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雨中感歎號 (七) 

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雨中感歎號 (七)

阿Bが落ち着きを見せたと思われてから、エリックは質問をしてみた。
「阿B、女性と寝たことがあるって言っていたな」
「あるよ。最初は十二のとき」
つい漏れる長い息が、ため息なのか唸り声なのか。
「・・・早いな」
「何をしているかくらいはわかってたよ。そこまで細蚊仔{ガキ}でもなかった。金のためだったし」
「男とも?」
「男はもっと前だよ。10かもう少し前だったかも」
さすがにエリックの顔が曇った。
「そっちは、何をされてるか、最初はわけもわからなかったな。それまではただ、男のものを咥えてりゃ金がもらえたのにさ」
あの、光も射さない闇の街市{まち}の一角で、声を出しても誰も助けになんか来てはくれないのはわかっていたけれど、それでも声を出すまいと思って耐えていた。それが阿Bの両の手に残る傷跡となった。
一方、エリックはもう声にもならない。つまりは、幼い頃から男相手に口交させられてたわけだ。稼ぐために。
「いくつまでだ?」
「城砦を出る少し前まで」
つい数年前までということか。
単純に表現すれば、「怒り」ということにもなろうが、エリックの胸の中には、複雑な思いが沸き起こっていた。わずか十やそこらの細蚊仔{こども}が、金のために身體を売らなくてはならない暮らし。それは、城砦だけには限らないだろうが、本当にそうしなくては生きていけなかったのだろうか。何か他に道はなかったのだろうか。阿Bのような細蚊仔たちは、どのようにして大人になっていったのだろうか。
「エリック、さっき」
「うん?」
「我、何か言いかけて、でも、何を言いたいかわからないままにいたら、エリックが『後で話してやるから』って。・・・言ったよな?」
「ああ。そういえば」
言ったような気もする。あのとき、何を話してやるつもりだったのか。
「唔該。我も覚えていない」
エリックが、あまりすまないと思っていなさそうな詫びを口にして笑う。
「今晩はこのまま体を休めろ」
「ここで? でも、你が狭くなる」
「いいだろう。いまさら。狭くても、ソファで眠るより、ベッドで眠ったほうがふたりとも疲れは取れる」
もう、何もしないから、とエリックは付け加えた。
不思議な男だな、と阿Bは思う。あっけらかんと自分の性癖について話をし、まるで教科書を読んで教えるように做愛のことを話す。
自分が寝転んでいる隣で、壁に凭れて教科書を捲っているエリックの横顔を凝と見ていると、エリックが「眩しいか」と訊いてきた。
「いや。無問題呀」
そうか、と言いながら、手元の明かりの角度を調整し、自分の膝を立てて、できるだけ明かりが阿Bに届かないようにしてくれる。
媽{はは}にさえ、こんな優しい想い出はなかったと思う。
「好甜甜呀{なんか、甘い}・・・」
「ん?」
阿Bの呟いた言葉がエリックには聞き取れなかったようで、訊き返してきたものの、追求はなく、毛布を掛けなおしてくれただけだった。

◆◇◆◇◆◇◆

ビニール袋に入れたポリプロピレンの容器を提げて、エリックが部屋に戻ってきた。
「阿B。起きろ。朝メシ買ってきた。食ったらガーゼを取り替えるぞ」
目を擦りながら阿Bが起き上がろうとするが、うめき声が思わず出る。
「・・・どうした」
起き上がりかけてなかなか起き上がらない阿Bに、湯気の立つ容器をテーブルに置いて、エリックが近寄った。
「痛むか」
「いや、痛みは・・・。薬、もらってるし」
額を押さえる阿Bの頬にエリックが手を当てて、舌打ちをした。
「熱が出たか。まあ、そりゃそうだな。結構大きな傷だったし。どれ。先に傷を見せろ」
阿Bの足に絡まっている毛布を剥がして、太腿の包帯を外した。
「縫ったところはちゃんと縫えてるが、たぶん、炎症を起こしてるな。昨日は熱はなかったわけだし。薬を変えるか」
「唔該{ごめん}。面倒かけて」
エリックは鼻を鳴らしただけで、それについては何も言わない。
「メシは食えそうか」
「今は、いい」
「だろうな」
目を瞑っている阿Bの枕元に、冷蔵庫からペットボトルを取り出して持ってくる。ついでに、棚の引き出しから薬のシートも2枚取り出して、一緒に置いた。
シートから1錠ずつ、薬を取り出し、阿Bの鼻を摘んだ。
「口開けて」
「今、痛み止めも一緒に放り込んだから、4時間空けてから飲め。メシは欲しくなければ食わなくていいから」
「Thanks呀。エリック、考試{試験}は?」
「これから行くよ。今日は2コマだけだから、4時にはここへ戻って来る。それまで大人しくしてろ」
「居て、いいの?」
阿Bがようやく目を開けて、エリックを見た。
「その熱じゃ歩けないだろう。傷もまだ痛むだろうし。水だけは飲めよ」
このままとっとと寝かすのがいいな。
そう考えて、自分の分の食事もせず、エリックは部屋を出て行った。
どこに時計があるのだろう。4時間後に薬を飲め、と言われたが、時計の場所を聞かなかった。カチカチと秒を刻む音が響くように聞こえてくる。自分の部屋でも、こんなふうに寝込んだことはない。
いや、子どものころ、そういえば、ひどい風邪を引いて寝込んだことがあったっけ。そんなことを思い出しながら、次第にうとうとしてくる。熱で身體が体力を使わないよう、回復をさせるよう眠りを要求しているのが良く分かる。
沈んでいく意識の中で、半分は今の阿Bが起きたまま、半分は夢の中で昔に戻っていく。
《阿媽{母さん}。アイリーンが泣いてる》
子どもの自分が媽を揺り起こしている。酒を飲んでいるのか、いや、今思えば、もうあの頃から鬱状態で媽の黐線{精神}は病んでいたのだろう。第一、正常な精神の親なら、年端も行かぬ息子に、身を売らせたりはしない。
《いいのよ。赤ん坊は泣くものなんだから》
《でも、阿媽、顔色が悪いよ。紫色になってる》
妹の愛玲{アイリーン}は、生まれつき心臓が悪かった。だが、それがわかったのもずっと後のことだ。醫院にかかる余裕なんてなかった。どうしようもなくなって、城砦の醫生のところへ駆け込んだが、醫生は黙って、すぐさま白車{救急車}を呼んでまともな醫院に行けとだけ言った。
《阿媽。アイリーンは?》
《大丈夫よ。醫生が診てくれてるから》
《明日会える?》
《いいわよ。醫院{病院}に連れて行ってあげる。いい子にしてたらね》
『いい子』が何を指しているのかは勿論分かっていた。媽が稼がなければ、自分が稼ぐしかない。自分にできることは、媽が男たちと交わした金が係わる約束を、自分が果たすことだった。
《阿媽。醫院へ行こうよ。アイリーンが待ってるよ》
《今日は行けないわ、阿B。行ったら、佢{あの人}がいるもの》
『あの人』
陳輝大。媽を拾い、捨てた男。佢がいなければ。媽が佢と会わなければ。アイリーンが生まれなければ、我は――。
「阿B」
媽の声ではない誰かが自分を呼ぶ。
「阿B。無問題呀? 好痛呀{痛むか}?」
頬に宛てられた手は媽のような柔らかさは無いが、優しく自分を気にかけてくれる。
重い瞼を引き開けてみると、不思議な色の瞳の青年が自分を覗き込んでいた。
「あ、あ。・・・ここ・・・そうか。你{あんた}の・・・」
エリックがほっとして、頬から手を離した。
「まだ大分熱いな。当たり前か。半日では」
阿Bの枕もとに置いてあったペットボトルを持ち上げたエリックは、中身の量を確かめ、あまり減っていないのを見ると眉を顰めた。
「・・・我、何か言ってた?」
ボトルのキャップを開けて、阿Bの背に手を入れて起こしてやりながら、エリックが阿Bに水を飲ませた。
「寝言なら、アイリーン、とか、佢{やつ}、とか」
「とか? ほかには?」
「ママ、とか」
阿Bの顔が赤くなるのを認めて、エリックが意地悪そうに笑う。
「まだまだ細蚊仔{おこちゃま}だな」
「そんなんじゃない」
むくれて、それきり黙ってしまった阿Bに、タオルを水で絞って持ってきてやる。頬を拭いてやろうとしたところで、阿Bのページャーが鳴り出した。
「鳴ってるぞ」
阿Bはページャーの番号を一旦見て、無視をする。
「いいのか?」
「いい」
「じゃあ、傷を見せろ。ガーゼを替えてやる」
包帯を外し始めると、ページャーが再び鳴った。
阿Bがベッドの上、少し遠くに放り出したページャーは、阿Bからは見えないが、エリックには番号が見える。
「2517、4435」
「不要喇{いらない}」
「さっきと同じ番号だ」
「いいんだってば」
包帯を巻き終えたエリックが、さすがに3度目にコールが入ったページャーに、嫌な顔をした。黙って電話を持ってきて、阿Bの鼻先につきつける。
反抗的な目線でエリックを見ながらも阿Bは電話を受け取り、ページャーが表示した番号に掛けた。
阿B「乜嘢{なに?}。・・・阿媽が? それで・・・? 明白喇{わかった}」
最も短くて済む言葉だけで判事をするように受け答えをして電話を切ると、阿Bは、ふらりとベッドから立ち上がった。
「おい?」
「エリック、なんでもいいから服、貸してくれないかな」
「どこへ行く気だ?」
「阿媽が自殺を図ったんだ。行かなくちゃ」
「自殺?」
まるで、「媽が呼んでる」とだけ言うような簡単さで阿Bが深刻な単語を口にするので、エリックは阿Bが熱に浮かされているせいかとも思った。あまりにも阿Bの目が、感情もない色をしていたからだ。だがそうではなく、阿Bにはすでに慣れた物事のひとつであったためだと、後で知る。

< 八に続く >

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