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雨中感歎號 (六)

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雨中感歎號 (六)

「・・・どうやら、起たせれば起つようだな」
エリックが手術用の薄い手袋を脱いで、ビニール袋に入れて口を結び、ゴミ箱に捨てた。
「え。ねえ・・・ちょっと・・・、おい。どうしろって・・・!」
「厠所{トイレ}は向こう」
「じ、自分で始末つけろって?」
エリックは、平然とした顔で、大真面目に阿Bに言った。
「自分でやったことがないわけでもなかろう。我{オレ}に始末をつけろって言いたいのか? まさかそういうことするために手袋常備してるとでも?」
いささか長い沈黙の後、阿Bが横向きのままぶっきらぼうに言った。
「・・・あんたと、するってのも、ありかも」
「男同士だぞ」
「識喇{わかってるよ}。你は女には見えない」
それから、エリックを見上げて、躊躇いながら言った。
「だって、你はさっき、男のほうが好きだって言ってたじゃないか」
そう言って、阿Bは自分からエリックの唇を求めた。
「男同士でっていうのが、どういうことかわかってるのか」
「識喇{知ってる}」
なんということもない、という風に見せようとしているとしか思えない阿Bのそぶりに、眉を曇らせつつ、エリックが一応訊ねる。
「初めてじゃないのか?」
「まあね」
阿Bがエリックのシャツの背に、腕を回してみせる。
「名前を聞いてなかったな」
エリックは、阿BのTシャツの背に入れた手で背骨を辿る。無駄のない、というよりは、余裕が無くて肉がついていないといった風の細い背を指に感じながら、エリックが聞き取れないほどの小さな声で阿Bは、小さく言った。
「我叫李器廣(*12)、・・・ボウイ、・・・なんでもいいよ・・・」

◆◇◆◇◆◇◆

自暴自棄なのか、というと、そうではないように思える。だが、積極的に身體で楽しみを得たいようには絶対に思えない。そうなるとエリックとて、興が乗るものでもないが、しかしこの少年にはひどく興趣が募る。
エリックが自分で自分の嫌いなところは、”行為中”までも冷静にいられるところだ。離人症的なこの乖離は、子どものころからとても嫌いな部分だった。もっとも、自分で自分を好きだと思ったこともないのだが。
そんなことを考えながらそこそこ時間をかけて指で確認した後、エリックが阿Bの腰に手を掛ける。確かに、全くの初めてではないらしい、ということは指が探った感覚でわかったが、ふと見ると、横を向いた阿Bが自分の手の甲を噛んで声を殺していることを見て、思わず、エリックは動きを止めた。
阿Bの手を掴んで口許から離そうとするが、阿Bは強く噛んだまま離そうとしない。
「おい、李器廣。嫌だったら止めろって言えばちゃんと止めてやる。声に出してきちんと主張しろ。これじゃあ、レイプだ」
阿Bの手を口から引き剥がし、その手首を握ったままエリックは阿Bの身體から離れた。
「無問題呀!? Are you OK? 李器廣」
「・・・阿B」
「咩呀{なに}?」
「叫阿B。阿B、でいい」
「ああ。你の名前か・・・阿Bね」
涙は本当に流していたのかもわからない一瞬のことで、もう流れてなかったが、泣いた痕を隠そうともせず、阿Bはどこかを空{くう}を見つめていた。
「你、本当は初めてだったとか?」
「・・・違う」
「そうだな。初めてではなさそうだった」
なら、嫌な思いをした過去があるとしか考えられない。エリックは重いため息をついて、それ以上は何も聞くまいと思った。
「我、帰るよ。悪かったな」
そう言いながら一向に起き上がろうとしない阿Bの頭の上に、さっき脱がせたばかりのTシャツをかけた。
「メシ、食べていけばどうだ。何か作るから。どうせ、その格好じゃ帰れまい。本当に帰るときには、服を貸してやる」
ジーンズだけを着けて、エリックはキッチンに行き、戸棚を開けたあと、出前一丁の袋を見せて何事もなかったかのように屈託なく笑った。
「こんなのしかできないけど」
鍋をテーブルの真ん中に置いて、ふたりで湯気の上がる麺を啜る。
「俺、海鮮XO醤味が良かった。牛肉味はなんかクサいよ」
「你{おまえ}、本当に香港人か?」
文句を言いつつも、阿Bは汁まで飲み干して、エリックを和ませる。さっきの悲痛な姿が何かの見間違いだったかとも思える。
英文報紙{新聞}を折りたたんで読みながら、ふとエリックが声をかけた。
「一人暮らしか?」
訝しげに、だからなんだ、と見返してくる阿Bに、エリックは、さらりと言った。
「泊まっていくといい。誰もいないなら、傷のことも心配だ」

◆◇◆◇◆◇◆

夜の分の鎮痛剤と抗生剤をくれ、怪我人はベッドを使え、とエリックが言うにも関わらず、阿Bはそれを固辞し、自分がソファに寝ると言い張った。結果、エリックはベッドに教科書やノート、プリントを広げて寝そべって勉強をしている。
「エリックは、我に何も聞かないんだな」
ソファで毛布に包まった阿Bがエリックに話しかけた。
「唔該{ごめん}。考試{テスト}があるんだっけ」
阿Bが謝ると、エリックは事も無げに言った
「考試なんて、詰め込んでも詰め込んでもキリがない。你{おまえ}が我{オレ}に話したいと思うなら、我が話せと言わなくても話すだろう。話さないのは、我を信頼していないか、話したくないか、どちらかだ。話したければ話せばいいだけさ。応える余裕があれば、返事してやる」
「相手の素性も良く知らないのに、なんで你は我を泊めてくれたりするの?」
「少なくとも、寝首を欠こうと考えてるとは思ってないから泊めた。だから、金を盗んで逃げるなんてことはするな」
阿Bは膝を抱えていた腕を解き、毛布に包まったまま、エリックのそばへと行った。
「さっきはごめん。あれって、你のことが嫌だったんじゃなくて・・・」
「うん?」
阿Bは言葉が続かなかったが、エリックも催促はしない。
「エリック」
「咩呀?」
「試吻我吧{キスしようか}」
燈{あかり}に透けるエリックの金色の髪を見ているうちに、自然と口をついて出た言葉だった。
「どこまでなら無問題なのか、少しずつ、試してみようって肚か」
自分にとって、エリックの言葉に自分でも意外に素直に頷けたことが、エリックを「信頼」しているということなのかもしれない、と、阿Bはシーツとエリックの間に身體を滑り込ませた。
ゆっくりと始まるエリックのキス。髪を撫でられ、エリックに借りた身に余るダボダボのTシャツの中に、少し冷たい指が入ってくるのは難なく受け止められる。
肩から背中、胸、わき腹の傷を避けて腰、触られているだけの間は何も起こらない。それどころか、阿Bは初めての不思議な感覚を得た。エリックの指先、指の腹、掌から得られる感覚は、阿Bにとって心地よかった。ピリピリと何か信号のようなものが自分の身體の中に発せられていくのに、それが驚くほど心地がいい。これまで、たとえば、美紅と抱き合ったときでさえ、嫌悪感を感じながら堪えていたというのが、今になって分かる。エリックの行為は、水が砂の中にしみこんでいくかのように、すんなり自分の身體に受け入れられるのだった。
「點解{どうして}・・・」
小さく小さく呟く阿Bの声をエリックは聞き逃さず、唇を甘く舐めながら、同じように小さく応える。
「後で、話してやるから」
乜嘢{何を}、と訊こうか、係呀{そうだな}と言おうか考えながら、エリックの指の動きに翻弄される。その動きに身を任せればいいのか、応えればいいのか、頭が考えるより先に身體があれこれと勝手にすべてを受け入れようと奔る気がする。
そんなにも身體は柔軟にエリックの腕も指も唇も受け入れるくせに、一方で、まるで、全く初めて誰かと身體を合わせたように新鮮に、どこか気恥ずかしい気持ちを感じた。幸福感というのがこれかもしれない、と思っていたところへ、エリックが燈を消し、その途端、「幸福感」は掻き消えた。
阿Bは、暗がりに見たくない過去を見て、慌てて何かで自分を現実に引き止めたくて、左の手頚に歯を当てた。
まさに膚に歯を立てようとしたそのとき、強い力で手頚が押さえつけられる。エリックが阿Bの手頚を握り、燈を点けたのだった。
「暗闇が、だめなのか。それとも、・・・ここから先がだめなのか」
うっすらと額に汗をかいたエリックは、しかし、機嫌を損ねたふうでもなく、阿Bからそっと身體を離し、横に座った。
「見せてみろ」
阿Bの手を取って、手の甲、掌、手頚の内側、外側、と丹念に見ていく。見れば、阿Bの手頚から肘にかけては、左右ともに無数の傷痕があった。
「全部、自分の噛み傷ってわけか」
自分で自分を傷めないでいられない、何か強い力が阿Bにそれを命じて許さないのだろう。
「・・・God」
エリックが呻いた。傷を数えることなどなんの意味もないだろう。目に見える傷が数えられたところで、目に見えない傷の多さと深さは、心で推し測ってやるしかない。
「エリック、唔好意思。・・・你{あんた}のせいじゃないんだ。唔好・・・」
エリックは阿Bの手頚の内側にそっと吻{くちびる}を当てた。舌は遣わず、ゆっくりと、肘の内側に向かって吻を滑らせていく。
「識喇{わかってる}。だが、你のせいでもないはずだ」
そう言われた瞬間に、阿Bの中で何か堰が壊れたかのように、いろいろなものが噴出したように感じられた。涙こそ流しはしないが、自分でも持て余すほどに、何かが自分の中からあふれ出すように思う。
言葉では追いつかない何か、それを感情と言うのか、それすらも阿Bは分からず、気が付いたら、エリックにしがみついていたのだった。

< 七に続く >

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(*12)「李器廣だ」と名乗っている。

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