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雨中感歎號 (二)

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雨中感歎號 (二)

五點を少し回った頃に夜總曾に現れた美紅は、経理{マネージャー}の許{ホイ}を見つけてすぐにこう言った。
「ねえ。なんとか出てきてみたんだけど、歯が痛くてどうしようもないの。痛み止めが効かないみたい。今夜は帰ってもいいかしら」
美紅にベタ惚れと従業員からも言われている許{ホイ}だから、あっさりとそれを許した。だが、そのやりとりを偶然見ていた阿Bは、許に手招きされ、命じられた内容で、噂のように許は盲目的に美紅にベタ惚れしているのではないな、とわかった。
「今まで歯が痛いなんて言ったことはないんだ。今日は店を休んでいいから後を尾けてきてくれ」
「我{おれ}が?」
「係呀{そうだ}」
許が自分を指名する理由はわかる。許も阿Bが不能だということを知っているからだ。美紅の後を尾けさせたりしても、万が一にも阿Bと美紅がどうかなるなんて思っていないのだろう。
阿Bに何枚か紙幣を握らせ、許は店の仕事に戻った。
阿Bは小さく舌打ちして、手にしていた蝶領帶{ネクタイ}を放り出し、美紅を見失わないうちに、とベストを脱ぎ捨てながら後を追った。
「阿B」
呼び止めてきたのは、微微{メイメイ}という店の妹{おんなのこ}だった。
「どこ行くの」
「許支配人の用事で」
「阿B」
「咩呀{なに}?」
少しばかり苛立ちが言葉に出て、阿Bはつい、強く言ってしまった。
「今晩、我{わたし}、待ってるから。お店のあと、つきあって」
「微微。悪いがそういう約束はできない」
自分専用の控室から美紅が出てくるのが見えた。ちらりとこちらを見る美紅と目が合ったが、どうせ阿Bには美紅の尾行を美紅に内緒にするつもりもない。勿論、美紅と馴れ合うつもりもないが、隠れて尾行しなくてもある程度尾行をわからせて、美紅がそれを撒いてくれるほうが都合がいい。元々他人のプライバシーに興味はないが、許に義理立てしてそれを探ってやりたいとも思わない。ほどほどに自分が行動したことと、自分が間抜けであることを許に報告できればいいのだ。
「微微。店の妹{こ}といい仲になるのは禁じられている」
そう言い放って微微の手を振り解こうとしたとき、微微が小さな声ながら、鋭く阿Bに言い寄った。
「美紅は別なの?」
自分を見上げて食い下がる微微の目を見つめながら、阿Bは微微の真意を量ろうとした。
「微微」
華奢な肩にかかる髪をそっと指でかきあげてやり、耳に口を近づける。
「我はね」
まるで約束事を交わすような甘い声を出しながら、口に出した言葉は、女仔{おんなのこ}とは做愛できない事情があるんだ、というものだった。
「な・・・!?」
頬を一瞬にして紅潮させ、微微は腕を振り上げた。だが阿Bはその腕すらも完全なまでに無視して、店の通用口に急いだのだった。
微微が追って出てこないように通用口の扉を急いで閉めると、そこには美紅が壁に凭れて立っていた。
「可愛い子ちゃんを袖にしてきたの?」
「人が悪い。歯はどうした? 歯醫生{はいしゃ}に行くなら的士を呼ぼうか?」
「結構よ。情人{あいじん}に会いに行くわけではないから、你{あんた}は適当にどこかで時間潰してから許のところに戻りなさい」
そう言って美紅は雨の中をとっとと歩き出した。追うも追わないも自分の知ったことではない、と、ばかりに、後ろなど振り向くことなく。
雨は本格的に降り出していた。挨晩{ゆうがた}前に輝火や美紅と車に乗り込んだ頃よりも雨脚は速くなっている。しかし形ばかりでも追わないことには仕方がないので、美紅の後を追う格好で、脱いだベストを頭に被って小走りに行くと、ちょうど美紅が拾った的士が走り出したところだった。
折悪しくこの雨で、来る的士、来る的士、塞がっている。
「真嘢{ホンモノ}の間抜けじゃないか、これじゃあ」
ぼやいたが、こればっかりは致し方ない。まあ、大話{ウソ}を吐かずに、堂々と自分の間抜けぶりを話せばいいだけ、というのもいいのかもしれない。
濡れたまま支配人室に行くと、許がじろりと阿Bを睨んできた。
「失敗{だめ}だったのか」
「對唔住{すみません}」
どこで見失ったか、と聞かれるだろうと、一応構えたが、許は全く違うことを阿Bに言ってきた。
「微微のことだが」
「微微?」
「どうも你に入れ揚げてるようだな」
やれやれ、と、許の前であることも忘れ、一瞬思わず天を仰いで溜息を零した。
「扱いかねているのか」
許が笑った。許の笑った顔などは、店の者はほとんど見たことはないだろう。阿Bも見たことがなかったわけではないが、この店に来て一年の間で、片手の指で数えても指が余るくらいしか見ていないと思う。
「姑爺仔が」
楽しそうに、許はまだ、笑う。
姑爺仔{すけこまし}。この店に来た当初、やはり店の妹{おんなのこ}に言い寄られ、手をつけたと勘違いされて許に殴られた。許にはそのときに、自分が女には手を出すことはないということを話した。
「まあいい。適当にあしらっておけ」
「係{はい}」
それから、と許が笑いを止めずに言った。
「今晩はもう帰っていいから」
「え?」
「元々、美紅を尾けに出てもらうつもりだったんだ。それに今晩は早上がりだろう? たまにはゆっくりしろ。夜霧のやつが擔心{しんぱい}していたぞ。せっかく稼ぎがいいようにと翡翠{ジェイド}を紹介したのに、昔の仕事もまだやっている、と」
夜霧は阿Bにこの店を紹介してくれた男で、どうやら日本人らしいが、許とはもう随分古い知り合いだという。香港の夜總曾は黒社会{ヤクザ}の資金源でもあるのだが、それこそ小さな場末の店から観光地化されている有名な「大富豪」やこの店のような翡翠{ジェイド}まで様々だ。だが、大きな店になればなるほど、簡単には仕事に就かせてもらえないのは普通の公司{かいしゃ}と似ている。阿Bのように特に学があるわけでもなく、かと言って金のある家に生まれてもいない者は、大体使い走りから黒社会の細佬{こぶん}になっていくことも多い。幸いにも阿Bは、廻り合わせが良く、今のところ黒社会には直接のかかわりを持たずにいられるが、夜總曾勤めというのも、それに近接した社会であるから、やはり普通人とはいえないだろう。
許の心遣いに礼を言って部屋から出ようとしたら、
「ここに戻ってきているのが微微に見られたら、また騒がれるだろうから、気をつけろ」
そう言って、最後にまた付け加えた。
「姑爺仔」
更衣室に着替えに行くと、途中に妹{おんなのこ}たちの更衣室を通るため、微微や其他{ほか}の妹たちに見つかると嫌なので、着替えずに黒服のまま裏口から出た。
雨は少しばかり、緩くなっていた。
行き交うヘッドライトと街の光管招牌{ネオンサイン}が、雨に反射して虹色に渦巻く中を、濡れるのも構わず阿Bは歩くことにした。どうせ、的士は空車がつかまらない。

◆◇◆◇◆◇◆

六點に無線電{ラジオ}の公開番組が終わると、輝火は控え室に寄ることもせず工作室{スタジオ}からまっすぐ通用口のほうへと向かった。
通用口には大体、明星{タレント}が出ている番組を目当てに迷{ファン}がちらほらと「出待ち」をしているものだが、今日は公開番組ということで、大きなガラス窗{まど}の収録工作室でやっていたものだから、裏口には迷は少ない。
その代わりに、まさか居るとも思わなかった顔を見つけ、輝火は眉を顰めた。
「你好{どうも}、小姐」
すぐに気を取り直して、明星的笑{スマイル}で輝火は美紅に向かって手を上げて挨拶した。
「辛苦哂{おつかれさま}」
美紅のほうも、営業笑を返して労いの言葉を口にした。
「さすがに香港屈指の高級夜總曾のナンバー1ですね」
「そう?」
美紅は「乜嘢呀{何が}」とは聞かないで艶然と笑うだけにする。ここでハッタリを利かせないとなんのために今まで夜總曾で妹{おんな}たちのトップに立ち続けてきたかわからない、とばかりに。
「何を訊きたくて、わざわざここへ?」
どうやら陳輝火という男は、頭は悪くないらしい。美紅がただの八卦{ミーハー}で無線電局{ラジオきょく}まで追いかけてきたわけではなく、思うところがあるというのは見抜いているようだ。
「阿Bのことを尋ねたくて」
「情人{こいびと}なのでしょう? わざわざ我{ぼく}に訊かなくても」
輝火の表情から、表面的な笑いは消えない。電視{テレビ}で見る顔がそのままここにある。ということは、これはあくまで愛想のよい明星としての笑いなのだろう。
しかし輝火の言葉で、美紅は輝火が阿Bの肉体的な問題を知らないのだと知る。知らないふりをしているのでなければ、だが。
「悪い女に引っかかった、と思ってるんじゃない?」
「赤の他人が誰と付き合おうと、口を出す筋合いはないね」
美紅は一瞬怯んだ。司機{運転手}の漏らした言葉から想像したのに沿わない返答が、輝火から返ってきたからだ。
だが、少しばかり変化球を投げてみる。
「さっきの封筒。私から阿Bに渡してあげてもいいのよ」
輝火はその美紅の言葉に対して鼻で笑うように言った。
「それであいつが受け取るとでも? それとも、中身が狙いか? 高級夜總曾の稼ぎがある你にはさほどの額も入ってないぞ。それとも佢{やつ}に頼まれて取りに来たとでも? だとしたら我は佢を軽蔑するな。これまでずっと受け取らないで来たことには敬意を払っていたのに」
そこまで一気に言ってしまってから、輝火は美紅の表情に気づいて、ぎょっとした。美紅は明らかに事情が飲み込めないでいる当惑の表情をしていた。
「・・・小姐、我にカマをかけたのか」
美紅の肩を壁に押し付けて詰め寄り、声を低くして罵りを言う。
「所詮、『悪い女』レベルの女か。何が狙いなんだ?」
電視{テレビ}で輝火の歌や喋りを聞いたことくらい美紅にもあったが、これまでに知っていた歌声や話し声よりも、数段厳しく、そしてその分色気のある声だと思った。
「・・・安心して。ただの好奇心よ。阿Bに惚れこんでいるだけ」
確か、報紙{しんぶん}や週刊誌で見た記憶によると、自分よりも7つ8つほど年下だったと思う輝火の勢いになど負けてはなるものか、と美紅は輝火に対峙する姿勢を見せた。もっとも、自分でも「好奇心」がなにゆえなのか、口にしたようにそこまであの阿Bに惚れ込んでいるのか、よくわからないまま、美紅はわざわざ店を休んでまで、輝火に会ってこんなことまで言ってしまったのだが。
「――いいでしょう、小姐。どこかで話をしましょう」
輝火は瞬時に冷え切った表情に切り替えて、美紅からあっさりと手を離し、先に立って出入口に向かった。

◆◇◆◇◆◇◆

「これ、ちょっと見てもらえますか」
レンタルビデオ店の受付カウンターで、ひとりの客が阿Bに差し出したビデオは、日本の電視劇{テレビドラマ}のビデオだった。勿論、海賊版(*3)だ。
係{はい}、と受け取ろうとしたときに、乞嗤{くしゃみ}が続けざまに飛び出した。
「風邪?」
問うてきた相手を見れば、阿Bは見たことのない客で、ひと目でわかる西洋人の血が混じった顔貌{かお}だ。色の薄い髪はアジア人の黒を染めたのではない柔らかさがあるし、瞳は薄暗い店内でさえそれとわかる碧だった。日本人向けビデオレンタル店では珍しい顔だ。自分と交代で、ここでアルバイトしている啓仔のときに良く来ている客かもしれない。
「これは海賊版だよ」
留学生などはよく、海賊版だと知らずに借りて帰り、映画館の最後部でハンディカメラで録画したであろうことが丸分かりの、スクリーンの下部が人の頭の影で遮られている映像を見て驚いて文句を言いにくることがある。香港の知的財産権というものは完全に空洞のひどい法律で、統括国のイギリスで登録された後に、香港特許庁という名ばかりの役所に書類さえ出せば香港での登録が許可される仕組みになっている。もっとも、映画の海賊版が野放しになるのはそのような形骸化した法律のせいばかりではないだろう。中国本土、シンガポール、マレーシアなどアジアの多くの国に海賊版が正規版と肩を並べて存在しているが、同じアジアでも日本においては、著作権を含む知的財産権が西欧諸国並に遵守されている。海賊版が横行している国々の特徴は、中国人あるいは華僑がその裏マーケットを動かしているというものだ。つまり海賊版の出回る元は、どうやら中国人の知的財産というものに対する「大らかな」性格に拠るところが大きいらしい。
日本のテレビドラマなどは、自宅でテレビ放映をハンディビデオで撮影しているものがほとんどだが、映画館での撮影よりはまだ見良いものだ。
ところが客は苦笑して言った。
「いえ。海賊版は承知ですが、これは違うものが録画されていて・・・・・・」
違うドラマのテープに、インデックスを貼り間違えでもしているのか、と、阿Bはビデオテープをデッキに入れた。実は、それもまたよくある苦情なので、特には気にしていない。
画面に白い横筋が何本も入り、暫くして映ったのは、男同士のカップリングがベッドでよろしくやっている画像だった。
「これ、こういうドラマ?」
阿Bが客に向かって訊く。
「いや。客に訊かれても」
「店員がすべてのレンタルビデオの中身を読書{勉強}して見てるわけじゃないよ」
阿Bが言うと、また苦笑する客。そしてこう続けた。
「たぶん、ドラマや映画ではなく、自分たちの行為を撮ったものではないかと思うけど」
「どうしてそう思うわけ?」
「最後までストーリーがなかったから」
そう聞いて阿Bは思わず吹き出した。
「アンタ、全部見たワケ?」
「いや。違うドラマのテープに、このインデックスを貼り間違えたのかと思って」
少なくともこの客は、海賊版であることに苦情を言うつもりはないってわけだ。
阿Bは笑いをかみ殺しながら、ビデオデッキの停止ボタンを押して、テープを取り出した。
「たまにいるんだ。悪戯でテープに上書きして潰してくる客」
「じゃあ、我{ぼく}の前の客がこれを?」
「さてね。もっとずっと前から上書きされてて、でもこれを借りて帰った客は誰も文句を言わなかったどころか、楽しんで観ていたのかも」
「そうかな。構図も工夫がないし、好みの仔じゃなかったから我{ぼく}は楽しめなかったな」
テープをケースに入れて、大きく「没」とメモ書きした紙を輪ゴムで留めていた阿Bは、客が言った言葉の意味に気づいて、客の顔を見た。
(ヘンなやつ)
阿Bが笑っていいものかと一瞬躊躇すると、客のほうが肩をすくめて笑いかけてきた。
阿BはPCを操作しながら、客にお決まりの申し述べをした。
「今日は何か借りて帰りますか。1本免費{ただ}にするよ。今日借りないなら、次回使える票{チケット}を出すけど?」
「お薦めのもの、何かある?」
「日本のテレビドラマが好きなら、あっちの棚に今日出た新作があるよ。勿論、海賊版だと思うけど」
「多謝{ありがと}。見てくるよ」
棚の向こうにひょこひょこ飛び出している薄茶色の頭を見ながら、(まあまあちゃんとした広東語を喋ってるじゃないか)と思う。見かけは欧米の色が濃くて、話す言葉は広東語、なのに日本人向け(もちろん香港電影{えいが}や電視劇{ドラマ}のビデオもあるが)ビデオレンタル店に来ている客。
間もなくその客は、ケースを一つだけ持って、カウンターに戻ってきた。
「これしかないみたいだけど、一本だけ借りるのでもいいの?」
「無問題{いいよ}」
コンピュータの操作をしながら、阿Bは客に名前を尋ねた。
「エリック・潘{プン}。潘宣力{ぷん・いーりっく}」
「OK呀。返却は明日ね」
テープを差し出すと、エリックはにこりと笑って受け取った。

< 三に続く >

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(*3)香港では海賊版のビデオやCD(最近ではVCD、DVDも)が、正規版と並んで売られていたりする。1997年返還前までは、イギリスで登録された特許・意匠・商標だけが、確認登録という制度で香港で登録されるシステムになっていた。

 

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