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酉の市

藤の寓(いえ) 酉の市

つう、と窓硝子に指を滑らせる。と、細筆で刷いたように曇りが融けた。

窓を開けると、氷った早朝の風が、刃が頬を切るように、部屋に滑り込んできた。

「お閉めなさいませ」

背の後ろで、女がゆうるりと言う。

物憂げ、というよりも、生来の喋り方からしてそうであった。朔也{さくや}にとっては、懐かしい幼馴染の口調に振り返ると、女は寝乱れたほつれ髪をそっと撫でつけていた。

「またお風邪を召しますよ。治ったばかりで。漸くこうしてお顔を見せに来てくださったのに」

窓を閉めて、朔也は女の傍へと戻った。女はそんな朔也にあまり構おうともせず、緩慢な手つきでいつまでも髪を直している。

既に緋襦袢を見苦しくない程度に身につけている細い体に腕を回して、朔也は女の耳元で囁くように尋ねた。

「辛いか」

「え」

「いつも苦しそうだ。最初に会ったときから、……初めて抱いたときから、いつだってこれ以上はないと言うくらい辛い表情をする」

汗の匂いがかすかに残る女の白粉の刷かれた項に、そっと唇を当てた。女は朔也の唇の熱に、微かに身動ぐ。

「いやですね、若旦那。貴方、いっつもあの時、凝とあたしの顔を見ていらっしゃるんですか」

「その呼び方は止せ」

『若旦那』の呼び方に苛立って、朔也は背中から抱いていた女の体を乱暴に表返し、白粉の香りに顔を埋めるように、緋襦袢の胸元に一層強く唇を押し当てた。だがそうすると、強い白粉の香りが女の「遊女」を感じさせて、尚のこと朔也を哀しくさせた。

「若旦那……朔也さん」

女が自分の名を呼ぶ声に、漸く懐かしさと安堵を覚えた。

「お父様の跡をお継ぎにはならないんですか。昔は、貴方はそう云っていたわ」

「稼業は弟が継いだんだ。もう俺にはあの家の商売は関係ない」

「でも、朔也さんがお茶碗を焼くのは、やっぱりお茶が好きだからだわ。生まれた時から、ずっとあのお茶の薫りの中で育って。あたしも大好きだった、あの薫り」

「止せ」

いたたまれず、朔也は女の胸を抱く腕に力を込めた。

「年季はあとどのくらいだ、知里{ちさと}」

できるだけ平静を装った声のつもりだった。しかし思わず口にした女の本名に、朔也の辛さがにじみ出ているのに、女が気付かぬはずもない。何故なら、「知里」と呼ばれれば女のほうもまた、その名前しか持たなかった身軽な身であった頃のことを思い出さざるを得ないものだ。何も知らないでいられた幼い頃の記憶、苦界など知らずにいた、幸せと呼ぶことのできた頃。

それらを振り切って知里は朔也に答える。

「朔也さん。遊女はお金で買えても、同情じゃあ買えないんですよ」

「知里」

既に遊女が客に言う言葉遣いになった、知里の気を置いた言葉に、朔也はかっとなる。

だが、知里の続く言葉は冷静だった。

「今のあたしの名は『初音』なんです。遊女の初音。ここでの暮らしが私の全て。貴方の幼馴染の知里は、ここにはいやしません」

腕を振りほどきこそしなかったが、朔也は知里に至極あっさりと拒まれたのだった。

「俺の……、これは同情なのか?」

同情なのだろうか、この女を苦界から連れ出したい、という思いは。こんなにも、この細く頼りない体がいとおしいというのに。

「同情ですよ。ただの」

『初音』は朔也とこうなってしまったことに後悔していた。

 

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あれは一〇月の廿日、廓の行事で、「紋日」とよばれる廿日夷の日であった。吉原ではこの日から火鉢を出し、冬に備えるのである。この月の玄猪(亥の子の祝)から翌年二月の晦日までの夜中、「火の用心」の番が廓を回ることになる。これまで幾度も大火に見舞われた吉原では、火には殊更神経を使っていた。

紋日には、楼に上がると常の倍にもなる揚げ代を遣わされるので、客寄せの意味で年に一八日設けられた云わば「行事」にあたる賑やかな日であるが、むしろ客足は遠のきがちであった。だが金にあまりうるさくない客には、それもあまり関係のないことで、その日も朔也の芸術の出資者たちは特に日取りにも考えを巡らす事なく、ぶらりと夜を求めて廓の大門を潜ったのだった。

それに連れて来られた朔也も、いつものことであるが特に興を感じるでもなく、お愛想で皆の跡をついて歩いた。

出資者の旦那衆のひとりが馴染みの大籬に足を止めて、さて旦那衆は夫々敵娼{あいかた}を決める。宴の座が開ければ勿論、三々五々遊女とともに小部屋へ引き取るのだから、朔也もまた、旦那衆に云われるままに名指しをして見世に上がったのだった。そして指名を受けた娼妓たちが座に入ってきたときに、朔也はこの女と巡り会ったのだ。かつて自分が知里と呼びならわしていた、今は『初音』という名に返事を返す幼いころの馴染みの娘と。

その夜、朔也が指名したのは『初音』ではなかった。遣手に手を引かれて、『初音』は朔也のために最も多くの金をいつも出資してくれる商人の男とともにほかの部屋へとあてがわれ、朔也はまた別の部屋へ別の娼妓と共に夜を過ごすために消えていったのだった。

朔也が『初音』を買いにその大籬を訪れたのは、数日後である。

自分から女を買うことを好むわけでもない朔也が、大門の内に灯りが灯り、さて見世を開けるという早い時刻に、一人で見世に現れたのだった。それは『初音』を他の客に指名されない先に訪うのが目的だった。だが、一晩に何人もの客を取って稼がなくてはならないのが遊女だ。だから夜中、ある遊女を独り占めにするためには、一晩にその遊女が稼げたものとするに足るだけの金額を払ってしまわねばならない。朔也はそうまでしても、『初音』の夜を買いにきたのである。

日本茶を卸す大きな店を持つ朔也の生家に出入りしていたのが、小売の店を営む知里の父親だった。聡い自慢の一人娘をどこに行くにも連れ歩いた男だった。女の兄弟がいない朔也は、知里を可愛がった。父親同士が商売の話をしている間、朔也と知里は兄妹のように手をつないで遊びに出たものである。それがいつしか、男女の共に年頃を気にしだすようになって、二人の間に自然と気が置かれるようになったころ、知里もその父親も姿を見なくなった。それが人の口から、父親の死病のため商売に行き詰まったと聞いてはいたが、だからといって朔也がどうにかできるものでもなく、時が過ぎるにつれ、それも人の世と「昔」の出来事に整理できた過去だった。

先の夜には、突然に既に住む世界の違うようになった古馴染みと、身につまされる再会をし、今またその男が再々会にわざわざ足を運ぼうとは、初音にとってはそれはどれほどの苦痛だったことかというのは、苦界を知っている者か、あるいは女であれば誰にも思い遣れたことだったかもしれない。けれど朔也にしてみれば、ただもう幼い頃の面影を重ね合わせ、もう一度会うことだけに必死であった。

何故来たの、

もう来ない。

これきりにして、

そうしよう。

その夜限りと思いながら何度か重ねてやってきたが、朔也は知里の体に指一本触れはせず、酒にも料理にもほとんど口をつけず、の木仏金仏のような振る舞いをした。

しかし、それらの台のものを注文してやることが遊女の稼ぎにつながると知ってはいるから注文させる。手も伸ばさない台の物を中にして、ふたりは、肌を求めるには互いの幼馴染の面影はいたいけ過ぎ、昔を語るにはさすがに身過ぎ世過ぎの哀れくらいはわかる年になっていた。

「どうか、あなたに愛する方がおいでなら、もうここにはいらっしゃらないでください」

静かに涙が流れ落ちるように知里がこぼした言葉は、遊女に身を落とした女がその身なりに思いを告げるものだった。

朔也はそれに言葉を返すことなく、その夜初めて知里を褥に引きいれた。愛しいと思って女を抱いたことは、これまでには一度もなかった。

 

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明けの六つ。十一月の早朝はまだどうにか薄明るい程度で、寒さもそろそろ袖を染み通す。知里に送られて、朔也は廓を出て帰途に就いた。といっても牛込の方にある自分の家ではなく、別に設けた窯場の方である。坂道を上っていくうちに、窯から一筋の煙が見えた。

着替えもせずに、直ぐに窯の前に行くと、小さな縁台の上に蹲るようにしている多津朗が居た。紬の羽織に袖を通さず。肩からすっぽりと被ったまま、少し腫れた目を上げた。

窯の火の前で徹夜をしていたのは明らかだった。

「変わったことは?」

「なかった」

朔也は多津朗の肩にかかる柔らかな茶色の髪を指で梳く。軽く目を閉じて凭れかかる細い顎に、傍らに立った朔也が手を伸ばしても、多津朗は拒みはしなかった。

「冷たいな」

指でなぞった唇に、自分の唇を触れさせて朔也は言った。

「あなたほどじゃない」

朔也の体から匂う白粉の香を嗅ぎ取って、多津朗は朔也の昨夜から今朝までの行動を言外に詰った。朔也が自分の冷えきった唇の温度を言っていることは百も承知した上での多津朗の仕返しだった。

「怒っているのか。ひとりにしたこと」

「火入れを手伝えと言ったのはあなたじゃない。・・・・・・駄目だよ。火を見ていなくちゃならないんだから」

喉を伝って衿を潜ろうとした指を止めて、多津朗は立ち上がった。

「多津朗」

「昼には火を落とせるよ。僕は夕方、令さんと約束しているから出る」

朔也は力任せに多津朗を引き寄せる。

「いやだよ、仲森さん」

だが、朔也は多津朗の言にはかまわずに、自分より一七下の少年を組み敷いた。

「なぜ、拒む・・・・・・?」

抱き締めながら、朔也は耳朶を噛むように多津朗に囁き尋ねる。

「白粉の匂いは・・・・・・嫌い、だ・・・・・・」

知っていたのか、と朔也は胸の内で呟いた。初めて、多津朗が自分の廓帰りに気付いていたことをようやく悟ったのだ。

朔也が初めて多津朗に会ったころ、一四だったと記憶している。とすれば、今はもう一七にもなろう。背こそ伸びて面立ちにも大人びた様子が見えはしだしたけれど、自分の背に縋り付く指の、切ない力の込め方は変わりない。一四の頃は、まだ感情をそのまま剥き出した子供々々した処が強かったが、今は成長した分だけ、感情の繊細さが表を飾っているこの少年は、朔也には不思議な存在だった。

こうして腕の中で思うままに扱うことはできても、完全に自分に寄る辺を求める頼りなさは決して見せまいとする。なのに離れた所でこの少年を思い浮かべると、少年の表情は自分を恋い慕う仔猫のような甘い表情が浮かぶ。果たして少年が実際にそんな顔をしたことがあったかどうかは分からないのだが、多分そんな表情は見せたことがなかったように思う。だが、その切なげな表情は、自分の背に縋る指の切なさに似ていることが最近になってようやく分かった。

苦しげに寄せる多津朗の眉に、知里の表情までもが重なった。

 

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「急にくるもんだから、何も持て成しがないよ」

令次{れいじ}はそう言って、湯飲みを差し出した。玉露の香りが、温かな湯気とともに立ちのぼる。

「まあ、夕方には伊都{いと}さんが夕食の支度に来てくれるから」

ちょっとはましな馳走ができる、と女中に頼る生活を説明して苦笑した令次は、自分の湯飲みを手に取った。

この人の笑顔は、温かいな。多津朗は自然と少しだけ唇の端を上げて、令次に頷いた。

秋の空気をひんやりと感じさせる、立冬を過ぎた高い青空が縁側の硝子越しに見える。刷毛でひいたような淡く白いほそまい雲をじっと見つめながら、多津朗はこの令次の家へ来たことを後悔し始めていた。

窯の火を落としたあとは真っすぐここへ来たのであるが、約束があるなどと朔也に言ったのは口から出まかせだった。吉原から早朝に帰宅した朔也の冷たい指に触れられている内に、令次の温かい笑顔が恋しくなったから口にしてみた言葉だった。

「仲森は元気なのか」

令次は多津朗に、旧友の近況を尋ねた。

苦笑まじりに多津朗は頷く。学生時代の友人であったという令次と仲森は、この数年、顔を合わせてはいない。けれど、朔也の情人である多津朗と、朔也の旧友である令次が顔を合わせては朔也のことを話す。思えば奇妙な関係である。

かつて令次は朔也を責めた。愛情もなく多津朗のような少年を抱くのか、と咎めた。多津朗や朔也が身をおく陶芸の世界では、師と弟子や、朔也と多津朗のような兄弟弟子同士の間でもそうした関係はまかり通っている。それは一生通す道ではないと、彼らの誰もが知っている。知っていながら選ぶから、若い時間の僅かな間に立ち寄るだけの道でしかない。

令次は、それが理解できない世界に生活している人だった。

それゆえに、この人は今も知らないのだ。多津朗が令次の名を出した途端に、無理やりにも多津朗を引き寄せた朔也の感情の揺れを。

多津朗は今朝の朔也の荒々しい手の感触を思い出した。その指の冷たさと、自分を抱いた心の冷たさは同じだったに違いない。

「今日、窯の火を落としたんだ」

「ほう。半年ぶりだな。良いものができていそうなのか」

「さあ・・・・・・。あの人が決めることだから・・・・・・」

多津朗は笑った。この人の前なら屈託なく笑えるのはどうしてだろう。そう思った瞬間に、多津朗の気持ちには陰が差した。

令次が言ったのは、一昨年の夏辺りから、朔也は悉く窯出ししたものを叩き割っていたことだった。

思ったものができない、というよりは、作りたいと思うものが思い浮かばない様子であるように多津朗には思われた。ずっと側にいながら、そんな朔也の辛心に触れることができず、できないだけに一層側で見ているのが辛い多津朗だった。

それでも、朔也が自身を持て余すような荒んだ心持になったときに側に居てやることができるのなら、と多津朗は思う。

ぼんやりとそんなことを考えて居る多津朗の気持ちになんら触れることなく、ひとりにしてやろうと思い、令次は部屋を出て行こうとした。

「仕事が残っているから、わたしは向こうの書斎に居るよ。夕食は一緒に食べて行くといい。火を落としたなら、今日は戻らなくてもいいのだろう?仲森の窯場には」

「うん。麻布の家に帰るよ。母も待っているし」

「じゃあ、好きな様に過ごしていなさい」

令次のこんな処が好きだった。朔也にはない穏やかな優しさは、多津朗を寛がせる。こうして時折、辛くなると令次のもとに逃げ込むようになった多津朗だが、柔らかな令次の心遣いに触れるたびに、一層朔也に対するうしろめたさも感じるのだった。

令次のこの安らぎを必要として居るのは、本当はあの人なんだろうに。

多津朗にはそれがよくわかっていた。

朔也が決して伝わることのない気持ちを抱き締め乍ら、穏やかな友人に対する特別な気持ちを潜めたまま接してきていたことが。

自分に対して、あれほど縦に振る舞うあの朔也が、それ程までに慎やかに見つめ続けていたのだ。だからこそ朔也が多津朗を抱くことについて令次が非難を口にしたとき、朔也はいたたまれずに令次の元を離れざるを得なかった。そうして、令次に庇われた多津朗が令次の元を訪れる一方で、旧友の仲はいまだ元に戻る気配もない。

二人の間を壊すきっかけになったのが自分であるという罪悪感もさることながら、朔也が胸襟を開いて寛げる唯一の場所を失ってしまっであろうことが気にかかって仕方ない。

ぽつりと紬の膝に涙が落ちた。

「なんだ…結局、好きなんじゃないか。あの人のこと」

一言口に出して認めると、涙も思いも次から次へとあふれ出た。肩を抱くようにして、膝の上に蹲る。悲しいときの多津朗の癖だった。

 

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仲森に抱かれることは、決して嫌いではなかった。男に抱かれる行為そのものは、自分にとって快楽ではなかったし、背徳的な行為であることも承知していたから、決して進んで抱かれたものではない。

だが、それがただ欲を満たしたいという気持ちからくる行為であっても、仲森は自分を欲しがっているのだという奇妙な満足があった。自分をひたすらに求めてくる仲森の腕は心地よい。

仲森が初めての相手ではない。窯場にいると、いつでもだれかが自分を手にいれようとしてきた。それに抗し通すこともあれば、どうあっても敵わぬままに、力ずくで縦{ほしいまま}にされることも少なくはなかった。けれどそれは拒みきれないという体躯の問題よりは、むしろ、時には多津朗のほうから身を委ねる気になったこともある。多津朗もまた何かを求めており、自身のその気持ちに抗うことができずに成り行きに身を任せたのだ。

それは恐らく、一番最初に多津朗が抱かれたとき覚えた、相手の望むままに流されることの楽さと、流されることに諦めを識ったことの楽さのせいだったかもしれない。

優しくしてくれた誰もが、多津朗の躯だけを欲しがった。

思うに、生みの母でさえもそうかもしれない、と物心ついたときに多津朗は考えるようになってしまっていた。父が母から去り、母の手元に残された僅かなものは、思い出せば懐かしさと悔しさのあまりに涙を零すことになる思い出か、面影をいささかなりとも留めた我が子の多津朗だけだった母は、思い出の中に生きるようになり、多津朗を子としていとおしむというよりは、かつて自分を愛した男を多津朗の背に中に見る。

そんなことに気付いてしまった、十をほんの少し余るだけの少年が、自分を確かなものとして立てることはまだ難しかったのであろう。爪を噛む癖のように、幼いときの心の癖を一七になった今も続けてしまっているようなものだ。温かな温もりも、心安くなる優しさも、その荒々しい行為からは得ることができないのがわかっているのに、多津朗はそういったものをあきらめねばならないと思い込むようになっていたのだ。

だから、多津朗は令次の前では泣いた。令次は多津朗に何も求めない。それが当然のことだとでも思っているように、多津朗のするがままに受け入れてくれる。

だが、そんな令次でも、朔也もまた他の男のようにしか多津朗を抱かない人間のひとりなのだ、と詰り、それが引き金になって、朔也と令次は決別することになった。

だが、朔也はそれでも多津朗を離そうとはしなかった。

そんな朔也に、多津朗はどこかで希みを持ち始めてしまっていた。知らず、自分から朔也の手を欲しがっていたのだ。

それが打ち砕かれたのは、ここ一月程前からづいている朔也の行動が原因だった。

付き合いの一環として、朔也が遊里に足を運ぶことは以前からもあった。だが、ここ一月の朔也の吉原通いは、それとは違う。濃密な白粉の移り香に多津朗は微妙な朔也の変化を悟っていた。

朔也は行ってしまう。

多津朗はそう感じた。

大抵の者はそうであるように、ある程度の年齢になってくると、世間にも認められた妻をもらい家庭を設ける。不自然な関係は所詮暗黙の内に静められるものでしかないのだ。

朔也と自分も、そうなっていってしまうのだ。

そう考えると多津朗は益々朔也の手が恋しくなった。力ずくで自分を捕らえて離さない、力強い腕の心地よさが。

多津朗はそっと縁側から外に出た。

夕暮れ時。町の家々から夕餉の炊事の煙が上がる。朔也の側でも、この穏やかな気持ちのまま過ごせたら、と遠い気持ちで多津朗は暮れていく朱鷺色の空を見た。

「多津朗?」

縁側の木目を浮き上がらせるように、ただ穏やかに差し込む秋の陽があるだけで、そこには人の影はなかった。縁先の人影に近づこうとして、多津朗の背に相変わらずの寂しさを見つけ、令次は声がかけられなかった。

感心できない関係であると思ってはいても、多津朗が朔也を求めて止まないことは令次には分かっていた。そして朔也があの持ち前のそっけない態度の裏で、多津朗を愛していることも知っていた。

何故もっと自分の気持ちに素直に愛してやらないのだろう、と旧友の生来の性分にため息をついた。

 

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カシャン…カシャン、と乾いた音が途切れがちに、しかし続く。

多津朗は開け放したままの引き戸の陰から、そっと部屋の中を覗いた。

午前{ひるまえ}の秋の陽は低く柔らかい。その中で、こうして息を潜めて朔也の様子を伺っていると、かくれんぼでもしているような気になった。鼻梁の高い、冷たげな横顔に、静かな陰が落ちていた。

多津朗に気づかないのか、相変わらず朔也の手は作業を続けている。

作業といっても、陶芸の制作ではなかった。机に並べた焼き物を、何の感動もなくひとつ掴み上げては、よく見もせずに床の上で手を離す。規則性こそなかったが、機械的な動作であった。

「…手伝おうか…」

多津朗が声をかけた。朔也は声の方を見もせずに、手にした器をまたひとつ落とした。

「掃除を、か?」

静かな声だった。

多津朗はそっと歩み寄って、朔也の手元を押さえた。

「令の処に泊まったのか」

朔也は多津朗を見ずに、器に視線を落としたまま尋ねる。

「令さんの? 僕が? まさか。家に帰ってたんだ」

微かに笑って、多津朗は朔也の手を掴む指に力を込め、自分の口許へと朔也の指を持っていった。

多津朗は俯いた朔也の口許に、自分の顔を近づけて口づけた。

自分の背が朔也の唇に届くくらいになっていることに、多津朗は始めて気が付いたのだった。

「初めてだな」

唇を離すと、朔也が呟いた。

「初めて、あなたに口づけたいと思った」

令次の名が朔也の口から出た途端、そうしたいという衝動に駆られたのだ。令次のところに泊まった多津朗に嫉妬したのか、多津朗を留めた令次に嫉妬したのかはわからなかったが、少なくとも、朔也が少しばかり感情を見せたことに多津朗の気持ちも動いたのだ。

多津朗の指が朔也の唇をなぞり、そのまま多津朗は朔也の胸に凭れこんだ。柔らかな紬の織りが頬に触れる。かすかな匂いは着物に染み込んだ土と釉薬の匂い。

ほう、と小さく多津朗は息をついた。

今度は、朔也の指が多津朗の唇をなぞりに来た。

 

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その夜、ふたりは浅草の酉の市に出掛けた。竜泉寺町の鷺神社では、熊手を売り買いする気合の声があちこちの露店の店頭で交わされる。

肩を並べて二人は、人いきれで少しばかり温もっている夜気の中を歩いた。

人波の中で、先に立っていた朔也が立ち止まった。そして、横に並ぶ多津朗の袖を伝って手を探してきた。

「仲森さん…?」

右手を握り込まれて、多津朗は朔也の顔を窺った。その視線の行く先を多津朗が追って見たなら、斜向かいの露店で熊手を買う男女がいた。夫婦者に見えない年齢ではないが、かなりの年齢差があるのは否めない。

男が店の親父と交渉している間に、視線を感じたのか、女がふとこちらへ首を向けた。朔也の表情が僅かに動いたところを見ると、朔也はどうやらその女を見ていたらしかった。女はすぐに朔也を認め、そしてその途端に顔を背けた。

島田に結ってはいるが、衿の抜き方、紅の引き方にどう見ても素人ではない艶がある。

この人か。

多津朗はとっさに思った。

この女がたぶん、朔也が通う白粉の女なのだ。

だが、その女性の悲しげに背けた横顔を見ると、多津朗はそっと朔也を窺い見た。泣いているのではないかと思ったのだ。自分の手を堅く握ってくる朔也の手が、震えている。女の悲しげな横顔は、そのまま朔也の表情でもあるようだ。

「初音、行くぞ」

連れの男が買い物を済ませ、俯いたままの女に声をかける。

男女は何事もなく、多津朗と朔也の横をすり抜けていった。

立ち尽くす多津朗と朔也を避けるように、人の波は動いていく。通り過ぎた女の影を振り向くこともせずに立ち尽くす朔也の影が、たくさんのアセチレンの光で放射状に地面に映る。

どこへでも行けるのに、どこにも行けずにいる朔也の足元を示しているかのようだった。

それきり朔也は『初音』のもとへはでかけなくなった。

後に、朔也が遊里の女と相対死したとき、多津朗はこの酉の市の夜を思い出すことになる。

朔也が一緒に死んだ女は、この酉の市の女ではなかったけれど、朔也と、「初音」と呼ばれたあの女が、一瞬の視線と共に交わしたせつなげな情は、多津朗の心に残った以上に、朔也の心にも残ったはずであった。

朔也は自分の手に握った多津朗の手をそっと持ち上げて、唇許に寄せた。

「仲森さん・・・・・・」

朔也はしばらくそのままの姿勢で目を伏せていたが、多津朗の呼びかけに起こされたように、静かに目を開けた。けれどなかなか指を離そうとはしなかった。

人込みにまかれて迷ってしまいそうな朔也の想いをつなぎ止めるのは、今は手の中の多津朗の温もりだけだった。

 

( 了 〉

 

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