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雨中感歎號 (三)

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雨中感歎號 (三)

おかしな客が帰ってしまうと、ぱたりと客足はなくなった。雨のせいというのも十分あるだろう。日本人客向けをメインにしているから、日本人が真夜中になるとあまり街をうろつかないというのもあるかもしれない。
そもそも、この店も、翡翠夜總曾{クラブ・ジェイド}と同じで夜霧の紹介でありついた職だ。夜霧は何を生業にしているか明確なことはよくわからないが、かつて阿Bが母と共に棲んでいた九龍城砦に住み着いていた変な日本人だ。時折九龍城砦に妙な思い入れがある外国人がいたりするが、夜霧はそういうわけでもなかったらしい。九龍城砦が壊されると決まり、自分の住む区域の取り壊しが申し渡されると、即日即決、出て行った。城砦の住人は、右から左にそうそう城砦の外に職も住まいも見つけられないような人間ばかりが住んでいたのだから、夜霧のほうがかなり特殊なのだが。
阿Bは、城砦から出た日、その足で夜霧のところを訪ねた。自分ひとりが生きていければいいので贅沢は言わないと言い、住むところと食べていく手段が欲しいと言った。母と、まだ赤ん坊の妹は、どうやら母の愛人で妹の父親らしい男が世話してくれることになっていたから、阿Bは自分の身だけ始末できれば良かった。
夜霧が何をして食って行っているかは知らないので、危ない仕事をあてがわれても、それでいいと思っていた。母と妹に迷惑さえかからなければいいのだ。
だが、そんな阿Bの心を見透かしていたのか、夜霧は阿Bにこう諭した。
「自分だけで生きて行こうと思うのと、自分だけ生きていければいいというのは別物だ。自分だけ生きていければいいと見切ってしまうことは他人の存在を切捨ててしまいがちだ。他人がいなくなると自分という存在も見失う。そうなれば、堕ちるのも早い」
そう言ってから、こうも言った。
「堕ちたいわけでないなら、自分で住む場所をなんとかできるまで、俺のところに住んで仕事を探せばいい」
「上手くいかなくて、堕ちてもいいと思ったら?」
「ここを出て、裏通りでポケットに手を突っ込んで立ってれば、誰彼なしにおまえを裏道に引きずり込んでくれるさ」
香港人で城砦を知っているおまえなら、それがどういうことかわかるだろう? とにやりと笑った。
思えば、生まれたときから父親がいなかった阿Bにとって、城砦に夜霧が現れてからの数年、そして城砦を出てから一年、夜霧はまるで父親のような存在だったかもしれない。夜霧の住む狭い唐楼{アパート}に同居させてもらい、夜も昼もなくいろいろな仕事を探して働いた。九龍城砦の中では、悪いことも悪くないことも含めて日陰の世界だったが、金銭的に豊かでないことは変わりなくとも、その気になれば日の当たる世界で働くことはできるものだ、と思えるようになったのは、夜霧といっしょに暮らした城砦を出てからの一年のおかげだったと思う。しかし、実際、思い返せば、その一年も夜霧のなんらかの援助なしでは、やっていけなかったことだとも身に沁みている。夜霧の紹介してくれた仕事を足がかりに、時に自分で、時にまた夜霧の口添えで仕事を変えていき、自分でひと部屋の房租{やちん}を払えるようになったときも、バッグひとつになけなしの財産で夜霧の房を出て行く阿Bに「堕ちそうになって、堕ちたくないと思ったら、戻ってこい」と言ってくれた。
「よう。元気か」
頭の中で思い出していた夜霧の声と、現実の耳に飛び込んできた声がぴたりと一致して、阿Bは思わず、手にしていたビデオテープを落としそうになった。
「驚いた。夜霧さんか」

◆◇◆◇◆◇◆

 阿Bがこの店にいるときに、夜霧が訪ねてくるのは初めてではない。夜霧の唐楼が割合近くということもあるが、食事の外賣{テイクアウト}をした帰りにふらりと立ち寄ったりするのだ。もっとも、阿Bの輪番{シフト}を知ってて来るのでもなかろうが、ちゃんとを自分の分とふたり分を持ってくるから不思議だ。
「的士飯ですか」
阿Bがくすっと笑った。
ほら、と夜霧が差し出した外賣の発泡ケースからかすかな温もりと、空腹を刺激するにおいが上がる。
「いい加減、ここの仕事も辞めたらどうだ? 翡翠だけで充分食っていけるだろうが」
的士飯を掻っ込みながら、口にものが入れてくぐもった声で夜霧が、阿Bに言った。的士飯は、的士{タクシー}の司機が時間がないときに、注文してさっと出て来てさっと食べられるという意味の食べ物だ。ある意味、夜霧のこの食べ方は、由来に適った食べ方である。
「翡翠のほうを、辞めちゃだめかな」
夜霧の、的士飯を口に運ぶ手が止まっているのが、目の端に入っていた。恐らく驚いているか、あるいは呆れているかもしれない。そう思うと尚更、夜霧のほうを見ないようにして、阿Bも的士飯を掻っ込んだ。
しかし、発泡ケースの中の飯を空にしてしまうと、阿Bは困ってしまった。
「珈琲、飲む?」
そそくさと小銭を手に握り、外へ珈琲を買いに出て戻ってくると、夜霧は的士飯を食べ終えていた。
「Thanks」
阿Bから珈琲を受け取りながら夜霧は、礼こそ言え、さっき阿Bが口にしたことには触れる気配を見せない。雨音だけが店を訪うこともなく行き過ぎていき、男がふたり、それぞれに熱い珈琲を啜るだけの時間が過ぎる。
「好好飲{ごちそうさん}」
夜霧は、言うと同時に腰を浮かせた。
「あ。こちらこそ」
阿Bが慌てて、飯の礼を言う。
そこへ客が入ってきた。夜霧は客を見て、すかさず口笛を吹く。
「どうした、翡翠夜總曾{クラブ・ジェイド}の女王様。店にも出ないで、独りで見るビデオでも探しにきたのか」
にやにやと笑う夜霧を、美紅は冷たく一瞥して言った。
「あんたみたいな、うちに来れない客には関係ないわ」
気の強い美紅らしい返事だった。
「鼻っぱしらの強いのは相変わらずだな。まさかおまえがここまでになるとは思ってなかったぞ」
夜霧の楽しそうな笑い声に、阿Bは驚いた。いや、驚いたのは夜霧の笑い声だけではない。
「まだ生きてたんだ、夜霧」
美紅と夜霧が知り合いだとは阿Bは全く知らなかったのだ。
「知り合いもなにも、我{あたし}を翡翠に入れたのは夜霧だもの」
おかしそうに美紅が言った。それよりも私のほうこそ驚いたわ。阿Bと夜霧が知り合いだったなんて、と美紅が言うと、夜霧は阿Bに目配せをした。翡翠を辞める云々の話は今するな、という意味だろうと思った。阿Bもかすかに頷き返すだけにした。
「倫は元気か」
「まあね。最近は年を取ったのか、大人しいもんだわ」
「余り、おまえのところには来ない、か」
夜霧がにやにや笑いながら、煙{たばこ}に火をつけた。
「ああ、もう。あんたのその嫌な性格! そうよ、お察しの通りよ。他に情人がいるかも、って言いたいのでしょう?  私にだってそのくらいの見当はついてるわ。伊達にあのじいさんの情人を十年もやってないわよ」
美紅は夜霧の口から煙をむしりとった。夜霧は吻{くちびる}の軽い痛みに顔をしかめながらも、笑っていた。
「美紅の情人って、許経理{マネージャー}じゃなかったの」
クラブの誰もが、美紅は経理{マネージャー}の許の情人として、不可触の女としていた。いや、もしかしてそう思っていたのは阿Bだけだったのだろうか。
「美紅は、大四名(*4)の大佬の女だ」
なんともあっさりと、夜霧は口にした。大四名と言えば、香港の黒社会で大きな勢力の十四K、新義安などに比べれば、新しくはあるが、勢力を伸ばしつつあるグループだ。
「あのあたりは天有眼(*5)の勢力が強いはずじゃ ・・・・・・・ 」
てっきり翡翠夜總曾も天有眼の勢力権だと思いこんでいた阿Bにしてみれば、夜霧と美紅が知り合いということよりも、美紅が許経理の情人ではなかったことよりも、驚くべきことだった。
「あのあたり一帯は、十年ほど前まではもっと大四名のなわばりが広かった。今は天有眼がじわじわと手を広げてきているが、な。大四名は麻薬{くすり}を扱わない。だからおまえを許の店に預けた」
堕ちるためには薬に手を染めるのが一番だ、とは、かつての阿Bに夜霧がくどくどしいまで繰り返した言葉だ。確かに、夜總曾などは麻薬の取引のために利用されることが多い。店の経営者がすっかり組の子飼いのようになっていたり、あるいは経営そのものが組だったりするからだが、なるほど翡翠ではそれらしい場面を阿Bは見たことがなかった。
「夜霧は、よほど可愛いみたいね、阿Bのことが」
美紅が笑った。まるきり子供扱いされたようで阿Bは半分面白くなく、しかし残りの半分は、夜霧に対しての甘えにも似た感情でくすぐられ、ほのかに心地良かった。そんな阿Bが何も言葉を発せないでいると、夜霧が言った。
「男は女ほどしたたかじゃないからな。守ってやらないとすぐに堕ちてしまう」
紅美と阿Bは顔をみあわせて笑った。
「それって逆なんじゃないの」
夜霧は鼻で笑っただけでそれについては何も言わなかったが、
「それで? 美紅、なんの用でここに来たんだ?」
唐突な質問に、美紅は一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐにいつもの勝気な態度を取り戻して、つんとして言った。
「べつに。ちょっと寄ってみただけよ」
「つまみ食いはほどほどにしておけよ。阿Bのほうが困ることになる。たまには若い男仔の精気も欲しいのはわかるがな」
「ひっどい・・・! それじゃあまるで、わたしが凄い鬼婆みたいじゃないの!」
夜霧の背中を思いきり叩いて、それをしおに、美紅は何も言わずに店を後にした。明らかに阿Bに何か言いたげな表情を残して。
「夜霧さんって、店に妹{おんなのこ}も紹介したりするんだ」
夜霧が、夜總曾がどんなところか知らないわけがない。店の妹は、店の外でも客の相手をする。それだけではなく、美紅のように、気に入られさえすれば、店のオーナーや幹部、下手をすれば組の男の情婦になる。夜霧はそれを承知で美紅を紹介したことになる。
「美紅に興味があるのか」
夜霧はからかうように笑いながら言った。
「そんなんじゃないよ」
すぐに否定したが、その後にまたすぐ、聞き直した。
「長い付き合いなの?」
じろりと夜霧が睨んだ。吸いかけの煙をしばらく黙って吸っていたが、やがてカウンターの横板で煙を揉み消して言った。
「やめとけ」
「え」
「さっき聞いたと思うが、美紅は陀地{シマ}の首領の女だ。美紅が店の客を相手に稼いでいる限りは構わないが、遊びに夢中となれば話は別だ」
そしていかにも不機嫌そうに前髪の下から阿Bの目を見て言った。
「美紅を本気にさせるな。姑爺仔」
最後の「姑爺仔」で夜霧は目元を綻ばせた。
「美紅だってまだ三十にもなってない女だ。いくら生きていくためと言っても、爺の相手や酔客の相手ばかりじゃ面白くはないだろうよ。だから手軽な遊びは大老もまだ可愛いものと目溢ししているうちはいい。だが、美紅がそれで間男に本気でいれこんだら、ふたりそろって」
阿Bの眉間に夜霧の左手の人指し指が向けられる。
「死にたい訳じゃないだろう?」
本当に照準があわされているように阿Bはうごかなかった。だが、動けなかったわけではない。生きることに固執してこなかっただけに、生と引き換えにするほどの恋愛に自分が陥るとは今までも、これから想像もつかないだけだった。
「おまえは変わってない、か」
夜霧が、やるせなく笑った。
「それよりも、翡翠のことだが、本気で辞めたいと思っているのか」
夜霧は飲み終えた珈琲の紙コップに、カウンター中にあったポットから湯を注ぎながら言った。もうすっかり、先刻までの深刻な雰囲気は消え、ただの雑談めいた会話の調子になっている。
「辞めると、許経理に紹介してくれた夜霧さんの立場が悪くなる?」
阿Bも夜霧を真似て、空いた紙コップに湯を注いだ。
ふん、と湯を一口すすりながら、夜霧は少し考えているようだった。
「しつこいようだが、美紅は関係ないな?」
確かにくどい質問だったが、阿Bは笑って、無{ありえない}、と言い切った。
夜霧も笑って、なら好きにしろ、と言った。
長身の夜霧は、阿Bひとりが座るのが精一杯の狭い業務カウンターに手をついて、少し背を丸め、阿Bの喉元に下がった鎖を引っ張って言った。
「翡翠は肌に合わない、か」
阿Bの着けている鎖には、もともと、翡翠がぶら下がっていた。夜霧の許へ転がり込んだ阿Bが、媽の持ち物の中からこっそり持ち出してきたものだ。だが、それを身につけるでもなく、阿Bは結局、翡翠を夜霧に預けたまま、今に至るのだった。媽の翡翠を夜霧に預けるとき、「翡翠はお守りになるから着けていればいいのに」という夜霧に、同じ科白を阿Bは言って、夜霧に預けたのだ。

◆◇◆◇◆◇◆

レンタルビデオ店の引き継ぎは朝。出勤前に立ち寄って返却だけしていく客が多いから24時間営業だが、朝の輪番{シフト}の女子{おんなのこ}はいつも遅れてくる。今日も交代時間を過ぎても来ないから、いつものことだと阿Bも諦めて、紙コップに珈琲を入れたところで、入り口のドアが開けられた。
「早晨{おはよう}」
入ってきたのは交代の女仔ではなくて、美紅だった。
「返却ですか」
Bが冗談めかしてビデオを受け取るための手を出すと、美紅はその手の上に麥富労{マクドナルド}の袋を乗せた。
「わざわざ?」
阿Bが笑って紙袋を開けて覗き込もうとすると、美紅は信封{ふうとう}を一通差し出した。怪訝な顔をしながらも、麥富労の袋を脇へ置き、阿Bは信封を開けた。
ところが、中を見るとたちまち、阿Bは信封を力任せに握りつぶし、「余計なお世話を」とそれを破り捨てようとして美紅に止められた。
「可唔可以呀{できるの}?」
それを破り捨てることができるのか。美紅は訊いていた。
「妹妹{いもうと}なんでしょ?」
手の中で握り締めた信封を阿Bは見つめた。美紅がその信封を取り上げ、丁寧に皺を伸ばして、中身を取り出してやった。中からは写真が一枚と、手紙。
「愛伶、というのね」
阿Bがはっとして、美紅を凝視した。だがすぐにその名前を誰から聞いたのかが察せられ、唇を噛んだ。
「あいつから聞いたのか」
「そうよ。これも火仔(*6)から預かってきたの」
「火仔、ね。何時の間にか親しくなったようだな」
だが、託した輝火も、中身は写真と手紙だとは知らなかったはずだと、美紅は今になって悟った。なぜなら、美紅には、中身は阿Bの媽が阿Bに渡したがっているささやかな金高の金だと話したのだから。阿Bの媽は輝火の父の情人{あいじん}で、ふたりの間に生まれた愛伶という娘は、阿Bの父親違いの妹妹でもあり、同時に、輝火の母親違いの妹妹でもあるのだ。阿Bは愛人のもとで暮らす媽と妹妹と一緒に住むわけにもいかず、ひとり家を出て家族と離れて暮らし始めたのが一七歳のときだったという。
「金なんて、寄越さなくていいと言うのに媽{ははおや}は聞きやしないから、中身なんて見もしないでつっ返してきたんだ」
自分のせいでくしゃくしゃになってしまった愛伶の写真を、美紅から受け取った阿Bは、愛しそうに広げて、見つめた。
「『土曜日、愛伶に会ってやって。』」
美紅が、手紙の短い文面を読み上げた。阿Bに手渡すと、阿Bは、写真を見る眼差しと同じに愛しそうに文字を眺めた。
この男仔は、媽からの手紙など、一体どのくらいの年月、見ていないのだろう。
美紅がそう思うほど、阿Bの眼差しは、懐かしむような、その短い文章にこめられているであろうはずの欠片ほどの愛情も余さず読み取ろうとしているかのような、そんな淋しい細蚊仔{こども}のような眼をしていた。

< 四へ続く >

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(*4)架空の、香港のヤクザ組織の名前。●●組、というようなもの。

(*5)これも架空のヤクザの組織名。

(*6)輝火の愛称。

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