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Sleep Warm 5 – Wednesday –

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Sleep Warm 5 – Wednesday –

目覚ましのアラームは午前6時40分、日が昇るか昇らないかの頃。左を下にして眠りについたのに、アラームに起こされた水曜の朝、右を下にして、かつ、腕に温もりを抱いて目が覚めた。
寝惚け眼の視点がようやく定まりつつ腕の中にある温もりがなにゆえか認識できると、「わ」と声を上げそうになって、慌てて口許を押さえ、驚きを飲み込んだ。
鼓動が早くなっていることが、触れている腕から伝わらないだろうか。呼吸が整うのを待ちながら、薄明るくなりかけた部屋の中、青白い陰影が落ちた姫の瞼を凝と見つめる。
口許を押さえていた手をそぉっと伸ばそうとする。できるだけ動きが少ないようにと意識して妙な力が入るせいか、手が震える。もうちょっとで睫毛に触れそうになったところで、姫が空気の幽かな動きを感じたのか、寝言交じりの吐息とともに頭を動かした。
慌てて指を引っ込めて目を閉じる。1秒って思っているより長いんだったな、と思いながら、ゆっくりめに15秒数えて、そっと片目だけ瞼を引き上げた。
姫はまだ眠り続けていた。
ほっとして、さらに慎重に、自分の左手を姫の身体の下から抜き取る。抜き出した手はややだるく感じるが、痺れてはいないことを思えば、さほど長時間抱き合って寝ていたわけではなさそうだ。
暫く、姫の眠っている横顔に視線を注ぐ。5分間隔のスヌーズが鳴って、慌ててアラームを止めた。それでも姫は起きる気配がない。
頬に触れるか触れないかのキスを残し、毛布を掛けなおしてやって、漸くベッドから降りた。
迷いながら、コーヒーを淹れただけで洗面をして身支度を整え、家を出た。多めに作ったコーヒーはコーヒーポットに移してティー・コージーを被せてきた。隣に、姫のカップを伏せ置いて。

@@@

「え。大谷邸、今から変更?」
クライアントとの打ち合わせに出ていたコンサルタント担当のアシスタントパートナー、宇草が午後に戻ってきてから、その日の午後の仕事の予定が大幅に狂った。
「そう。予算は大きく増やせないけど、設計は大幅に変更希望」
宇草がノートを見ながらしれっと言う。嫌な予感、と助手の那珂川が、スーツのやや短めのスカートの裾を手で伸ばしながら隣の机で呟いた。
「変更って、どんなの」
「バリアフリーにして欲しいそうだ」
「バリアフリー?」
那珂川が大谷邸のファイルを繰る。
「大谷さんって、ご夫婦とお子さんふたりでしたよね」
「高校生の息子さんと中学生の娘さん、か。今日の打ち合わせまでの間、随分連絡が空いたようだけど、何か事情が?」
那珂川と一緒にファイルを覗き込む。設計がほぼ決まり、ということになったのは3ヶ月ほど前だったはずだ。そのあと、しばらくストップしてほしい、と連絡があった。
「一番上にもうひとり娘さんがいるんだが、その娘さんが怪我をして車椅子生活になるらしい」
那珂川も自分も、どう反応したものか戸惑い、互いに目くばせした。目の前に当のクライアントがいなくても、ずけずけとは聞きづらい話だ。それを見てとった宇草が、軽くため息を吐いて、「詳しく聞いたわけではないんだけど」と前置きして、アメリカでチアをやっていた娘さんが、3ヶ月前、練習中の事故で怪我をして、寝たままでもやっと動かせるようになったので、日本へ連れ帰ってきて同居させることにしたらしい、という話をした。
「チアって大学のクラブ活動か何かですか?」
那珂川が訊ねる。
「大学は卒業して、NFLのチアをやっていたそうだ」
「プロチア、か。せっかくなれたってのに、悔しいだろうな」
宇草が頷いた。
「日本へ帰るのも、かなり長いことかけて両親が説得したらしい」
「チアガールにプロってあるんですか?」
「プロスポーツの応援をしているチアの女の子たちは、プロとして憧れの職業なんだ」
「へえ。高給取りとか?」
「聞いて驚くなよ」
那珂川が興味深々で傾聴する。仕事をしているときより真剣な顔かもしれない。
「一ヶ月5万円くらい」
那珂川と宇草が、そんなに安いのか、と揃って驚きの声を上げた。
「なんでそれなのに、憧れの職業なんですか。あっ。スポーツ選手と結婚率が高いとか?」
「それもハズレ。チアのメンバーは、選手と口も利いちゃいけない。罰金を課されたり、チームをクビになる」
「体重管理や、髪型を勝手に変えちゃいけないっていうのは聞いたことがあるけど」
そんなに厳しいなんて、と宇草も呆れる。
「職業プロと言っても、その給与じゃ生活できないから、チアの女の子たちは生活のためのバイトをしている。それでも、憧れの職業って言われるくらいだから」
やっぱり気の毒だな、と宇草がため息を吐いた。
ただ夢破れて帰国してくるには、あまりにも大きな挫折だろう、と、嬉しいはずの新築の家に、一生を変える大怪我をした娘を迎える大谷夫婦の気持ちを考えると、設計する側とて暗澹とした気持ちになる。
が、そうも言ってられない。
「変更していい、つまり夫妻が妥協してもいいと言っている部分はどこ? それと、バリアフリーと言っても細かい希望を聞かなくちゃ」
「もちろん、聞いてきた。説明しよう」
阿吽の呼吸で那珂川が設計図と模型を準備し、ミーティングが始まった。
(徹夜、だな)
当然、帰宅しないで事務所{ここ}で、という意味だ。
姫にメールを入れるべきかどうか、悩む。午後から、小屋で打ち合わせをしているはずだ。夕方、定時に仕事を終えて行けば会えるのではないか、と太市が言っていたから、6時くらいには打ち合わせが終わるのだろう。
「なら、その頃に、電話・・・してみるか」
今朝の温もりがふと甦る。姫の髪の匂いまでが鼻先をかすめたように感じた。
「・・・帰りたかったんだけどな」
太市のことをおせっかい呼ばわりしておきながら、実はしっかりと時間を合わせて小屋のあたりに行ってみる気になっていたのだ。
「依嶋さん、ちょっと見ていただけますか」
那珂川から呼ばれ、慌ててサーバーからコーヒーをカップに注いだ。
先に、明日まで仕上げてしまわなくてはならない案件をひとまず片付け、その後、大谷邸に取り掛かる。土地が傾斜面で、玄関は地階から階段で上がって南側1階に。1階の北側は隣家の土地と接していて、玄関としてはふさわしくない。地階は車2台分の駐車場。車椅子で家の中に入るためにはどうしても地階からしか入れないが、エレベータを設置するのは予算的にかなり痛い。
「となると、スロープしかないんだけど」
駐車1台分潰せばスロープは作れる。しかし、車1台は家の主人が通勤で使うと聞いている。となると、車椅子生活者の利便性のためには、車は2台所有するほうが便がいい。
「帰らないのか?」
宇草が湯気の立つマグカップを置いてくれた。
「・・・ああ。もうこんな時間か。先に帰ってもらっていいよ。那珂川も帰してやって」
「家でやらないの?」
「うん。今日は帰らないでここで――」
そこまで言って、大事なことを思い出した。
「どうした?」
「電話!」
「電話? 仕事の?」
「・・・――いや、私用だけど」
「今からじゃだめなのか?」
「うん。ああ、そうか。今からでも」
机の上に置いた携帯の時計を確認し、「今日は帰れない」と伝えるにはまだ常識的な範囲を出てはいないと思い、ちょっとほっとする。
二人を送り出してから、洗面所で軽く顔を洗った。事務所のほかの所員ももういない。夜食を買いに行こうかどうしようか、と考える。食べると眠くなるしな、と携帯のフラップを開け閉めしながら考える。それに、姫への電話をどうしようか。小屋との打ち合わせのあと、姫はどうしただろうか。
「また、太市も一緒に飲みに行ってるかも」
ぱちん、と携帯を閉じた。「掛けないほうがいいかもしれない理由」を見つけて、ほっとする。
その途端、携帯が鳴った。表示番号を見るヒマもなく、ワンコールで切れた。
着信履歴の表示ボタンを押す。
「・・・姫?」
掛かってくるとは思わなかった相手からの着信、掛けたいと思っていた相手からの着信に、必要以上にどきどきさせられる。着信履歴の番号に、コールボタンを押して折り返してみた。
「えっ?」
事務所のすぐ外で、電話が鳴り始めた。
急いで事務所の入り口のドアを開けてみる。
コールしたままの電話は、目の前で、姫が手にした携帯電話を呼び続けていた。
「仕事?」
携帯を切りもせず、姫が尋ねる。
「そ、う・・・。ちょっと急ぎの変更が入って。でも、どうして」
こちらも掛けた電話を切ることも忘れて、姫に問う。
「仕事ならいいんだ。遅いから気になっただけ。太市のやつが、今日は依嶋が早く帰ってくるはずだなんて、口すべらせやがったもんだから。・・・なかなか帰ってこないから」
漸く、姫が携帯を切った。
コール音が消えたビルの廊下は、すでに他のテナントの人気もなく、ふたりの間にも気まずさばかりが漂う。
「そんなわけで、今日は多分、帰れないと思う」
「――わかった」
あっさり踵を返して、事務所前の階段を下り始めた姫の背中へ、言葉を投げかけた。
「食事は?」
「田代先輩んとこへでも行くよ」
姫の歩調に合わせて、自分も階段を降りる。姫は振り返りもせずに訊いてくる。
「そっちは?」
「ちょうど、何か買いに行こうかと」
コンビニへでも、と付け加える。
手にした携帯が鳴り出した。歩みを緩めて、携帯の表示画面を見る。那珂川からだった。迷ったが、出ることにした。何故なら、前を降りる姫の歩調が、自分に合わせたように緩んでくれた気がしたから。
「ごめん。12時までにはなんとか平面図を送れるようにする」
時計は持っていないが、さっき、机の上の時計は10時を過ぎたところだったので、大体の目安を知らせる。姫が自分の腕の時計を見る。ふたりとも、踊り場で歩みを止めていた。
電話を切って、まだ時計を睨んでいる姫に告げた。
「事務所に戻らなきゃ」
時間的に猶予がないのは、たぶん、今の電話の受け応えから姫にもわかっただろう。
それじゃあ、と階段を昇り始めたところへ、どん、と背後から体重がぶつかってきた。
何が起こったのか最初はわからず、ただ、シャツを通して肌に伝わってくるあらゆる感覚をひとつずつ順番に認識していく。背中に触れる姫の革ジャンのごつごつしたジッパー。背側の肩口に触れる柔らかいマフラー。左の腰を抱いている姫の右手。右の肩を抱いている左手。
上着も着ずに事務所の外へ出てきた背中が、冷えていたのがわかる。冷気から遮られ、じんわりと体温を取り戻してきた。身体を抱きとめている手は、手袋もしていないから冷たいはずなのに、やがて、互いに温かさが戻ってくる。
襟首に冷たい感触があった。しっぽに結んだ髪に、姫が寒さに鼻先を埋めているのだ。
何か言わなくては、と身体を捻ろうとすると、姫の腕に力が加わり、身動きするのを封じられる。首の付け根の冷たい感触が、生温かい柔らかな感触にすり変わった。思わず、身体が震える。唇だけでなく、かすかに歯が当たっているところが熱くなってきて、腕も手も、より強く抱きしめてくるのを感じて、胸の裡が温かい水で満たされていくような気持ちになった。このまま、感情があふれ出すまで抱きしめられたままでいたなら、振り向くことができるのではないだろうか。振り返って、自分からも姫を抱きしめることができるのではないだろうか。そうすれば、わだかまりが氷解しないはずがない。左腰を抱いている姫の手に、自分の左手を重ねようとしたときだった。手に握った携帯電話がまた鳴り始めた。
まるで魔法が解けたように、瞬時にふたりともが動いた。急いで振り返ったが、姫は一気に階段を駆け下りて行き、遠くなっていく足音だけが残る。フェイドアウトする姫の足音とは対照的に、手の中の携帯が単調なリズムで鳴り続けていた。諦めて、受信ボタンを押す。
「・・・もしもし? ああ。3Dは那珂川がやってくれるっていうから、任せることにした。だいじょうぶ。仕上げられると思う」
宇草との短い電話を終えたあと、階下に続く階段を見下ろすと、姫が落としていったマフラーが下の階の踊り場に見えた。
ゆるゆると階段を降り、マフラーを拾う。シンデレラじゃあるまいし、と泣き笑いになる。だが、おとぎ話と違い、自分はこの落し物を持って帰るべき場所を知っている。仕事で過ぎていく水曜日の夜。明日はこのマフラーを持って、「うち」へ帰るから、とマフラーの持ち主に対して呟いた。

<sleep warm 6へ続く>

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