の分の金を払ってくれて、乗せてくれた」

阿Bの前に、小輪の暗がりで手すりに凭れている10歳の火仔がいる。火仔が10歳なら、自分は8歳。城砦の小路で媽の言いなりに稼いでいた頃の自分を思い浮かべる。

「我{おれ}と你{あんた}、その頃から一緒にいたなら、あんなに反目し合わなくて済んだだろうか」

小さな男仔{おとこのこ}二人が、背伸びして手すりの向こうに見える景色を指差しながら何か話をする様を思い浮かべて、阿Bの目に遠ざかる九龍側のネオンサインが滲んで見える。

その風景を目に納めて、阿Bがくすっと笑った。

「火仔は忘れてるってわけだ」

「乜嘢呀{なにが}?」

「小輪に乗るのは、你は20年ぶりではなくて、10年ぶりだ。」

全く覚えが無いという顔で火仔が阿Bを見返してくるのへ、「本当に覚えてないのか」と笑った。

「最初に你{おまえ}にキスされたのは、この船の上だ。我はあれで你が基{ゲイ}だと納得した」

「・・・ああ。そういえば、あの時は小うるさいのがそばにいたな」

「エリックのことか」

そこまで話して、ようやっと阿Bは、火仔が覚えていないのではなく、『故意に』忘れているのだと識った。つまりは、あの頃阿Bと共にいたエリックのことを無視しているのだ。

「案外、你{おまえ}も大人気ないやつだな」

阿Bは笑いながら呆れる。

「思い出したくないほど気に食わないやつのことは、思い出さないのが精神衛生上、一番だ」

そう言う火仔に、不意に腰を引き寄せられる。

「火仔?」

「子どものころ、兄弟がいたらどんなにいいか、何度も考えた。だが、我にとって兄弟というのは、父親も媽も同じ人間のことを指していた。だから、媽がいなくなってしまった以上、我には兄弟は望むべくもないものだった。ならば、朋友{友人}はどうだ。夕食の時間が来たら屋企{家}に帰っていってしまう朋友は、一人で座る食卓をもっと寂しくさせるだけだった。結婚して子どもを持つべきだったのかもしれない。だが、我にとって――陳輝大のことを見て育った我にとって、女仔も妻も、何かを分かち合うための相手には思えなかった」

「阿蓮みたいな女もいるじゃないか」

「あれは中身は男だ」

ぷっと吹き出す阿Bの腰を優しく抱いたまま、火仔は反対の手の甲で阿Bの頬を撫でに来る。

「火仔、誰かに見られたら逃げられないぞ」

「2等(*10)には誰もいない」

春節初一のフェリーなんてがらがらだ。ましてや、吹きさらしの2等には確かに人影はない。

火仔の顔がゆっくりと降りてくると、阿Bも自分から火仔の肩に手を回した。

「好凍呀{つめてー}。雪糕{アイスクリーム}みたい」

「文句言うな。互相喇{おたがいさまだ}」

長く合わせていると吻{くちびる}の冷たさは気にならなくなる。わずか5分の航路のうち、少なく見積もっても3分は吻を重ねていた気がする。

「阿B」

「乜嘢呀」

「今夜、屋企に帰るのか?」

「帰るつもりなら、もとよりスーツは取りに帰らない」

「じゃあ、どうする?」

「・・・靠晒你喇{まかせる}」

你の軆温があるんならどこでもいい、と言おうと思ったが、付け上がらせる気がして、阿Bは口をつぐんだ。つぐまされた、と言うべきかもしれないが。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

 維多利亞港{ヴィクトリア・ハーバー}と九龍サイドが一望できる老舗のホテルに入ると、ロビーは閑散としたものだった。観光のお客様もおでかけですから、と案内役が苦笑した。今晩はナイトパレード、明日は花火がある。部屋はほぼ満室で、結局取れたのは、有銭{金持ち}が泊まる豪華な部屋だけ、とのこと。

「我、スイートなんて初めて泊まる」

「そうか?」

何ほどのこともない顔でコートを脱ぐ火仔の背に、思い切りしかめた顔で声のない悪態をついて、阿Bはひとり窓辺へ寄った。コートも脱がずに窓際に腰を掛けて、対岸の夜景を見つめる。

「九龍が、見える」

小さな子供のように、窓ガラスに額を押し当てて阿Bが呟く。

「城砦はあの向こうだ」

阿Bの額を、冷たいガラスから庇うように、火仔が腕を回して阿Bの頭を抱き、そして阿Bの目をもう一方の手で塞いだ。

「ここは、中環だ。そして、你がいるのは、我のそばだ」

目を塞いでいないほうの火仔の腕は、いつの間にか阿Bのコートの中で阿Bの腰を抱いている。

「九龍を探すのは、もう、いいだろう。どれだけ見ても、城砦はもう今の地図には無い。你も、もう十七の子どもではない。你が探しているのは、もう、帰ることはできない場所と時間だ。過去の地図は持っていても何の役にも立たない」

可能、不過{そうかもしれないが}、と心の裡で密かに反論する。それがなぜなのかはわからないけれど、城砦が今は無いということ、自分はもう城砦にとらわれなくていいということを思うたびに、心が甘く痛む気がする。もしかしたら、捨て去りたいと願いながら惜しんでいるのかもしれない。城砦での17年間を。

そんなことを阿Bが考えている隙に、火仔の指はジーンズのウエストにかかる。長い指がするりとウエストの内側に入り込み、腰の周りを滑り始めている。

「痩せたか」

「唔係{いいや}。你はいつも同じことばっかり言う。そりゃ、おまえに比べれば、どうせ我は2サイズも下だが」

身長ですら5-1/2インチ以上の差がある。你は大男過ぎるんだ、と文句を言う阿Bの口を塞ぎながら、火仔は阿Bの前髪をくしゃりと握り、額に落とす。

「火仔。やめろよ」

「二人きりのときぐらいは、下ろしていろ。ちっとも似合っていないぞ」

火仔の指はじっとしておらず、器用に働いて、ベルトのバックルを外しジーンズのジッパーを下ろす。

阿Bは火仔のシャツの背の外から、肩甲骨の窪みをなぞって、一応、まだ要求にストップをかけることを試みる。

「火仔。明日、阿蓮のところへ着ていくスーツを買いに行かなきゃ」

「どこか店に電話して、届けさせればいい」

「サイズがわからない」

阿Bが笑って、火仔の胸から逃れようとするが、火仔の力は強い。

「你のサイズなら我がわかる。身長も、肩幅も、腕の長さも、首廻りも」

火仔の吻{くちびる}が一々確認をしにくる。

「なあ。・・・まだ夕食前の時間だぞ」

ジーンズの中に差し入れられた指は、決して急いてはいないけれど、先へと誘うよう動く。

止まるつもりもなさそうな火仔の要求に観念して、阿Bが火仔のシャツの背に手を入れた。自分ばかり追い詰められていくのは堪らない。まあ、スーツじゃなくても阿蓮も外婆も、文句は言わないだろう。

「火仔。ベッドに移動ぐらいはしてもいいと思うぞ」

嘈呀{うるさいな}、とムッとしながら、さっさと自分が先にベッドに行って「早く来い」と偉そうに言われながら、阿Bは脱がされたジーンズを足先に落とし、つま先で避けて、火仔の腕の中にもう一度収まった。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

「では、2着とも麗嘉酒店{リッツ・カールトン}へお届けしておきます」

結局、遮打大厦{チャター・ビル}でそれぞれのスーツを買い、そのままぶらぶらと歩く。

「自分の分くらい自分で買うのに」

「你から利是{ライシー}をもらったからな。お返しだ」

火仔が真面目な顔して言うのに対して、最初、なんのことを言っているのかわからなかったが、さっきの出前一丁のトレーナーのことだとわかると、阿Bはしばらくまた、からだをふたつに折って道端で笑った。

「気に入ってもらえて、最高に嬉しい」

腹を抱えてながら言う阿Bを睨みながら、火仔は阿Bの笑いが納まるのを待つが、やがて、火仔の口許も緩む。

「食事でもするか」

九龍サイドに比べ、中環は開いている店も多い。観光客もそこそこ多い中、着かず離れずでふたり歩く。火仔がポケットからさっき尖沙咀で買った眼鏡を取り出して掛ける。阿Bが笑って、自分の帽子を火仔の頭に載せてやる。

阿Bが落としたマフラーを通りすがりの人が拾って「恭喜發財(*11)」と微笑む。拾ってもらったマフラーを握り締めて立ち尽くす阿Bの代わりに、火仔が、恭喜發財、と返し、軽く手を振った。

「どうした」

「おめでとう、なんだよな」

「ん?」

「いや。当たり前だけど、この時季の挨拶は恭喜發財なんだなって思って」

「外婆のことか?」

是{イエス}の意味でか、何も言わずに阿Bが火仔を見上げた。火仔が手機{携帯電話}を取り出して電話を掛ける。

「ああ。阿蓮? どう。無問題? 準備は? ・・・そう。勿論、ジェイムズがいれば無問題なのはわかってる。阿Bに代わるぞ」

「えっ」

阿Bの手からマフラーを取り上げ、代わりに手機を押し付けた。

「あの、阿蓮? うん、我。別に用事があったわけじゃないんだけど」

阿Bが頷きながら短く返事を返す。阿蓮の話を聞いているのだろう。やがて、少しずつ表情が緩んでいくのが見て取れた火仔は、ほっとした。

電話を切り、阿Bから手機を受け取った火仔は、何も聞かないで、阿Bの首にマフラーを巻いてやる。

「花市へでも行くか。明日、外婆に持っていく花を買いに」

地下鉄で3駅、花市の開かれている維多利亞公園{ヴィクトリア・パーク}まで、ゆるゆると動く人波の中を出かけ、あれこれと花を選ぶ。二人して、手に抱えきれなくなったところで、ひとつの舗先で火仔が舗の亜嬸に向かって、眼鏡を外してこそっと耳打ちする。

亜嬸が目を輝かせて、「OK呀」と笑う。

「你、何言ったんだ?」

「眼鏡外して、名乗っただけ。今晩、舗が引けてから、買った花全部阿蓮の楼に持っていってくれるから、連絡しておけ。我は先に行くから」

手機を阿Bに放り投げて、火仔が早足で歩き出す。

「えっ? ちょっと待てよ・・・」

そう言っている間にも、亜嬸がそこいらの舗やら客やらに「火仔が買ってくれた。陳輝火が来たよ」と触れ回る。

「やば」

とにかく火仔の手機だけは落とさないよう、ポケットに突っ込み、阿Bもまた、火仔とは反対の方角へ走り出した。

◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

酒店{ホテル}に先に着いたのは、阿Bのほうだった。

「おかえり」

ドアベルが鳴って阿Bがドアを開けると、火仔が包みを差し出した。

「昼間、食べられなかっただろう」

「牛奶布甸{牛乳プリン}? 逃げながら買ってきたのか?」

「追いかけられてたわけじゃないしな」

そう言いながら、火仔が阿Bに抱きつく。

「その割に、息切れしてるけど?」

阿Bが笑って揶揄うと、火仔が抱きついてくる腕に力を込めた。

「ロビーにいた香港明星迷の日本妹に見つかりそうになったんだ」

「そりゃ辛苦哂{おつかれさん}。今日は現役時代に戻ったみたいだな」

くすくすと阿Bが笑う。冷たかった火仔の髪が、部屋の暖気で温められてくると、火仔の整髪料の香りが阿Bの鼻先をくすぐった。

阿Bが火仔の背中に回した手でコートを握る。火仔が、阿Bを抱きしめたまま、阿Bの反対の手にある包みを取り上げて、床に置いた。

強く抱きしめられたまま、吻{くちびる}がぶつかるように重ねられる。火仔、と名前を呼ぼうとするが、火仔のキスはその隙を作らせない。

阿Bの頭を抱きにきた火仔の手が、後頭部から額に、ゆっくりと髪を弄びながら移ってきたところで、阿Bの手が火仔の手を止めてようやく吻が離れた。

「髪、洗ってくるから」

火仔が阿Bの額に自分の額を軽くぶつけて笑った。

阿Bが沖涼{シャワー}を浴びて出てくると、火仔がリビングの窓側のソファの背に腰を置いて、凝と九龍サイドを見ていた。

「龍でもいるのか(*12)」

玻璃{ガラス}鏡の奥から阿Bが訊ねる。

「ものすごく、怖い目で睨んでいるからさ」

ソファに座り、背に凭れて火仔を見上げる。

「どうしてくれようかと思ってな」

「乜嘢呀?」

「你をいつまでも開放しない、あそこにいる九つの龍ってやつらを」

なんてな、と、手にしていた水のボトルを阿Bに渡し、沖涼を浴びてくる、とリビングを出て行った。

 ◇◆◆◇◆◆◇◆◆◇

 腿の傷痕を火仔の指がなぞりに来て、思わず阿Bの背が反り返る。触れられるのを拒むように逃れようとする阿Bの脚に自分の脚をからめ、まるで何かを確認するかのように、傷の始まりから終わりまでを、火仔の指が幾度も往復する。

その指が腿に置かれたまま、火仔の吻はゆっくりと阿Bのわき腹の薄い線を捉える。傷痕としては下腹部の手術痕のほうが余程はっきりとしているというのに、火仔の攻撃はその少し上にある、ただもう薄い線にしか見えない傷に集中して、火仔の舌が傷痕を辿る。

触れ方は優しいくせに、強引で引かない火仔の態度に、阿Bはいつか参るだろうな、と思いながら、これまで言おうか言うまいか、いつも留めてきた言葉を、今日も用意しながら、火仔が傷痕に飽きるまでひたすら堪えようとする。

そんな阿Bに、火仔が苛立ったように阿Bの背をかき抱いた。それに煽られて、阿Bが話し始める。

「火仔。你{あんた}は、我のことを何もかも知っている」

服のサイズなんかじゃなくて、と、阿Bが火仔の吻{くちびる}を求めて、火仔の頬を両手で挟んだ。

陳輝大、火仔の父が、阿Bの母とその間にできたアイリーンを引き取ると言ったときに、火仔は阿Bのことも含め、親子のことを徹底的に調べたと、かつて言っていた。体を売らされていたことも、城砦を出てからどうやって生きてきたかも。そして城砦を出て、媽を亡くしたことも、アイリーンを亡くしたことも、誰を愛して、失ってきたかを、火仔はすべて知っているのだ。

そうだな、と、吻から喉へ、喉から胸へと、吻を押し当てくぐもった声で火仔が応えた。それがどうした、とも。

「而家{いま}の你との違いは、髪型くらいだな。それか」

我のそばにいるかいないか。

5歳の你も、8歳の你も、10歳、15歳、17歳で出会うまでの你は、すべて而家の你の中にある。むしろ、出会ってから互いに反発していた、こうして抱き合うまでの時間の你が、而家もまだ、あそこにいるように思えるが、と、火仔は阿Bから吻を離して少し顔を上げ、窓の遠くを見た。それにつられて窓を見た阿Bは、夜目に映る鏡になった窓玻璃{ガラス}に、うっすら映りこんだ自分を見つけた。抱き合って乱れた前髪が半分下りている。

そうだ。それまで反発心しか無かった火仔を初めて心の中に受け入れたときから、何かで自分に区切りをつけたかったかもしれない。そんな幼稚な意識でいたのかもしれない。

額に思わず手を遣る。火仔がその手に自分の手を重ねてきた。指を優しく絡めて、吻を重ねてくる。

「城砦は我の生まれ育った場所だったが、香港じゃないあの場所(*13)から出ただけじゃ、我の居場所は香港には無かったんだ。でも、你が、我の帰る場所をこの香港に作ってくれた」

額に置かれた火仔の指を握り返す。火仔の背に回した手に力を込めて、火仔の胸を引き寄せた。

「火仔」

自分の胸にかかる火仔の身體の重みと軆温をこんなにじっくりと確かめたことはなかったかもしれない。

「愛你」

自分でも驚くほど素直に、その言葉が声になった。

少しだけ驚いた顔の火仔に、阿Bから口づける。自分より巾の広い肩に両の腕を回して抱きつくと、火仔が阿Bの背に腕をさし入れて身體を抱きしめた。

「もう一度、言ってみろ」

「唔好{いやだ}」

「聞きたい」

耳仔{みみ}を噛むように囁かれ、阿Bは思わず、火仔の背に回した指に力がこもる。

「你を、愛してる」

今度は火仔が、阿Bを抱く腕にそっと力をこめた。

頭を抱いて、耳仔に今度は火仔が同じ言葉を吹き込む。火仔の声が、阿Bの耳の中で何度もこだまする。

「阿B。我から離れるな」

頷くと、また、火仔の吻が迎えにきた。

< 了 >

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(*1)旧正月の元旦.

(*2)香港島側の地名.「ぢょんわん」あるいは「セントラル」とも.

(*3)九龍側の地名.「チムサーチョイ」

(*4)香港のテレビ局.無綫電視台.

(*5)罵りの言葉.

(*6)ライシー.香港のお年玉.子どもに上げるのではなく、上司が部下に与えたり、日頃世話になっている近隣の人に渡す.

(*7)日本の出前一丁.

(*8)美男.

(*9)「あいやー」という感歎詞.

(*10)香港島と九龍側を行き来するフェリーの2等客室.吹きさらし.

(*11)「お金が貯まりますように」の意味だが、「新年おめでとう」の挨拶に

(*12)「九龍」の地名の由来には、周囲の九つの山から龍が下りてきたという説も.

(*13)九龍城砦はもともと清国の飛び地で、英国租借地ではなかったがゆえに、香港の統治の及ばない地帯だった.

 

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