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雨中感歎號 (一)

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雨中感歎號 (一)

登場人物紹介

阿B:本名 李器廣(レイ・ヘイグォン)17歳まで香港の九龍に母と(父親が違う)妹と共に住んでいた。今は夜總曾(クラブ)の給仕と、レンタルビデオショップのアルバイトをしている。 火仔:本名 陳輝火(チン・ファイフォ)香港TVB所属のタレント・歌手。父親は香港の五指とも三指とも言われる企業の総帥。父親の愛人のひとりが阿Bの母親。阿Bの父親違いの妹は、火仔にとっては腹違いの妹にあたる。
フルネーム不明。
「夜霧」というのが本名かどうかもわからない。
香港人には阿夜と呼ばれることもある。
どうやら日本人らしい、ということはわかっている。若い頃からかつての九龍城に住みつき、阿Bのことを子供のころから知っている。
阿Bにとっては兄とも父とも慕うことのできる人物。
エリック:本名 潘宣力(ブーン・イーリック)母親は香港人、父親はイギリス人。現在は香港大学医学部の大学院生。
美紅:阿Bと同じ夜總曾に勤めるホステス。阿Bとそれなりに親密な仲。 陳輝大:火仔とアイリーンの父親。(故人)
阿蓮:陳輝大の2番目の妻で、共同経営者でもあった。

 

「―― 悪いな」
ライターの小さな炎が点る。
最初の紫煙と一緒に、躊躇うでもなく吐き出された言葉がそれだった。
隣に寝ていた女が、きついウェーブの髪をかきあげ、阿Bの口から煙草を取り上げた。
「ほんとだったんだ?」
くるりと腹這いになる女から、阿Bは煙草を取り返す。
「シーツが焦げる」
女は不満を言うでもなく、阿Bの短い髪に手を伸ばし、くすぐる。
「店の妹{おんなのこ}たちを避けるための方便かと思ってた」
「まあね。ちょうどいい言い訳にはなるな。―― がっかりした?」
気まずさはなかった。誘ったのは美紅{メイホン}のほうだったし、阿Bは最初から言ってあるのだ。
自分は「できない」のだ、と。
「ま。初めから聞いてたわけだし」
美紅は背中からぴったり寄り添ってきた。
「原因、何かあるの?」
「さあ」
「醫生{いしゃ}へは?」
「行ってないよ、そんなもん」
「諮詢{カウンセリング}とかは? 紹介してあげようか」
「不自由ないから、必要ない」
ついと背中から離れて、美紅が真剣な顔で訊く。
「もしかして、アンタ、男とやるほうが好きなの?」
阿Bは美紅のほうを振り向いてにやりと笑った。
「さてね」
阿Bが煙草をベッドサイドの缶に落とすと、缶の中の水に触れた火は、ささやかに抵抗の音を立てた。美紅は家姐{あね}が細佬{おとうと}を叱るように、阿Bの鼻を摘み上げる。
「笑{じょうだん}、よしなさいよね」
美紅はけらけらとわらって、阿Bの背中を引き寄せた。阿Bは女のすべらかな腕を取って、自分の体の上に重ねる。
「どっちがいいか、なんて、わかるだろう? これだけ女を喜ばせることができるんだから」
なんで男となんか、と言いながら、美紅の首筋に指を這わせ、ウェーブのかかった髪を除けながら自分のほうが上になる。ついばむように唇を重ね、顎を回って喉を伝い、優雅に浮き出た鎖骨をなぞって、胸に顔を埋める。
「柔らかい胸があったほうがいいよ。細い腰と、 ―― 丸い尻も」
そう。女の体は好きだ。男は体温が高い、と夜總曾の妹{おんな}たちは言うけれど、女の身体はひんやりと柔らかいところがいい。
それでも、阿Bは女と做愛{セックス}ができない。
美紅がすでに鼻にかかった声になって言う。小さな吐息なのか、ため息なのかわからない息とともに。
「損じゃない。アンタばっかり・・・・・・」
どこかやけになっているような虚勢と、見た目の年齢には少しばかり見合わないような諦念とを感じさせる阿Bに、この男仔{コ}は何歳だって言ったっけ、と思いながら、美紅は男として機能しないことにささやかな同情すら覚えながら指を受け容れた。

◆◇◆◇◆◇◆

「美紅。美紅? そろそろ起きろよ。夜總曾{みせ}に遅れる」
美紅が目を覚ますと、阿Bは既に身支度を整えて、夜總曾{クラブ}に行くところだった。
「あいた。どうしてもっと早く起こさないのよ、この男仔{コ}は・・・!」
美紅がシーツに包まったまま、床に落としたスリップを拾い上げた。
「美紅、あんた、傘なんて持ってないよね。的士{タクシー}拾ってきてやろうか?」
「え? ウソ。雨降ってんの?」
散々激しい雨音がしていたのに、余程よく眠っていたのか、美紅は激しい雨に全く気づいていなかったようで、申し訳程度にぶら下がっているブラインドを持ち上げて窗{まど}の外を見ようとした。
「あ。バカ。それは触るな・・・!」
阿Bが言い終えないうちに、ブラインドという名のガラクタは、美紅がまだ半身を横たえているベッドの上に、派手な音を立てて落ちてきた。
「ちょっと、何よ、これ! 服が汚れたじゃない!」
「人んちのものを壊しておいて、そりゃないだろう? 紅姐{ホンジェ}(*1)」
「・・・信じらんない。なんでこんなボロなのよ?」
「最初っからついてたものを、ぶらさげたままにしてただけだ。それより早く服着ろよ。我{おれ}、もう出なくちゃ。経理{マネージャー}に怒られる」
阿Bも自分用の傘は持っていないらしく、スタジャンを頭からすっぽり被る格好で美紅を急かす。
「・・・我{あたし}、や~めた」
「はぁ?」
「今日は自主休業。夜總曾、行かない。経理{マネージャー}に言っといて」
じゃあね、拜拜{バイバイ}、とシーツを頭からすっぽり被って手だけ出して振る美紅に、一瞬唖然として何も返せずにいた阿Bは、我に返って慌てた。
「おい。笑{じょうだん}よせよ。你{あんた}が我の房{へや}で休んでるなんて知れたら、我、経理に殺されちまうだろ」
今にも出て行くつもりで握っていたドアノブから手を離し、阿Bは美紅のシーツをひき剥がしにかかった。
「経理の許{ホイ}が你にベタ惚れってのは皆、暗黙の了解で你には誰も手を出さないってんだから、面倒を起こさないでくれよ」
「你{あんた}のこと、昨夜は最っ高だった、って言ってあげるわ」
「美紅! 笑{じょうだん}・・・・・・!」
美紅の表情が、夜總曾を休むというのは、ただ阿Bをからかっているだけだと言っていた。ムキになった阿Bが、手にしていたスタジャンを美紅の頭にばさりと被せて、美紅が嬌声を上げたところに、扉をノックする音が響いた。
「お取り込み中、お邪魔するが」
「・・・輝火・・・」
水も滴る、ではないが、雨に少し前髪を濡らした靚仔(*2)が、冷やりとした目を阿Bに向けて立っていた。
「え。ちょ・・・・・・、陳輝火じゃないのっ!」
自分があられもない格好でいるということも忘れ、美紅がベッドから身を乗り出して驚く。
「急がないと本当に遅刻だぞ、美紅」
レン仔の視線に冷やされたかのように、すっかり冷えきった声で阿Bが、スタジャンを美紅の露わな胸に放り投げて、輝火に外へ出るように促した。

◆◇◆◇◆◇◆

「楽しいところに邪魔したようだな」
皮肉を声ににじませて、靚仔が言った。唐楼{アパート}の出入り口で地面を打つ激しい水飛沫が、はや、ふたりのスラックスの裾を濡らしていた。
「今から出勤なんだ。用件は?」
你とは話したくないという雰囲気を隠すどころか、声にも顔にもありありと醸しだして、阿Bは自分の聞きたいことだけを答えろ、と、靚仔に要求を告げた。
「愛伶{アイリーン}の退院が決まったこと伝えにきた」
「愛伶が」
一瞬だけ、阿Bの目が輝いた。靚仔もそれを見て、僅かに口角が上がる思いだった。だが阿Bはすぐさまもとの仏頂面になり、「いつだ」と短く訊いてきただけだった。
「今個星期六{土曜日}」
「・・・そうか。仕事で行けないと伝えてくれ」
誰に、とも言わない。まだ9歳の女仔{おんなのこ}とはいえ、哥哥{兄}が退院の日に来られないことはショックだろう。それにもまして――。
それじゃあ、と辞去の言葉すら言わないで、阿Bが雨の中に走り出そうとした、その腕を後ろからレン仔が掴み、止めた。阿Bは荒々しく即座にその手をふりほどく。
ほんの数秒、激しい雨音の中でふたりの視線がかち合った。
「あら。阿B、まだ行ってなかったの」
身支度、と言っても、着てきた服を着なおしただけだが、髪を整え、手持ちの化粧品で顔だけは幾らか化粧し直した美紅が、華やかな夜總曾の階段を降りてくるように、静々と降りてきた。
「阿B、的士を拾って一緒に店まで行きましょうよ。それで、途中、我屋企{うち}によって。着替えないと、昨日と同じ服じゃ、許に何を言われることか」
「小姐、良ければ、一緒に」
靚仔は躊躇わずに、美紅を誘った。
「阿Bと同じ夜總曾ですか」
角に停まっている車を指しながら、靚仔が美紅に訊いた。指を差しているのは、あの車で、と言いたいのだろう。美紅は黙って阿Bを見た。阿Bは何も口にせず、美紅と視線すら合わせないで、地面に叩きつけるような雨の中を、靚仔の示した車の方に走って行った。
靚仔はその後姿を見て、ややながらほっとした面持ちで、自分が着ていたジャケットを脱いで美紅に被せた。
「唔該哂{ありがとう}」
美紅が微笑むのへ、靚仔も空々しい微笑みで返して、ふたりは黒塗りのセダンに向かって走った。
「ねえ、你{あんた}、陳輝火?」
「ええ」
「真嘢{ホンモノ}?」
「明星{タレント}か、という意味でなら」
「・・・へえ」
先ほどの、阿Bの部屋で見せた八卦{ミーハー}ぶりとは大分違う態度で、美紅はひとつ上着の中にいる陳輝火をじろじろ見た。

◆◇◆◇◆◇◆

車中、誰も話をしないまま、ラジオ局に着いた。
「このまま夜總曾まで行くといい。帰りは六點に迎えに来てくれ」
前半は阿Bに言い、後半は司機{運転手}に言って、輝火はひとり車を降りた。それからわざわざ落車{降車}したのとは反対のドアのほうに回って、窓ガラスを叩いたが、阿Bは気づいていないはずはないのに、窓を開けようとはしない。司機が窓を開けると、輝火はジャケットの内ポケットから信封{ふうとう}を取り出して、阿Bに差し出した。
阿Bは一応、信封に視線をやり、無言で一度は手を出したが、そのまますぐに輝火に戻した。
「返しておいてくれ」
誰からのものなのか、何が入っているのか、阿Bにはどうやらわかっているらしかった。輝火もまた、無理に納めさせようとしないところを見ると、阿Bが受取りを拒むことは予測していたようだった。
「やってくれ」
短く、阿Bが司機を促した。
「本物なんだ?」
美紅が阿Bに言った。
「ああ。陳輝火だ。サインならもらってやってもいいぞ」
ふ、ん、と美紅は軽く鼻を鳴らす。
「そういう仲?」
「道{とおり}で我を降ろして、あとは旺角まで行ってやってくれ」
阿Bは美紅の問いをあっさり無視して、司機に指示を出す。
「あら。先に旺角{うち}へ寄ってよ」
「我{おれ}をクビにしたいの? それとも経理に我を殺させたい?」
さすがに美紅も、それらのどちらも笑{じょうだん}ではないとわかっているので、ま、いいわ、と笑った。
「謎が多いのも、妹{おんなのこ}たちがあんたにきゃーきゃー言う理由の一つよ」
「紅姐、勘弁してくれよ。店では、今日の話は無しだ」
「『請{お願いします}』は?」
美紅の笑いから、ふざけて言っているのが阿Bにもわかり、苦笑しながら阿Bは美紅の口に吻吧{キス}した。
「請、大家姐{お願いします。おねえさま}」
阿Bが落車して、ひとりで車に乗りながら、美紅は考えた。阿Bと輝火、ふたりの間に、何かいわくがあるらしいことは十分わかる。ふと目の前にある運転手の後頭部を見て、問い掛けたくなったが、すぐに思い直した。的士{タクシー}運転手と違い、これは輝火のお抱え運転手だ。押しも押されぬ明星様{にんきタレント}と、たかだか水商売の妹{おんな}を比べてみれば、この運転手が美紅に口を滑らすようなこと、するわけがない。
そういえば、と美紅はふと思い当たった。
阿Bは運転手にただ「道{とおり}で降ろせ」としか言わなかったが、運転手は、確実に阿Bや美紅が勤める夜總曾に一番近い大通りで車を停めた。
「ね。今度は運転手じゃなく、お店に来てよ」
後部座席で、美紅がわざわざ運転手の後部に移動して、運転手の耳元で言った。
「”JADE”みたいな高級夜總曾、我{わたし}の工資{かせぎ}じゃ行けませんよ」
運転手はさらっと返してきたが、それはつまり、阿Bの勤めている夜總曾の名前を知っているということだった。
美紅はもうひとつだけカマをかけてみることにした。
後部座席のシートにどさっと背を預け、溜息をついて呟いてみる。
「阿Bも、たまには受け取ってあげればいいのにね」
運転手は何も言わない。美紅は、バックミラーの中から運転手が、運転しながらも自分を見ていることに気づいていた。視線を合わせず、しかし運転手の視線を感じて一秒、二秒、三秒。何も反応は返ってこないか、と諦めかけたところで、運転手が呟いた。
「輝火もよくやりますよ。断られることがわかっていても、佢{かれ}の媽{ははおや}から頼まれると嫌とは言えないんでしょう」
「あ。いいわ。ここで」
大厦{マンション}が見えてきたところで、運転手に車を停めてくれるよう頼み、美紅は車から降りた。礼を言って車が去るのを見たあと、美紅は呟いた。
「六點{6じ}、ね。まだ沖涼{シャワー}を浴びて着替える時間は充分あるわね」

< 二に続く >

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(*1)美紅ネーサン、とでもいった、親しみをこめた呼び方。

(*2)レン仔=美男子。

 

 

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