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雨中感歎號 (十二)

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雨中感歎號 (十二) 最新話

「脱ぐ、のか」
「脱がないと診られないだろう」
不承不承、ベルトを外す。
エリックがバスタオルを投げて寄越した。「ちゃんと脱げ」と言われ、膝までしか脱いでいなかったジーンズを、阿Bも諦めて脱いでバスタオルを腰に置いた。
「Thank you」
エリックに礼を言われ、阿Bは更に気まずさを感じる。
「・・・礼を言うのは、・・・こっち・・・」
唔該、と言った阿Bの顔を、ソファの傍に膝を着いたエリックが振り仰ぐと、気まずさに顔を朱くした阿Bはできるだけ首を捻って顔を背けた。それを見て、エリックは、声を出さずに、わずかに頬を緩めた。
「好痛{いたい}っ」
エリックが太腿を押さえると、痛みが走った。
「やっぱり痛いか。赤くなっている。少し化膿していると思うんだが、傷は開かないで、このまま薬を飲んでもらって、様子を見ていきたいんだが・・・。――明日と明後日、明々後日くらいまで続けて来てくれないか。我は夕方6時以降なら戻ってきているから」
薬のシートをエリックが差し出した。
「そんなの。・・・そんな毎日、来れるかどうか」
「仕事も休みなんだから、時間はあるだろう」
嫌味なふうでもなく、さらりと言われ、履いていいぞ、と言って、阿Bの後頭部をぽん、と叩く。
手袋を外して、手当に使ったガーゼと綿球を片付けながら、「ああ、そうだ」とエリックは思いついた。
「そのまま服を自分のに着替えてしまえよ。荷物、持ってきているんだろう。そのほうが手間も省ける」
「手間なら、我なんて放っておけばいいだろう!」
阿Bが急に声を荒げた。
流しで鍋に湯を沸かし始めたエリックが、一瞬、手を止めたが、すぐにまた、コンロに火を点け、手当てに使ったピンセットなどを鍋に入れ始めながら言った。
「手間は你の手間という意味だ。服を洗ったり、返しに来るより、ここで自分の服に着替えたほうがいいだろう、と言っている。你の手当てをすることが手間とは言っていない」
火加減を調整して、火から離れて阿Bの元へ寄る。
「このままここに居れば、もっと手間を省いてやれるんだが」
失言だったと思ったのか、口許を押さえて顔を朱くしている阿Bの髪に、エリックが手を触れる。電流が走ったかのように、阿Bがぴくりと身動いだ。
「阿B。昨日のことはあまり意識するな。ここに你を泊めたからと言って、それでどうこうしようとは思っていない。気まぐれで遊んだつもりでもないが、だからと言って、必要以上に昨日のことを重く捉えるな」
テーブルに浅く腰を預ける格好で阿Bの隣に立つエリックは、阿Bの髪に手を置いたまま話した。
「你のことが嫌いじゃないから、你に気持ちさえあれば、そういう関係になってもいい。でも、你の相手は我でないとならないわけじゃない」
阿Bがエリックを振り仰ぐ。
「――そんな不安げな貌をするな」
苦笑して、エリックが阿Bの隣に座る。
「Imprintingってわかるか。良く例えで挙げられるのは、生まれたてのヒヨコの前でモップをばたばたさせるってやつだ。目がまだ良く見えない生まれたての雛は、すぐ傍で動くものが自分の親だと思い込む本能がある」
そこまで言って、阿Bの眼が、「我をヒヨコと一緒にするな」とムッとしているのがエリックにも良くわかった。エリックは笑って、その阿Bの表情を受け流す。
「昨日、你は、「あのときは」嫌じゃなかったかも知れない。だが、それは、つまり、これまで你は仕方なくやらされてきてたことが、少しばかり、気持ちよくできたから、違うシチュエーションで我と抱き合ってみたら存外、悪くない印象にすりかわったってだけだ。誰でも、快楽を与えてもらえれば、少しは勘違いするだろう。初めて『嫌ではない』体験をしたことが、你に誤解を与えてしまっているというだけのことかもしれない」
そこまで言って、エリックは吹き出した。
「咩呀?」
「いや。你のことじゃない。我ながら、ものすごーく阿爺{おっさん}くさいな、と」
漸く、阿Bがくすりと笑った。
「そうだ。聞いておきたかったんだ。阿B、你、いくつだ」
「十八」
エリックが好好{よかった}、と大げさに安堵のため息を吐く。
「どうしてだ?」
「十八歳未満を相手にすると、犯罪(*)」
「えっ」
笑{じょうだんだ}、と言われるのを待ってみたが、エリックはその言葉を言わない。
「本当に?」
「冗談だと思った?」
エリックは笑ったが、阿Bは笑えなかった。
「阿B?」
「我、今年、十八になる、けど」
「・・・まだ、十七、か」
エリックが、さも、困ったな、と言うように笑った。
コトコトと医療器具を煮ている鍋が煮える音がする。エリックが火を止めに立った。火を止めた鍋には、温度計を放り込んでおく。冷房の効いた部屋で冷やされていく湯の中、温度計の赤い柱が少しずつ下がっていくのを暫く見ていた。
「生日{たんじょうび}は?」
阿Bに背を向けたまま、エリックが尋ねる。
「・・・7月1日」
振り返ったエリックが、ほろりと笑って言った。
「3年後には盛大な生日舞会{バースディ・パーティ}をしてもらえるな」
一九九七年七月一日、香港は99年の時間を経て、中国に返還されることになっている。
阿Bは、返す言葉は見つけ出せなかったが、気持ちが柔らかく解されたように思え、なんとか笑顔を作ろうとした。
「今年の生日のプレゼントはもう決まったぞ」
エリックが傍に戻ってきて、髪に触れて言った。
「なに?」
「抜糸。ちょうどその頃だ」
Lucky呀、と阿Bが声を滲ませて言った。
撫ぜるでもなく、梳くでもなく、阿Bの髪に指を差し入れたまま、エリックの指は動かない。小刻みに震えている阿Bの震えが止まるまで、凝と待っているかのようだった。

◆◇◆◇◆◇◆

 朝6時45分。啓徳機場{カイタック空港}の旅客ターミナルに直結したホテルのロビーで、阿Bはイラつきながら火仔を待っていた。
「約束は7時なんだから、イライラしても仕方がないだろう」
ここへ着いてからから、もう3度目である。エリックに窘められる度に、阿Bはむくれた貌になるのだが、考えてみたら、日曜日に早朝から空港につきあっているのはエリックのほうだとその度に思い返し、「唔該」と謝るのだった。
ページャーに連絡が入るかもしれないと思い、手にページャーを遊ばせながら、何度目か、もう数えきれない回数見た自分の腕時計を、もう一度見ようとしたそのとき、背後から声を掛けられた。
「早いな」
振り返ると、自分より5インチは高い目線で見下ろされて、「悪かった」でもなく「待たせたな」でもない、無性に気持ちを逆撫でされる科白を言われた。
「出発だから遅れるな、と言ったのはそっちだ」
「鎖匙{かぎ}だ」
まわりくどい言葉は何もつけず、単刀直入に用件だけを告げられる。そして、差し出されたのは、ブランドのモノグラム柄のキーチェーンにつけられた4つの鎖匙だった。
「通用門と門口{げんかん}だ。大きいふたつが通用口」
「セキュリティとか入っているんじゃないのか」
火仔がすかした笑いを浮かべて言った。
「你が鎖匙を使って邸に入らなくてはならないようなときには、セキュリティが飛んできたほうがいいような状況だ。来させておけ」
一々言うことが、腹が立つような言い方なのだ。それならば別に阿Bが鎖匙を持つ必要もないだろう、と言いたくなる。しかし、そこは火仔もうまく緩急つけた言い方で、阿Bがこの鎖匙を持っておくべきだと思わせる言葉を混ぜる。
「アイリーンの体調が少し良くない」
途端に阿Bの耳が聴く耳を持つ。
「媽{ははおや}のエイニーがあの調子だから、アイリーンも何か邸の中での異変を感じるんだろうと思う。あの人の調子が悪いときは大体そうだ」
阿Bは、ほとんど声にならない呟きで、唔知道{しらなかった}、と言う。唇を噛み、俯いて、悔しそうに手を握り込む。
「エイニーのこともあるから、ずっと邸の中にいろ、とは言わない。你も仕事があるだろうし。だが、アイリーンには顔を見せてやるといい」
その方がいいと思う、と、最後に、少しばかり阿Bの思いを柔らげるような言葉を付け加えた。
「通常はジェイムズがいるから不自由はない。アイリーンやエイニーの身の回りを世話する他の使用人もいるから」
「わかってる」
言葉を遮る阿Bのつっぱった様子に苛立つふうを見せた火仔だったが、ぐっと飲み込んだ。
「心情{こころ}の足りない部分を、頼む」
その言葉にはっとした阿Bが顔を上げたが、火仔は阿Bに背を向けて機場{空港}のほうへと向かっていた。
「阿B」
背に軽く手を当てて名前を呼ぶ。一瞬、倒れるかと思うように、力の抜けた身體がふらっと振り向いた。
そのさらに後ろから、女性の声が呼んだ。
「阿B?」
阿Bとエリックの後ろに立っていたのは、背の高い女性だった。
「火仔のマネージャーの小麗よ。これを你に渡すように言われているの」
差し出したものは手機{携帯電話}だった。
「これ・・・?」
「火仔から。必要と思われる號碼は入っているから、と。シンガポールにいる間はこれで連絡をしてくるように、って」
そう言って、小麗は、自分の手機をバッグから取り出し、ちゃっちゃっとボタンを押した。
阿Bの手の中の手機が鳴り出す。
「今のが私の號碼。登録しておくといいわ。火仔が出なくても、私の手機に掛けてくれば繋がるから」
阿Bが出ることなど最初から問題にしていない素早さで電話を切って、小麗は踵を翻した。
「それじゃあ、我{わたし}も行かなくちゃならないから。火仔と同じ飛機{ひこうき}なのよ」
しゃべりたいことだけを言うと、後ろにいた若い男性を促して、さっさと機場へ向かって歩いて行った。
右手の鎖匙の束、左手の手機。それに加えて、持て余す自分の心情{気持ち}。阿Bが動けずにいる横で、エリックはと言えば、火仔からは完全に無視される形でいたが、最後にしっかりと火仔からはひと睨み、強く物申したげな視線を押し付けられたことで気に食わなかったし、マネージャーを名乗った女性にも、頭の先から足の先までつうと視線を滑らせて見られたことも、ましてや、小麗の後ろにくっついていた若い男性の、阿Bをじろじろと品定めするような視線も気にくわないのだった。
「行くか」
阿Bに声を掛ける。
「――ああ」
まだ火仔のことで頭がいっぱいなのか、上の空の阿Bの脇を掠めて、背の高い男仔が大股で歩いていった。阿Bの肘に男仔の鞄が当たり、阿Bの手から鎖匙の束が落ちる。
「唔該」
男仔は、本当になんでもないことのように軽く言って、落とした鎖匙を拾おうともせずに行き過ぎていく。
阿Bもまた、鎖匙を拾おうとするより、男仔の背中を見ていた。
「おい。これ」
エリックが拾ってやり、どうしたんだ、と聞くと、ようやく我に返って言った。
「今の、高明城{コウ・ミンシン}だったような」
「高明城?」
「あっ。しっ」
火仔と同じだよ、と阿Bが小さく言った。
「火・・・佢{やつ}と一緒シンガポールに撮影に行くのかも。最近、一緒に出ることが多いみたいだから」
周りを憚って、火仔の名前も伏せて言う。
「明星{タレント}か」
「高明城は、何度か翡翠{ジェイド}にもお客で来たんだ」
「顔見知りか?」
「こっちは客商売だし、ましてやピカ一の影哥だから顔見りゃわかるけど、あっちは我のことなんて覚えてないよ」
「影哥?」
「電影{映画}王だよ。すごい本数出てるし。ベテランだし」
「ああ。なるほど」
「エリック?」
高明城の行った後を見ながら、エリックが考え込んでいるのへ、阿Bが袖を引いた。
「何か、気になることがある?」
「・・・いや。それより、さっきのマネージャーの女仔{おんな}の號碼、登録しておかなくていいのか」
あ、そうか、と阿Bが手機のボタンを押した。
「あれ」
「どうした?」
「・・・ロックが掛かってる」
「なんだって?」
数字10個の4ケタの組み合わせは、どれだけ相手を良く知っていたとしても、試しきれるものでもない。
慌てて二人とも、空港へ向かって走り出した。
どうせVIPルーム付近にいるだろうと思って空港で火仔の姿を探すが、なかなか見当たらない。シンガポール行きの飛機の搭乗口をソラリーボードで探して、ふたつの出発口のうち、遠いほうへと向かって阿Bが走り出す。
「火・・・」
ややまだ遠い背中に向けて叫びかけようとした阿Bの口を、大きな手が思わず塞いだ。
「何するんだ・・・」
「バカ。こんなところで叫んだら、取り囲まれるぞ」
「あ」
相手は、香港人ならだれでも知っているであろう明星だ。そして、阿Bの口を塞いだのも、先ほど阿Bがぶつかった男仔、阿Bが言った影哥に他ならなかった。
「高明城」
「しっ」
黒い偏光グラスの奥の表情は見えないが、少なくとも、さっきぶつかったときほどにも嫌な態度ではない。
「意外と不用意なやつだな」
口許はかすかに引き上げられている。苦笑しているようだ。
高明城は自分の手機を取り出して、ボタンをいくつか押した。
ジャケットのポケットから手機を取り出し、周囲を見回しながら電話に出る火仔の姿が見えた。
「ああ。おまえの後ろ。数十メートル。そう、こっち」
高明城が、振り返った火仔に手を上げて合図を送った。火仔は物も言わず手機を折り畳み、またポケットにしまいながら高明城と阿Bに向かって歩いてきたのだった。
「なんだ」
「・・・あ。これ・・・。さっきの手機、ロックがかかっているんだ」
ちっ、と、あからさまに火仔が舌打ちをする。その一拍の隙をついて、高明城が横から口を挟んだ。
「可愛い可愛い妹妹{いもうと}の誕生日」
「え」
阿Bは驚いて高明城を見上げた。同時に火仔はさっきよりもさらに大きく舌打ちをしてみせた。
「お。当たったか」
高明城の揶揄かうような表情に何も答えることなく、そして、阿Bには何ひとつ声も掛けず、火仔はそのまま回れ右をして離れていった。
「ほんとに?」
阿Bが手機に番号を打ち込んで、「ほんとだ」と驚いた。
「じゃあ」
高明城が離れていく。阿Bは思わず名前を呼び掛けて、はたと気づき、自分で自分の口を押えた。呼び止められたことに気付いた高明城が振り返る。
「また、翡翠で」
「え」
それだけ言うと、高明城はもう振り返らなかった。
かなり大股で歩いて行き、先を行っていた火仔に追いついたところで、歩調を緩め、火仔に並んで話しかける素振りを見せながら歩き続ける。
「翡翠で働いてたの、気づいていたみたいだな」
エリックがいつの間にか傍に来ていた。
「そういうこと、だよな」
「どうした?」
阿Bがぼんやりしているのへ、エリックが問い掛ける。
「うん。なんか、知ってる気がする」
「咩呀?」
「佢」
「そりゃ・・・影哥 って言われてるくらいなら」
「そうじゃなくて」
高明城が行った後を、まるで後姿を見つめるように見ている阿Bの視線を、エリックが不思議そうにさらに追っていた。

<十三に続く>

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