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雨中感歎號 (十三) 最新話

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雨中感歎號 (十三) 最新話

「ま、いいや」
阿Bがエリックを振り返り、促した。「朝飯、どこかで食べようよ」
高明城と火仔に背を向けて、阿Bが歩き出した後をエリックも追った。
そのふたりをちらちらと振り返りながら、高明城が火仔に耳打ちする。
「さっきのが你のカワイコちゃん?」
「講笑喇」
娯樂圏{芸能界}では、大先輩にあたる高明城相手でも、火仔は関係なく冷たい視線と声で一蹴した。
おお、こわ、とつぶやきながらも口許が笑っている高明城は、後輩にさらなる憎まれ口を叩く。
「随分可愛がっているように見えたが? 你も、横についてきていた金髪の佢{やつ}も」
わざと火仔の気に食わないことを言っている自覚はあるようで、ほとんど変わらない位置からの視線も、これ見よがしに笑っているのを隠さない。
エリックが阿Bを可愛がっているといわれて、ますます機嫌が悪くなる火仔は、むっつりとした顔で高明城の言葉を無視することに決めたらしかった。
「翡翠にいただろう、佢{アイツ}」
「そうらしいですね。気に入ったなら、店に行けばどうですか。会えますよ。『そういうサービス』があるかどうかは知りませんが」
先輩に向けて慇懃に言い放ち、火仔は高明城を置いて、足を速めて手荷物検査のゲートを潜って行った。

◆◇◆◇◆◇◆

 粥麺店に入って、阿Bが携帯を弄る。ふーん、と言いながら、画面を見ていた阿Bが、短く「あ」と言って嬉しそうに顔を少し綻ばせた。
「どうした」
「あ、いや」
なんでもない振りをするものの、落ち着かなさげにそわそわして、結局、運ばれてきた麺と入れ違いに、「ちょっとだけごめん」と言って店の外へ出ていった。
自分の注文した粥に油条を割り入れながらエリックが見せの外を見ていると、阿Bが誰かと携帯で喋っているのが見えた。嬉しそうに話す姿を見ながら、年齢相応のまだ子どもっぽさの残る阿Bの横顔を、エリックも楽しそうに見る。照れくさそうに携帯の画面を見ながら店内に戻ってきた阿Bに、エリックは少し意地悪そうに笑って言ってやった。
「当ててやろうか」
「え?」
「妹妹{いもうと}。アイリーンと話していただろう」
エリックのその言葉に、阿Bが少し口を尖らせて、携帯をポケットにしまう。
「エリックは賢すぎる」
箸を手に取り麺を啜り始める阿Bは、図星だったようだ。
「褒美は?」
「ここの朝メシ、奢る」
「多謝哂。你にはたくさん貸しがある」
「返しゃいいんだろ」
阿Bが自分の麺の器から蝦餃{エビワンタン}を箸で撮んで、次々とエリックの粥に落とす。
「あ。おい。そういうことで返すって言うのか?」
「利息」
騒ぎながら食事をし、二人とも、腹とともに、なんとはなしに気持ちが満たされる。舗{みせ}を出て、阿Bが言った。
「我、手機を買いに行こうかな」
「手機、って・・・今、もらったばかりだろう」
「もらったわけじゃない」
ムッとして言い返す。
「使いたくない、ってことか」
子供っぽく拗ねた横顔に、エリックがニヤニヤして言うと、阿Bは自分の気持ちが見透かされたような気になって、ますますエリックに顔を見られないようにムキになって先を歩き続ける。
「火仔に渡された手機だって、佢{やつ}が帰ってきたら返すんだし、どうせ、ポケベルも近々返しに行かなくちゃならないし」
それを聞いた途端、エリックの眉が引き上げられた。
「待った。夜總会には行くなよ」
「でも、返さなくちゃ」
「だめだ」
おそらく、このままだと阿Bは夜總會翡翠{ジェイド}へ、のこのこと行く気だろう。そう思ったエリックは、強行策に出ることにした。
「ページャー、出してみろ」
訝しげな顔をしながらも、ページャーを尻ポケットから出した阿Bからパージャーを受け取ると、そのままエリックは自分の上着の内ポケットにページャーを入れてしまう。
「何するんだよ?」
「預かる」
「點解呀!?」
「預かる」
繰り返してエリックは会話を打ち切ろうとする。
理屈ではないのだ。夜霧が言ったように、阿Bを翡翠へ行かせるのは、絶対にまずい気がする。ただの勘でしかないから、言い訳が効かない。
「返せって!」
阿Bがエリックの上着を掴み、声を荒げた。
「夜霧さんにだって言われただろう。翡翠へは行くなって」
自分の上着を掴んでいる阿Bの手首を捉えて、エリックが言うと、エリックの上着から手はまだ放さないものの、阿Bが唇を噛んだ。
暫く、エリックと睨み合う。
先に手を放したのは、阿Bのほうだった。
「夜霧さんはいつまでも我を細蚊仔{コドモ}扱いするんだ。你まで同じことを言わなくてもいい」
阿Bの手首を握ったまま、ゆっくりと手を下に下ろしながら、阿Bが声を荒げたのとは対照的にエリックが穏やかな声で言った。
「阿B。冷静に考えて、我も、今、你は翡翠へは近づかないほうがいいと思う」
前髪の間から、恨めし気な阿Bの目がエリックを見る。
「ついでに言っておくが」
この際だから、とエリックが続けた。
「レンタルビデオ屋のほうも近づくな」
「それも夜霧さん?」
「そうだな。佢も言っていた。でも、我もそう思う」
自分の意見としてもそうだと、きっぱり言うエリックに、阿Bも漸く観念して、エリックの上着から外したまま、力を込めて握りこんでいたこぶしから力を抜いた。
「・・・了解{わかった}」
阿Bが小さく呟く。
そのまま、エリックに手首を握られて歩く。1.2分歩いたところで、阿Bがぴたりと歩みを止めた。
「わかったから。・・・放せよ」
ぶっきらぼうに言いながらも、自分からは手を振り払わないで俯いている阿Bに、エリックが1歩、歩みを戻し、傍に立ち寄った。
「返さないぞ。ページャー」
阿Bの髪に指を挿し入れて、エリックが念押しした。
髪を梳き上げると見えた阿Bの横顔は、怒っているというよりは――。
構われて嬉しそうに見えると言えば、また怒るな。
エリックが笑いをかみ殺す。
スローモーションのように阿Bが緩やかに、力が抜けたエリックの指から自分の手首を引き抜いた。
「阿B」
すり抜けていこうとする阿Bの指を、エリックの指がかろうじて握って留めた。
再度名前を呼ばれて、握られて留められた指に漸く気づいたように、阿Bがエリックの指を振りほどいた。
「いいよ、もう」
前を歩き出す阿Bの後を、エリックがついていく格好で再び歩き出す。
振り切るような速さでもなく、追いついて肩を並べることもできる速度だが、エリックは黙って、阿Bのわずか1歩2歩後ろをついていった。
“細蚊仔{こども}”を卒業したのはいつだろう。誰かに叱られたり、護られたり、誰かに自分のことを委ねてしまうことができたのは、いつまでだったのだろう。細い肩はエリックを拒んでいるようにこそ見えなかったが、ひとりでさっさと歩いて行く背は、誰かの手の温かさをすっかり忘れてしまっているように寒々しく見えた。

◆◇◆◇◆◇◆

 「こんなに安いんだ。知らなかった」
「そりゃ、正規店じゃないから」
エリックが素直に感動したのに対して、阿Bは漸く口許を綻ばせた。
「ちゃんと役に立つのか」
「そこそこ大丈夫だと思うよ。動かないものなんて売ったら、すぐに店ができなくなっちゃうから」
「なるほど」
ジャンク物を多く取り扱う店が、一体何軒入っているのやらわからない雑居ビルの中で、「商売を継続したい舗」と「一時だけ稼ぐだけ稼いで消えたい舗」が混在している。前者は、この雑多な大廈の中で、これから這い上がっていくチャンスを狙って無駄に元手をかけずに商いをしていきたい輩で、後者は売り抜けて逃げるために元手をかけたくないからこそ怪しげな雑居ビルで悪意を商っている輩だ。その中から、やはり元手をかけたくない「買い物上手」が、わずかなりともまともな舗を見つけ出して、良い買い物をする。
ビルを出ると、隣の戯院{映画館}でちょっとした騒ぎが起こっていた。
「なんだろう」
「さあ」と冷たく言って通り過ぎようとした阿Bが、窓口から聞こえた言葉で足を止めた。
「阿B?」
小さな人だかりの中へするっと入って行った阿Bが、何やら大声で言っている。が、広東語でも普通話でもない。
やがて、人だかりの中から、女仔{おんなのこ}を二人連れて阿Bが出てきた。
「多謝」
照れくさそうに広東語の礼を口にする女仔に、阿Bが「ドウイタシマシテ」と言った。
「日本話{日本語}?」
「映画のチケットが買いたかったんだって」
「日本話ができるのか」
「夜霧さんに少しだけ習ったから」
へえ、と感心して、エリックはまじめな顔で提案してみた。
「観光ガイドでもやったほうがいいんじゃないの」
「めんどくさそう。頭使うこと、馴れてないから。それにそんなにできるわけでもないし」
エリックの胸ポケットでページャーが鳴った。渋々、エリックがページャーを取り出して阿Bに示す。
「邊個呀{だれ}?」
阿Bが號碼{ばんごう}を見て、僅かに口を曲げる。
「知らない。前の持ち主へのメッセージだったりするから、知らない號碼は知らん振りするのが一番」
ふうん、とエリックが意外そうに言う。
「咩呀?」
「いや。通りすがりに日本妹に親切にするかと思えば、掛かってくる電話は無視したりするんだな、と思って」
「さっきのは、目の前で困っていたわけだし。電話は、誰かもわからないんだから無視したって当然だろ」
「だからと言って、何度も無視されると腹が立つわね」
後ろから聞き覚えのある声が、険のある声音で怒鳴った。
「美紅」
振り返ると、美紅が仁王立ちに立っていた。ページャーの號碼を目をすがめ乍ら見て、阿Bがむすっとして言った。
「美紅だったのか。ページャーなんて回りくどいことしないで、声を掛ければいいだろ。人が悪い」
大げさにため息をついて阿Bが呆れる。
「仕事を辞めちゃって、連絡先も知らないだろうと思って、號碼を打ってあげたのよ」
「ページャーも翡翠に返したとは思わなかったのかよ」
「・・・夜霧が。まだ持ってるって言ったから」
「返しに行くなって言われたんだよ」
あたりまえよ、と腕組みした美紅が、偉そうに阿Bをねめつけた。
「你{あなた}、一部では、許經理{マネージャー}を殺して、金庫のお金を奪って、ついでに許經理の情人を連れて高跳びしたってことにされているんだから」
「えっ」
「派手な話になってるな」
エリックがとうとう口を挟んだ。
「邊個呀{だれ}?」
さっきエリックが、ページャーの號碼に対して言ったセリフが、そのまま今度は美紅の口から出る。
「あ。えっと・・・朋友{ともだち}」
阿Bが言い淀む横から、言葉を重ねるように端的に、エリックが言い換えた。
「情人{こいびと}」
えっ、と叫んだのは美紅ではなく、阿Bのほうだった。
美紅は、ふうん、と微かに鼻にかかる声で言った後、少しだけ口許を引き上げて、エリックを斜に見上げた。
「まあ、いいでしょう。想定内だわ」
「美紅、納得するな。エリック、いい加減なことを」
「唔好咩呀?{なんか悪いか}」
美紅が認めたことで、エリックのほうはすっかり開き直りの様相だ。
「――いい、もう」
阿Bが顔をついと他所向けて、エリックと美紅から離れて歩き出した。
阿B、とエリックが呼びかけかけたところを、美紅に止められる。美紅は片目を瞑ってにっこり笑ってエリックを制し、自分が先に立って阿Bの後を追いかけた。そのさらに後を、エリックはゆっくりとついていくように歩く。
「でも、ページャー、返したほうがいいと思うんだけど」と阿Bが美紅に言うと、美紅は「いいんじゃないの、別に」と呆れて返す。
「翡翠は? 休みが続くと仕事がなくて困る人たちも多いだろ」
「明日から店を開けるそうよ。出るように言われたわ、新しい経理{マネージャー}に」
「新しい経理? どんな人?」
美紅の言葉に阿Bは乗り出すように興味を露わにした。エリックも、黙ってふたりの背後を歩いてはいるが、思わず聞き耳を立てる。
「・・・なんだか、薄気味悪い。許だって、どうせ叩けば埃の出るような人だったんだろうけど、なんていうか、裏が見えない人ではなかったわ。今度経理は、裏が透けて見えない。表向き、とてもクリーンな仮面を被っている・・・」
善人のような振りをしていて、実はどんでん返しで影の悪役として後で正体がバレるみたいな気味悪さ、と美紅が呟いた。
「・・・あ。ごめん。冇問題喇{だいじょうぶよ}」
会った直後の気の強そうな表情が曇る。阿Bとエリックの目が合った。
「翡翠まで送りますよ」
忘れ物を翡翠に取りに行くという美紅に、エリックがそう言うと、阿Bが心配げにエリックを見た。
「你ひとりで行くな、と言ったんだ。夜霧さんも、我も。我がついていくし、すぐに返れば問題ないだろう」
エリックがそう言うと、美紅が右手でエリック、左手で阿Bの腕を取って右と左を交互に見た。
「いい男二人にエスコートされて同伴出勤もいいわね」
「美紅。そういう問題じゃないだろう」
「我哋{おれたち}、高級夜總會で飲めるお金、ありませんよ」
軽口に美紅の強張っていた表情がやっと緩んだ。
「謝謝你哋{ありがとう}」
翡翠の前までたどり着くと、美紅はそのほかには特に何も言わず、翡翠の裏口のドアに手をかけて、手を振りかけた、まさにその時である。内側から先にドアが開けられ、中から阿Bの知らない、長身の男が出てきた。
「尹経理{マネージャー}」
「美紅か。どうした。出勤は明日からと――」
じろりと顔を見られて、阿Bは思わず目を伏せた。
「弟弟{おとうと}か?」
「誰が・・・!」
阿Bが咄嗟に反論する。
「経理、そうじゃなくて、この子はここの・・・」
「紅姐!」
エリックが止めようとしたが、美紅は「ここの黒服の阿Bよ」と続けてしまった。

<十四に続く>

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