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雨中感歎號 (九)

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雨中感歎號 (九)

阿Bが目を覚ますと、エリックはソファで教科書を膝に眠っていた。
室内はエアコンが良く効いていて肌寒いが、エアコンのリモコンが見つからないので、阿Bが自分が着せられていた毛布をエリックの上に掛けてやった。
「唔該。起こした」
「いや。そろそろ起きようと思っていたから」
膝の上を探るエリックに、阿Bが眼鏡を手渡した。
「ごめん、これ。置いてあったから、落としたらまずいと思って」
「ああ・・・Thanks。具合はどうだ」
「うん。随分楽になったかな。汗かいたから、熱も下がったみたいだし。沖涼{シャワー}借りていいかな」
眼鏡の蔓を折りたたんでテーブルに置いたエリックが、懸念を示した。
「まだ傷を濡らすな。絞った手巾{タオル}で拭く程度にしておけ。手巾は右の棚の一番上」
エリックの言葉を受けて、阿Bは不満げに洗面所へ行こうとする。そのムッとした表情が、つい、エリックに阿Bを引き留めさせた。
「エリック?」
引き留める素振りで阿Bの肩を抱き、なんとか言葉を探し出して耳元で囁く。
「・・・傷は?」
「そっちも随分楽」
エリックは阿Bのシャツを捲って、わき腹を確認する。
赤い筋が一本走っている肉のついていないわき腹が、ソファに据わっているエリックのちょうど目の前あたりに無防備に曝け出された。
「エリック?」
エリックが阿Bのわき腹に唇をつけ、阿Bが目をぎゅっと瞑った。
傷を舌でなぞられると、湿り気に滲みたのか、阿Bは痛そうに顔をしかめた。
「エリック、どうした?」
エリックは無言で、阿Bのわき腹に唇をつけたまま、今度は阿Bの身体を引き寄せた。細い身体が簡単にエリックの腕の中に捉えられる。
エリックの脳裏には、ピークの邸にいた青年の、挑むような、絡みつくような視線がちらついていた。まるでそれに煽られるかのように、阿Bを少しでも自分の触れるところに置いて離すまいと思ってしまう。気を抜けば、あの青年が阿Bをあの邸に閉じ込めてしまいそうに感じるのは、ただの想像だが。
佢{かれ}の視線の一々が、阿Bに触るな、と言っていた。近寄るとたたじゃおかない、とエリックに言っていた。それゆえ、阿Bに触れる自分の一挙手一投足に、許すまじと視線を送ってきていたように思えてならない。
阿Bの背に腕を回し、ベッドへと倒れこむ。
脱がせきっていない阿Bのシャツの背中でエリックの指が忙しなく動く。捲り上げたシャツのわき腹から、唇と舌があばら骨を伝って腹から胸へと、もどかしげに。
左腿には傷があるということだけは、職業柄、本能で常に意識を砕くが、下着を剥ぎ取ってしまうと、後はさほど傷に大きく障る動作はなかった。
阿Bが自分の腕に噛み付かないように、両手頸をエリックが片手でまとめて頭の上に押し付ける。その阿Bの両手の指が、ベッドの枠を掴んでいることを確認すると、手頚を締めつける指を緩めた。
骨ばった背中を抱き、腰を持ち上げる。
エリックの指の動きに追い立てられる阿Bが、何か言いたそうに唇を動かすのへ、その言葉を奪い取るようにエリックが阿Bに口付ける。
エリックの指が阿Bの熱を帯びた中を探ったとき、阿Bが自分の指に歯をかけた。それを見たエリックが、自分の片手の指をすかさず阿Bの口に差し入れた。
エリックの指に頬を嬲られて阿Bが我に返り、嫌だと言わんばかりに首を振る。
それに気づいたエリックは、ゆっくり阿Bの口から指を引き抜いた。阿Bの細い顎を労わるようにエリックの指が撫でる。
それから、阿Bの顔にかかる髪を掻きあげてやって、エリックは阿Bから体を離した。
大きくひとつため息を吐くと、自己嫌悪が襲ってくる。
阿Bがゆっくりと目を開けたが、隣にいるエリックは自分の片手で顔を覆ったまま、ベッドから降りていった。
「エリック」
「唔該{すまん}」
妒忌{やきもち}を焼いた。
佢の視線に焦るかのように、あるいは、見せ付けるかのように阿Bを抱こうとした自分に嫌気が差す。いずれにしても佢は今、ここにはいないというのに。
「悪かった。今日はやめ。・・・パス」
ベッドの縁に腰掛け、それきりエリックは黙りこくる。
だが、我慢しきれず、やがて、口を開いて訊ねた。
「あの青年は?」
阿Bは、最初エリックが何を言っているのかわからなかった。だが、ああ、そうか、と今日の夕方にピークの、陳輝火の邸へ行ったことを思い出した。
「陳輝火。妹の、兄」
「おまえの妹の、・・・兄? おまえの兄弟?」
「違う。我の妹は、我と父親が違うし、佢は妹とは媽が違う」
エリックは慎重に考える。まだ、頭の芯が妙に熱っぽい。まるで熾火が残っているかのようで気持ち悪くて、振り落とすかのように頭を2,3度振った。
「なら、你と佢の関係は?」
「赤の他人」
即答で返事が返ってくる。それに少しだけ笑って、エリックはもう一度、自分なりに整理しながら考えた。
「あの邸は、妹の父親の屋企か」
「違う。陳輝火の屋企だと思う」
事情がいまひとつ飲み込めないらしいエリックに、阿Bがくすっと笑う。
「エリック。陳輝火だよ。知らないの?」
「有名人か?」
阿Bがテーブルの上の教科書やプリント類の下からテレビのリモコンを探し出し、手に取ってテレビをつけ、目的のチャンネルに変えてみせた。
「ほら」
エリックはまず見ない芸能番組だ。司会者が「ロイ・陳{チャン}、陳輝火」と呼びかけてマイクを向けた明星{タレント}が、ピークの邸で会った青年だった。
「芸能人だったのか」
眼鏡を掛けていないし、髪型もいじっている。衣装も、さほどごてごてしたステージ衣装でもないが、身体のラインが出るような細身の、ラメが入った深い緑の前身頃のベストと黒のスラックスが長身を際立たせている。
「そうか。芸能人か」
改めて、電視の画面に映る陳輝火を見つめる。
「エリックは香港人じゃないから仕方ないか」
くすくす笑う阿Bに、エリックもようやく頬を緩めて笑う。
「それで? あの青年が、この明星の陳輝火だということはわかったが」
「陳輝火の父親は、陳輝大だ」
おそらく、普通に報紙を読み、電視のニュースを見ていれば、香港の経済で話題に上がらない名前ではない。エリックも知っていた。
「飛龍貿易か」
一代で香港の巨大企業に成長した。貿易公司という古い名称のままだが、今では貿易業だけではなく、食品、流通、ITなどの分野でも名を上げている。
エリックは、ふと、陳輝大の今の妻が、女だてらに飛龍が主軸のシンジケートの中でも大きな役割を果たしている企業の總經理{社長}であることを思い出す。
「媽が何で陳輝大と知り合ったのかは、今となっては知らないけど、陳輝大は、一度は媽を拾って、そして捨てたんだ。それでも、妹の治療費だけは出してくれているはずだ」
実の娘だという確信があるからこそ、血の繋がりのある娘へはすることはするということか。
「どこが悪いんだ?」
「心臓とか、腎臓とか、生まれつき、あちこち」
「陳輝火と一緒に住んでいるのはどうして」
阿Bが僅かに唇を噛んで、顔を歪めたのが見えた。エリックは、地雷を踏んだ質問だったか、と後悔する。
苦いものを飲み込むような僅かな沈黙を挟んで、阿Bが話を始めた。
「陳輝大が阿蓮と・・・今の陳の奥さんと結婚をしたのは、阿媽{かあさん}とアイリーンが陳輝大のもとへ引き取られてすぐだったんだ。媽は、自分が陳輝大の妻になんてなれるはずもないのはわかっていただろうに、陳がアイリーンを引き取ると、治療もできるだけのことをしてやると言ったのを間に受けて、のこのこと城砦を出て行ったんだ」
ちょうど、97年の香港返還に向けて、九龍城砦が壊されるって言われたときだったから、と言った阿Bの声が滲んでいた。
「でも、陳輝大は、媽とアイリーンを呼び寄せたその日に、阿蓮との結婚を発表した」
陳は阿Bの媽に、住まいと金と娘の治療を与えてやると約束したらしいが、佢{かのじょ}は強く陳輝大を拒んだらしい。今思えば、同じ日に発表しないとならなかったのは、媽のような鶏(*)を相手に子どもを作ったことが世間にばれないように、カムフラージュの意味もあったのかも、と阿Bは嗤う。
「陳の扶助を拒めば、媽もアイリーンも行き場はない。そしたら、輝火が、・・媽に助けを申し出た」
ここに来ては火仔に悪い、と言った阿Bの媽の科白がようやく理解できた。体の弱い娘を抱えて、自分を捨てた愛人の息子に世話になっているとすれば、縁もゆかりもない自分の息子は、そこにいるべきではない、と考えているのだろう。
「そんな顔して見ないでくれ。なんだか、みじめになる」
「惨めになどなる必要はない」
「・・・同情されたくない」
「してない」
エリックが阿Bの頭を抱えて、ベッドに転ぶ。
身体にまだ、先ほどの妙な熱が残っていることは否めない。陳輝火の鋭い視線は、まだ自分にまとわりついている気がする。あの厳しい視線を送ってきた意味は、自分が阿Bのそばにいることへの、なんらかへの抗議だったというのは確信している。しかし、阿Bから事情を聞けば聞くほど、逆に、火仔が阿Bに執着する理由は特に無いように思える。いわば阿Bから媽と妹を奪い手中に置いているわけだし、輝火自身はスポットライトを浴びる、人から注目を十分受ける華やかな職業だ。富にも名声にも不自由しない陳輝火が、何も持っていないかに見える阿Bに果たして何を妬むのか、と思えば。
「你自身か」
「え?」
何を言ったのか、と、掠れた声で阿Bが訊ねる。
没{何も}、と答えながら、阿Bの表情が強張ってはいないことを確認し、エリックは阿Bの耳仔に吻吧をしながら「嫌なら、ちゃんと言え」と念押しする。
そう言いながらエリックは、自分こそ、今度こそ自制しきれないかも、と思い始めている。
阿Bの身體はエリックの指を特に拒まない。エリックの指が命じるままに身体を開いていく。概ね目を瞑っている阿Bは、時折薄く目を開ける。目を開ける直前は一瞬だけ、身体が強張っているのだと、次第にエリックもわかってくる。どうやら、目を開けるのは、そこにいるのがエリックであることを確認しているようだ。いや、自分を抱いているのが誰なのか、を確かめているのかもしれない。忌まわしい過去の悪夢を見ているのではない、という確証を得たいためなのか。
やがて、エリックが阿Bを煽り立てていく。先だっては、ちょっとした悪戯心で手袋を嵌めて「実験」してみせたことを、今度は所謂、営みとして。
空調機は効いているはずなのに、香港の湿った暑さのように、ゆっくりとふたりとも汗を肌に着る。少なくとも、それが阿Bにとって嫌な汗でないのかを言葉で問うたら、阿Bからは、「要唔問{訊かなくていい}」と麻煩{面倒くさそう}に返ってきた。
顔をすっぽり覆うように両肘を顔の前に押し当てている阿Bの肘に、エリックが手を掛ける。
「阿B。腕を外せ」
「噛んでいない。エリック。無問題・・・OK呀」
「阿B」
「大丈夫だって言ってる・・・」
「違う。腕を」
両手で阿Bの腕を解いてみせる。
「腕は、相手の背中を抱くもんだ」
阿Bの手を片方ずつ、自分の背中に回させた。
傷を負っていないほうの膝を持ち上げる、阿Bの顔が少し歪んだ。
エリックの気遣わしげな顔が目に入ったらしく、阿Bのほうが笑う。
「脇が痛んだだけだって」
エリックが傷口を見るが、開いてはいないことが見て取れる。
肩甲骨と背骨の上に置かれた阿Bの指に、まるで噛み付くように力が籠められるが、むしろ、正常な反応だ。エリックは阿Bの間に置いた自分の身体を押し進めた。
一瞬、阿Bの身体が離れようと抵抗を見せたが、エリックが少しずつしか進まないことを示すと、やがて阿Bが指を緩めて、腕全体に力を込めてエリックの背中を抱くようになった。同時に、傷のない阿Bの右脚がエリックの腰に絡まった。

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