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聽日-あした  ビクトリアピークにて

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聽日-あした  ビクトリアピークにて

登場人物紹介

阿B:本名 李器廣。現在はコンピュータ関係の仕事。 火仔:本名 陳輝火。香港指折りの金融企業のボス。
アイリーン:李愛伶。阿Bとは父親違いの妹で、火仔とは母親違いの妹にあたる。 ジェイムズ:本名 梁恵生。陳家の執事。
陳輝大:火仔とアイリーンの父親。(故人)
阿蓮:陳輝大の2番目の妻で、共同経営者でもあった。

   香港島で迎える朝は、九龍よりも明らかに明るい。
喩えて言うなら、死語になりつつある「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」の違いのようなものか。否、今でも勿論ブルカラーな人間とホワイトカラーな人間は歴然とした差を持ちつつこの狭い場所に日々を送っている。殊、ピークからのこの眺めは、白地図に色分けをしたくなるほど白と青のエリアを区別して浮き上がらせる。自分の足元に中環{セントラル}のビル群、海を挟んで対岸に九龍半島、霞んで見えるのは新界。そんな風景を見ながらぼんやりしていると、
「まだ寝るぞ」
カーテンの隙間から漏れた光がまぶしかったらしく、火仔{ふぉおちゃい}の機嫌の悪そうな、少し嗄れた声が言う。
光に透ける長い睫毛が、ばさばさと音を立てるようにいくつか瞬きをしてから、かつてはTVB(*1)の俳優養成クラスにもいたという鼻梁の高い横顔が、裸の腕に覆われる。
「カーテン。閉めろよ」
普段は冷たく聞こえるバリトンも、掠れると少し気弱に聞こえて素直に言うことを聞いてやってもいいと思える。
「水、飲むか?」
「ああ」
雪櫃{れいぞうこ}から水を取り出しかけて、ふと悪戯を思いついて、別の瓶に手を伸ばした。
「ほら」
キャップを取ってやった瓶を手渡すと、火仔はまだ目も開かない様子のまま、瓶に口つけた。
「うわっぷ。阿B! おまえ、この・・・・・・!」
汽水{ソーダ水}が苦手な火仔が、口から吹き出しながら、我{おれ}に向かって瓶の中身をぶちまける。
「俾酒{ビール}とどこが違うんだよ。やめろよ。部屋が水浸しになるだろう!」
「アルコールの入っていない発泡水なんて飲めるか!」
零れるのも構わず汽水の瓶を振り回す火仔に後ろから羽交い絞めにされて、汽水の瓶を口にあてがわれる。
暫く飲まされるがままにおとなしく飲んでやるが、背後に火仔の下腹部が当たるのに気づき、瓶を持つ火仔の手を解きながら鬱陶しげに振り返った。
「なあ。この体勢ってヤバくない?」
「阿B。面白がっているつもりなら、早めに離れたほうがいいぞ」
面白がっているのはおまえのほうだろう、という反論は控えておいた。悔しいが火仔のほうが体格的には上だ。
火仔の腕の輪をくぐり抜け、我{おれ}は傍らのビジネスデスクの上に、昨夜からつけっぱなしのコンピュータの横に腰を置いて、キーをいくつか叩く。
「新しい情報は何か?」
「島で三箇所、半島で二箇所、ハッキングを仕掛けてきたヤツがいるらしいけど、どれも衰仔{ガキ}の遊びだよ」
「どうしてわかる?」
「やり方がちゃちだから・・・・・・何してるんだ?」
横に来た火仔が、我の前髪をなで上げる。その手を軽くはねつけて、睨む。
「調子に乗んなよ。この好色{スケベ}が」
「つれないな。昨夜は大人しく我{わたし}の隣で眠ったくせに」
「あんたが、我{おれ}の寝ている横に勝手に入ってきて、寝てたんだろうが!」
油断も隙もあったもんじゃない。
前三晩を不眠不休でコンピュータの操作をさせられ、さすがに昨夜はぶっ倒れるようにベッドに沈みこんだ。睡眠不足でふらふらの我を、そっちの趣味がある火仔がどんな目で見ていたかまで気を配ることもできないほど我は疲れていたし、ましてや、そのときはまだ、火仔は中環{セントラル}にある九頭龍公司の自社ビルのオフィスで仕事をしていたはずだったから、それが油断にも繋がった。勿論、ここはピークにある火仔のプライベートコテージだから、火仔がいつ来たっておかしくはないのだが。
「『おまえはここで寝ても本当にいいのか?」と我{わたし}は一応、訊いてやったぞ。そうしたらおまえは、『いいんだ。我{オレ}は寝るんだ。邪魔をするな』と言った」
火仔がにやにやしながら言う解説に、ちっ、と舌を鳴らす。
「『邪魔をするな』と言われたから、我{わたし}としては、一応、おまえの意思を尊重してやったつもりだが?」
「その割に、今朝起きたら、我{おれ}がなーんにも着てなかったのはどういうワケだよ?」
「隣で寝るのに、汗臭かったから、脱がしだんだ」
「三日間、シャワーも浴びずにずっとキーボード叩き続けてたんだ! 誰のためだと思ってるんだよ。向こうのベッドで寝りゃいいだろう」
「今回の仕事の報酬は言い値で払ったはずだ。それに、ここは我{わたし}のベッドルームだ。どうしてこの家の主人の我が、ゲストルームの狭いベッドで寝なければならない」
ああ言えばこう言う。いや、そんな性格は前からわかってはいたが、先刻、朝起きて隣にこいつが寝ているのを見たときに、ぎょっとしてこっそりバスルームに走り、自分の貞操を確認したことは決してこいつには言うまい。もっと面白がられるのがおちだ。
言い負けした悔しい思いを腹の底に納めながら、仕事の話に切り替えてみた。
「それで? そっちはあれからどうなったんだ?」
「ああ。『香港一の天才プログラマー』のおかげで、犯人も捕らえられたし、プログラムも今朝から正常に動作していると報告が上がっている」
「四日前には『香港一の天才ロードレーサー』のお褒めに預かりましたが?」
そう。この邸に篭もる前には、高速道路で暴走小巴士{ミニバス}並の運転で追っ掛けっこを強いられた。
「大した腕前だったから、報紙{しんぶん}でもニュースでも映像入りで散々取り上げられたようだぞ」
当然、篭もっていた三日間、電視{テレビ}も報紙も見ている閑{ヒマ}は無かったから、自分の雄姿とやらは見ちゃいないが、どうせ車のナンバーなんて隠して報道しちゃくれない香港メディア。これであのナンバーも手放さなきゃいけないか。
「良かったな。あれだけ走りやすい高速道路、株価はますます上がるぞ」
火仔は高速道路の大株主でもある。手放すナンバーの代わりに、別のナンバーを買わせるか(*2)。これも経費だ。
「ここは禁煙だ」
確かに煙{たばこ}を探す意味で視線を動かしたが、そんなに速攻で機先を制しなくてもいいだろうに。
「じゃあ、メシを食わせろよ。我{オレ}、もう、腹が減って腹が減って」
「粥なら隣の厨所{キッチン}にレトルトがあるぞ」
「冗談だろう。んなもんで足りるか」
三日間、ひたすらキーボードを叩くために、片手で食えるものしか食っていない。純然たる空腹感の要求より、精神的な空腹感が豪勢な食事を要求している。
勝手知ったるとばかりに、デスクの上の電話で短縮の内線ボタンを押し、要求した。
《係{ハイ}、Sir》
「メシだ、メシ。どこの餐廳{レストラン}のでもいいからとびきり美味いのでどっさりと」
いつも影のように火仔にぴったりくっついている、秘書のジェイムズに告げる。どうせ、秘書室でいつでもお呼びに応えられるように待機していたに違いない。そして、呼び出しには応答したくせに、我{おれ}の要求にはウンともスンとも言わない。
「おい。聞こえてんだろ?」
怒鳴った我の後ろから、火仔が顔を近づけてバリトンで言い添える。
「ジェイムズ。用意してやれ」
《イエス、Sir》
「可愛い秘書さんだこと」
「執事だ」
乱暴に受話器を置いてから吐いた言葉とは裏腹に、麻九煩{クソッタレ}と口の中でぼやいて、雪櫃から缶俾酒{ビール}を取り出してプルトップを開けた。
「火仔、我、どうせなら君悦{グランドハイアット}の・・・・・・」
張厨士{シェフ}の粥が食いたい、と言おうとした横を、火仔が大股ですり抜けてバスルームへ入って行った。
「おい? 火仔?」
バタン、とバスルームの扉が閉まる。
「なんだよ。そんなにガマンしてたのかよ」
ドアの隙間から差し込まれている報紙(まるで酒店{ホテル}のサービスだ。これもあの麻九煩秘書ジェイムズに違いない)を拾って広げてみたが、ふとバスルームの扉の向こうが気になった。
勢いよく水が流れる一定の音がするだけだ。シャワーを浴びるなり、顔を洗うなりしているなら、水音は乱れなくてはおかしい。
「火仔?」
ノックをしたバスルームの扉はきっちりと閉まってはおらず、ゆるりと開く。
バスルーム中では、大理石の洗面台に、火仔がぐったりと突っ伏していた。
「ジェイムズ。ジェイムズ! 火仔がくたばっている!」
水を止めてから、先刻の内線ボタンを押して怒鳴った。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

   駆けつけたジェイムズが火仔を抱き上げてベッドに寝かせ(好驚呀{おっそろしい}。一八七センチの男を抱き上げる一九九センチの男!)、暫く、脈を取ったり呼吸を確認していたが、やがて無言で部屋を出て行ったかと思うと、すぐに、手に輸液薬らしきビニールパックと注射針を持って戻ってきた。
「醫生{いしゃ}を呼ばなくていいのか」
「我{わたし}には醫生牌{いしめんきょ}もあります」
弁護士に自家用ジェット、ヘリ、船舶、その上、醫生牌かよ、と呟いた胸の裡が聞こえたのか、さらに厭味ったらしくジェイムズの野郎は付け加えた。
「お望みでしたら、薬膳をご用意することもできますが」
中醫(*3)の牌{免許}まで持ってんのかよ、と、さらに悪態を吐く。勿論、声には出さない。
手際よく火仔の肘の内側に針を射し、点滴を始めた。点滴スタンドの代わりにするのに、部屋の隅っこに置いてあったコート掛けを持ってくるよう指示される。
「・・・・・・寝てないのか、火仔{こいつ}も」
系列の会社全てを管理する中枢のシステムプログラムが破壊されるという危機だったから、当然、会社を率いている總経理{しゃちょう}の火仔はおちおち休んでもいられなかったんだろうことは予測はできた。けれど、ジェイムズから返ってきた答えは、そうではなかった。
「 ―― アイリーン様が、亡くなられましたので・・・・・・」
思わずジェイムズを見たが、やつは火仔の容態に目を注ぎながら、怒鳴りかけた我を空気だけで威圧してきた。
「お静かに」
点滴とは別に、注射を一本打った後、ジェイムズに目で促され、部屋を出る。
「いつのことだ?」
寝室のドアを閉めてすぐに、我{おれ}はジェイムズに噛み付くように訊ねた。
「三日前です」
「ど、うしてもっと早く教えて・・・・・・」
「輝火{フェイフォオ}様が口止めなさいましたので」
しれっと言うジェイムズの襟を咄嗟に掴んだが、顔色ひとつ変えない顔を目の前にして、こいつはそういうやつだったと思い出して、襟を放した。
「火仔(=輝火)が、我{おれ}に言うなって言ったっていうのか? 本当に?」
「係{はい}。輝火さまも器廣{ヘイグォン}(=阿B)様も、全てやるべきことが終わるまでは、と」
どこまでも好冷人{つめたいやつ}め。
「アイリーンはどこだ? まさかもう・・・・・・?」
「いいえ。そのまま、お房{へや}に」
ふと、階段を仰ぎ見た。
そう、具合の良いときは、この家にやてきた我に、階上からよく声をかけてきたものだ。
《お帰りなさい。阿B》
もう、聞けない。
「アイリーンの房{へや}なのか?」
「係{はい}」
案内されるまでもなく、アイリーンの房{へや}は勿論わかっていたが、先に立って歩くジェイムズの後ろを大人しくついて行った。我{おれ}にだって、心構えの時間は要る。
「ご葬儀は、器廣さまにお伺いしてからでないと出せない、と輝火様が仰いました」
アイリーンと父親が同じ、兄の火仔。アイリーンと母親が同じ、兄の我{おれ}。だが、住所不定のその日暮らしも同然の我はアイリーンの生活になんら責任を負うこともできず、一方、火仔はアイリーンの全ての面倒を見ていた。バカ高い治療費の全てまでも。
「な、にを・・・・・・今さら・・・・・・」
アイリーンが生まれたとき、まだ我とアイリーンの母は、火仔の父親の愛人だった。我{おれ}はもう十になっていたから、母親がどこかの男の子どもを産んだということはわかっていた。だが、そんなことはどうでもよかった。優しい母と、年の離れた妹。護るべき人間は自分しかいない。それだけで無条件に愛することができた。
なのに、アイリーンが初めて心臓の発作を起こして醫院{びょういん}に運ばれたあの日、ERの廊下で俯いて祈っていた我の前に、埃ひとつ被っていない貴{たか}い鞋{くつ}の先が止まった。
《君が、李器廣{レイ・ヘイグォン}か》
その紳士物の鞋{くつ}の後ろに、母の働き者の鞋が見えていた。
アイリーンの容態について醫生{いし}の説明を聴くときも、そいつは一緒に部屋に入り、母はずっと、そいつの後ろに控えていた。我{おれ}は母のさらに後ろに座らざるを得なかった。そして、説明が全て終わったとき、やつは醫生にこう言った。
《最高の医療を受けさせてください。海外へ行く必要があるならそれもやぶさかではない。娘にはにできる限りのことをしてやりたいと思います》
アイリーンはそのまま特別病房に入院して治療を続け、母はやがてやつが用意した家へと引っ越していった。
情人{あいじん}がこっそり産んでいた娘が、生まれつきの難病だと知った日から、支えになろうとするだけの誠実さを持った男に母と妹を任せることに何の異存があろうか。
そして、母と妹が面倒を見てもらうから、と、血の繋がりのない我{おれ}までもがのうのうと世話になることにどうして諾と言えようか。
我{おれ}は一五になっていた。
「お房{へや}を寒くしてあります」
扉を開けながら、ジェイムズが我を振り返った。我はT衫(Tシャツ)一枚だ。
「いい。冇問題{だいじょうぶだ}」
そう応えたものの、いざジェイムズが開けた扉の向こうから流れ出てくる冷気は相当なものだった。雪櫃{れいぞうこ}、とまで言うと大げさかもしれないが、しかし、冷気機{エアコン}の能力ぎりぎりいっぱいに冷房を効かせているらしい。屋外は既に朝晩は秋の気配が濃くなりつつある季節だ。先刻まで居た火仔の私室にこそ、暖房はまだ入れていなかったが、大窓から陽の熱で房がぬくもっていなければ、肌寒かっただろう。
アイリーンは眠っていた。それが永の眠りだということさえわからないほどに、安らかな顔をして。
「最期、は?」
「護士{かんごふ}が言うには、―― 少し苦しいから醫生{せんせい}を呼んでもらいたい、と一度はおっしゃられたそうですが、すぐに、やっぱり冇問題だから不要、と‣・‣。そして少し眠りたいから、と仰言って、『苦しくなったら、すぐに呼ぶから』というのが ―― 最期のお言葉だったそうです。その後は、護士を呼ぶこともなく、一時間ほどして護士がお房に行くと、もう――」
苦しまなかったということか。死が自分を連れ去る恐怖を味あわずに逝ったということか。思わず触れた頬は、もうすっかり温もりを失っていたけれど、生前の妹の優しい面影が残っているだけに、彼女がいつも惜しみなく心に与えてくれた温もりを、今も指に伝えてくれる気さえした。
愛伶{アイリーン}。まだ一五歳でしかなかったのに。
「メシ」
わずかに頬を撫ぜて、青白い額に触れようとしたところで我は手を止め、妹の亡骸に背を向けて言った。
「器廣様」
「さっさとメシを用意してくれ。空肚{はらぺこ}で火仔が起きるまでなんて待ってられねーぞ」
「器廣様!」
ジェイムズの大きな手が我{おれ}の肩にかかった。
「有冇問題呀{だいじょうぶですか}?」
ジェイムズの顔に表情があるのを見るのは、久しぶりのことだった。ジェイムズにしては珍しく、ほんのわずかではあるが、動揺の色が見えた。
“あの”ジェイムズを動揺させたことに、我ながらなんとなく愉しみを覚えて、我{おれ}は余裕めいた笑いを浮かべてジェイムズの手を肩から外した。
「好{だいじょうぶ}。後で火仔が起きられるようになったら、葬儀の相談をするさ。――我哋{おれたち}ふたりの妹だ」
そう。我{おれ}と火仔の間になんの繋がりもないにせよ、アイリーンは我哋{おれたち}ふたりの妹だった。
「メシ。用意できたら呼びに来いよ」
廊下に出ると、生暖かく感じる空気に心地良さすら感じる。
その温度差は、もう、アイリーンが我哋{おれたち}の世界にはいないことの証明のように感じた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

   火仔の房{へや}に戻る前に、途中、テラスで煙{たばこ}を吸おうと思った。が、テラスへ行ってみると、灰皿には水が張ってあり、白い花が浮かべてあった。攪錯呀{こんちくしょう}。ジェイムズの野郎だ。 テラスから見える門扉の傍に、白い花をつけた木が見える。
「ジェイムズめ・・・・・・」
煙{たばこ}を咥えたまま、思わず頬を歪ませる。
唔好喊呀、唔好喊呀、我唔要喊呀{泣くもんか}。
頬の内側を強く噛んで、自分で自分に戒めをかける。
「あのデカい手で、花を生けるかよ」
ジェイムズの生けたであろう花を見つめながら、必死で笑おうとする。なのに、どうしたって、口から漏れる声が、嗚咽になって転がり出ようとした。
零れた涙が広げる波紋が、アイリーンの好きだった花を揺すった。
「器廣様」
ジェイムズが後ろに立っていた。
呼びにきたのだろう。腹は減っている。だが。
「せっかくで悪いが、今は・・・・・・」
空気を読むのに長けている執事は、我{おれ}をそのままテラスに残し、無言で下がっていった。
秋の空気が澄んでいる。九龍半島が見える。
細蚊仔時{子どものころ}を過ごした城砦と呼ばれたあの場所は、今は無い。無いのに、何故だか目が勝手に探してしまう。かつては、ピークの灯りを見て、いつか自分もそこに住むのだ、と心の中で繰り返していた。母と、妹を住まわせてやるのだ、と。
煙{たばこ}を箱ごと灰皿の花の横に置いて、テラスの椅子に腰かける。今日一日はアイリーンのことだけを思って過ごそう。ほかに何をすることもない。
途中でジェイムズが呼びもしないのに飲み物のワゴンを押してきて、サンシェードを程よい具合に伸ばして我{おれ}の上に陰を作り、声もかけずにまた去っていった。どこまでも場を汚さない奴め。ふと、初めて「いい奴かも」と思った。
寝不足も忘れ、空腹も忘れ、否、忘れた振りをすることに必死だったのかもしれない。本当に忘れたいのは、アイリーンの死なのに、どうしてもそれを忘れようとすれば、アイリーンの笑顔を、声を思い出すことに意識が向かう。
そして、アイリーンのことを意識から遠ざけようとすると、自分がこうして生き永らえていることの証明のように、寝るか食うかの生の営みをせざるを得ない。どちらがより苦痛かと言えば、母も死に、妹も逝ったことを目の前につきつけられる自分の「生」が一番残酷だと思った。
日が傾いてきたのに気付くのと同時に、テラスに続く房{へや}の中で、火仔がベッドに座ってこちらを見ているのに気付いた。
「起きたのか」
鎖匙開啦{開けろよ}、という意味で、ガラスを小突く。黙って傍にやって来た火仔は、やはり黙って鎖匙{かぎ}を開けて、ガラス扉を開けた。
「唔該{サンクス}」
火仔の肩を軽く叩いて、空いた扉から、房の中に入る。さすがに外は冷えてきていたようで、房の中の暖かさに肩の力が抜けた。
「・・・・・・『唔該』、か」
火仔が呟き、そして笑い出す。
「はは・・・・・・はははっ、おまえの口から『唔該』か。初めて聞くな」
火仔がかすかに笑い続ける。ちっとも可笑しくなさそうに笑う声は、むしろ ―― 。
「火仔?」
「は・・・・・・。 ―― 覚えているか?あの男が・・・・・・父が新しい妻だと言って、阿蓮{アリィン}と報紙{しんぶん}に載ったときのことを」
笑いの振りをした声は、暗い翳を帯びていた。
阿蓮はビジネスパートナーとして、実に良く、火仔の父、陳輝大の片腕の役をこなした。陳輝大に以前からの情人と、情人との間に心臓の悪い娘がいるということなど全く気にもかけていないようだった。太古城{タイクーシン}の高級マンションに住み、このピークの本宅には最初から足を踏み入れようとしなかった。まるで、この家もこの家に住むものも、彼女には最初から存在していなかったのように。
「我は、その記事を見て初めてこの家を訪ねて来たんだ」
火仔は無言で頷いた。
ガラス扉の向こう、テラスを通して、白い花の咲く門扉が見える。そう。あのときも、あの門扉の傍にはあの白い花が咲いていた。
陳輝大が新しい妻を迎えたという経済ニュースを見て、それが母でないことを知り、陳輝大を責める思いで、そして返答の如何を問わず、媽{はは}と妹を取り戻すために自分はここを訪れた。母たちと離れて暮らし始めて五年が経っていた。
母付きの小間使いだという女を相手に、門前で押し問答をしていた我{おれ}のところへ火仔がやってきて、きっぱりと我の要求を撥ね付けた。
《大丈夫だ。この家にあの阿蓮とかいう女は決して入れはしない。彼女たちのここでの暮らしは、我{わたし}が保証する》
「あのとき、我{わたし}はアイリーンの病気を楯におまえを追い返した」
この家を今出てみろ、おまえがアイリーンに満足な治療を受けさせてやれるのか、火仔は淡々とそう言った。説得しよう、という意思があったようにも思えない。ただ、阿B自身の状況をまざまざと思い知らせるかのような宣言にも似ていた。
確かに、陳家の財力とコネでアイリーンの病状はなんとか悪くならずに保たれていた。恐らく、阿Bの稼ぎでは、高度な医療は望めなかっただろう。
「父は、我{わたし}の媽がいるのに、你の媽を情人{あいじん}にした。そして、你の媽とアイリーンをこの家に迎えた後は、阿蓮を情人にし、そして、妻に迎えたのは阿蓮のほうだった。―― 我{わたし}は、父への嫌がらせで、你の媽とアイリーンをこの家に住まわせ続けた。ふたりの存在を利用したんだ」
「――お陰で、母も妹もいい暮らしをさせてもらったさ」
それは本心だった。不甲斐ない自分への悔しさから、心の底から、とはいえないまでも、本音の半分と言って間違いない。
「だが、你の母親は・・・・・・、それに、アイリーンも! 我{おれ}は、ふたりをこの家に閉じ込めただけだった! 自分の我儘で、しかも父親への我儘で、ふたりを」
「火仔」
「你は我が憎くないのか? 母親と妹を殺した、と何故責めない! 我たち父子のせいで、你たち家族は不幸になったと思わないのか? 我哋父子のせいで・・・・・・。そうだ。媽{はは}だって言っていた。我さえいなければ、って。我{おれ}さえいなければ媽だってこの家から出ていけた ――」
火仔の肩を掴む。揺する。
だが、火仔の眼はどこも見ていなかった。過去の悔恨だけを見つめているのか、厭わし気に自分の中だけを見つめているようだ。
「火仔、そうじゃない」
我{おれ}がいなければ、と呟きを繰り返す火仔は、我には初めて見る火仔だった。
悔恨の中に沈んでしまったこの眼を知っている。媽がそうだった。アイリーンの病気がわかってから気鬱のために精神科医にかかっていた媽は、自分ではない別の情人が陳輝大の妻になった後、一層ひどい鬱になった。ああすればよかった、こうすればよかった、と悔やみながら自分を責める媽は、どれだけ慰めても現実に生きている人ではなかった。かろうじて病身の娘のためになんとか生きている振りをしていたものの、結局は長く持ちこたえることができず、自ら命を断った。
「火仔、行くな」
思わず口走っていたのは、火仔を而家{いま}に引き止める言葉だった。
「火仔、返嚟啦{もどってくるんだ}」
人を引き止めることができるのは、人だけなのだ。今、誰かが自分を引きとめているという自覚だけが、人を留まらせることができるのだ。今しもあちら側に行こうとしているこの瞬間でないと、人の心は引き止められない。
押し当てた唇に、火仔の凍えそうに冷え切った心が感じられた。
言葉だけではどうにもならないと、本能が知っていた。
なんとしても、引き止めてやる。
媽が去り、妹が逝き、今目の前で火仔までが”而家(現実)”から、我から去ろうとすることは許さない。火仔までもが我を置いて行くことなど、絶対に許さない。
冷たい唇から、涙が流れる頬に。頬から耳仔{みみ}、耳仔から、首筋へ。唇の冷たさと、涙の温もりと。濡れた頬と、凍えた耳たぶと。
できる限り、束の間でも、熱く印章を残すように口づけていく。
鎖骨をなぞり、肩から腕へ。
火仔が小さく呟く。點解呀{なぜだ}、と。
言葉では応えず、代わりに、吻{くちびる}で応える。腕から肘の内側を。そして、指、指先。火仔の存在の全てを確認しているのだ、と教えてやるために、下方へと降りていく。
足の爪先を含んだ瞬間、髪の中に差し込まれた火仔の指先に力が入る。
火仔のローブの胸を開けて、鼻先を埋めたところで、我は、自分が今さらながらに飢えていたことに気付く。渇してもいたと思う。ぬくもりが欲しかった癖に、自分ではそれを認めたくなかった。皮肉なことに、火仔によって気づかされた自分がいた。
「阿B。你は」
それでいいのか、と火仔の唇が、我{おれ}の唇の下で動く。
そうだ、と答えてやる。
言葉に出すよりも、唇が、舌が動く。YESの代わりの仕草など、触れあっていれば、いくらでもある。
你はどうなんだ、と囁くように耳朶の輪郭をなぞる。
火仔も返事の代わりに我をうつ伏せて、ゆっくりと体重をかけてきた。体重とは別の重みが背後からかかっていくのに、力を抜いて身を委ねた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 電話の内線が鳴ったのは、どのくらい経ってからだろう。程良く時間が経っていたことは事実だ。ベッドの中で火仔は水を飲み、我は二本目の煙{たばこ}を吸っていた。
《お食事はどういたしましょうか》
「沖涼{シャワー}を浴びてから、食堂へ行く」
火仔が端的に応えた。もっとも、電話に近かったのは我のほうなので、火仔の返事をそのまま、ジェイムズに向けて繰り返す。
煙を消そうと、ベッドから腰を浮かせたら、火仔がぽつりと言った。
「唔該{サンクス}」
火仔の手から水のペットボトルを取り、代わりに火仔の口に吸いかけの煙{たばこ}を押し込んでやった。
「アイリーンは、火仔{あんた}のことが好きだったよ」
「―― まさか」
「我がこの家に来ると、必ず聞かされるのは你がしてくれたことの数々だ。病院へ連れていってくれた。出張の土産を買ってきてくれた。子犬をもらってきてくれた。誕生日には餐廳{レストラン}の厨士{シェフ}を呼んで・・・・・・」
「そんなこと・・・・・・」
「何になる、なんて言うなよ」
火仔が自嘲的に言いかけた言葉を、我は遮った。
「病気でほとんどベッドから起き上がれない人生だったんだ。この家の中での暮らしが全てだったんだ。你がアイリーンを愛してくれたように、アイリーンも你を哥{あに}として愛していたよ。佢{あの子}の口から、你の悪口なんて聞いたことがない。媽からもだ」
火仔の口から煙を抜いて、自分の口に戻した。
「だから、もう過去を悔やむな」
口から吐いた紫煙が、ゆっくり昇っていく。
火仔の指が、我の唇から煙{たばこ}を取って、ゆっくりと口づけた。
これもYESの意味なのだろうか。
「おい。沖涼浴びてからダイニングへ行くんだろ?」
肩から胸へと滑る火仔の唇を手で制しながら言う。
「ふたりで一緒に浴びれば、時間短縮できるさ」
こんなにも気を許したように聞こえたことはこれまでなかった、冷たいとばかり思っていたバリトンと一緒に、火仔の指はゆっくりと降りていく。
まあ、今回くらいは手中に落ちてやるのもいいかもしれない。
ベッドに倒れこむときに、誰かの重みが腕にかかるのは心地がいい。シーツに耳を押し当てて、寂黙に耳を塞がなくてもいい。
明日の朝、どちらかが先に起きたなら、ベッドの軋みが一人ではないと感じさせてもくれるし。

《  了  》

 (*1)香港のテレビ局 無綫電視台
(*2)香港では車のナンバーを買って、車を乗り換えても同じナンバーを使う。そのため、縁起の良いナンバーは非常に高額。
(*3)香港(中国も)では西洋医学を修めた西洋医師と、漢方など中国医学を修めたときに得る中医の資格がある。

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