惜 春
「『木蓮』か。良いな」
早緒は尾末から受け取った焼き物を、自分の目の高さにまで持ち上げて眺めた。白、といっても卵の殻程に少し色のある白色をした小鉢であった。春浅い宵である。月朧の暖かさには、まだ少し足りないが、それでも、尾末の部屋の窓から覗く立待月は、仄かに黄味を帯びていて、柔らかな光が遠からぬ春を感じさせていた。
「良いか?‥‥そうか、良いか。嬉しいな。有難う」
創り出す焼き物の微妙なまでに繊細な色は似合いそうにない大柄の武骨そうな青年は、小鉢を手にしてこちらを向いた友人に、照れくさそうに礼を言った。一方の友人は、優しげな、どこか神経質そうな容姿をしていて、今手にしている白いその器にも似た感じの、透明と不透明の境目のようなおとなしさがある。
「白木蓮の薫りが本当にしそうだ。いい色だな」
早緒は愛しそうに、その器を両の手に挟み込んだ。
「木蓮といえば」
早緒は懐かしそうに話を始めた。早緒がこんなふうに話を始めるなんて、珍しいことだ。元々が寡黙な人間である故に、滅多に昔話など、口にしようとはしない。
「令次伯父の家に、大きな木蓮の木があるんだ。私が初めてその木を見たのは、庭の外からだったんだけれど、木の下から動こうとしなかったそうだ。令次伯父が、どうしても動こうとしない私を迎えに、家の中から出て来た」
尾末も令次は、知っている。その家にも何度か訪れたことはあるから、早緒が言う木蓮の木も思い出すことができた。
「いくつの頃だ?」
「六‥‥いや七つになっていたのかな。私と嗣郎が七歳離れているから‥‥。嗣郎が生まれた年だった筈だから、きっと七歳になっていた」
「嗣郎が生まれた年?」
「ああ‥‥それまでは私は、令次伯父の友人の夫婦に育ててもらったから。嗣郎が生まれた年に、改めて令次伯父に引き取られた」
それだけのことだよ。
そう言いたげに、早緒は話を止めた。いや、いつもなら、そこで終えていた。が、ふと早緒が尾末の方を見ると、尾末は黙って、早緒の方でない、どこか別の処をじっと見つめていた。
それだから早緒は、話を続ける気になったのかもしれない。
「今日からおまえはここで暮らすんだ、と言われ、今まで育ててくれていたのは赤の他人だと知らされた。何故、自分がそんなふうに平凡で幸せな生活から引き離されなければならないのか、なんて考えていられる場合ではなかった。七歳の子供に理解できたのは、思っても見なかった境遇が自分に与えた衝撃の大きさだ。
木蓮の木の下で、令次伯父の家に入ろうともせず、養父の手を握って、養父さえも行かせまいとするように立っていた私を迎えに出たとき、令次伯父は思ったんだそうだ。何かの予感があったのだろう、って」
尾末の閉じた瞼の奥に、花が薫る木蓮の木の下で、幼子が父と信じた人の手を精一杯の力で握り締めたまま、立ち尽くしている姿が浮かぶ。花など見上げてはいられなかったかも知れない。ただひたすらに、花の香のようにほろりとは零すまいと、涙をこらえていたかもしれない。
「弟が生まれたと‥‥嗣郎の事を知らさるために引き取られたのか」
「いや。嗣郎が弟だと知ったのは、もっとずっと後になってからだ。‥‥それどころか。令次伯父のことだって、血のつながりがあるなんてことは全く知らされなかったんだから、今にして思えば、ひどい話だな」
つくづく、家族環境に恵まれていなかったな、と早緒は胸の内で苦笑した。
「一五まで、令次伯父のもとで世話になった。一五になって間もなく、令次伯父が私に告げたんだ。いずれ、おまえは自分の力で生きていかなくてはならない、と」
令次はその時、厳しい顔をしていた。早緒は姿勢を正して令次の言葉を待ったのだ。何を言われるのか、怖くてならなかったのを憶えている。
『何よりもまず、私はおまえに謝らなくてはならない。私は八年前、おまえから父と母を奪った。彼らは確かにおまえの本当の親ではなかったが、私があの時おまえを無理矢理引き取らなければ、おまえは今も、多分これからも、彼らの息子として暮らすことが出来たはずだった。いつかは本当のことを知ることになったとしても、だ。だが、私は、私の勝手な理屈でおまえを彼らから返してもらった。
これから先、おまえが辛い人生を歩むことになったならば、私を恨め。ほかの誰のせいでもなく、私があの時におまえの倖せを壊した。おまえが何かで苦しみ、悩むことがあったとしても、それは周りの誰のせいでもなく、そしておまえ自身のせいでもない。
そしてもうひとつ。
おまえは、自分の生まれを一切忘れて生きて欲しい。おまえを八才まで育ててくれたあの者たちを両親と慕うのもいいだろう。だが、おまえの生みの両親を求めることはするな。何か、おまえに対して保証や責任を負うことがあれば、それは私が総て面倒を見る』
そうしてまたもや、早緒は自分の居場所をとりあげられた。
「『生みの親は生きている。けれど死んだものと思え』そういうことだと私は理解した。そして私は、嗣郎の家に‥‥藤堂の家に書生として預けられた。出生は捨てろと言われたんだから、勿論、そのときでさえも、当の書生として仕えていた家に自分の弟や母がいるなんて、知らされていなかったがな」
そう、自分は知らなかった。
幼い自分が何故、平穏な生活から遠ざかるいわれがあったのか。何のために、自分はいつも居場所を与えられるままに流されなければならなかったのか。
思えば、次々に居場所を与えられはしたけれども、いつだって、永遠に落ち着いてもいいという場所を与えられたことはなかった。そしてまた、心の行き場さえも、それに似て、落ち着くこともできず‥‥。
今でさえ。
様々な想いが絡まったまま、心を解く糸口が見つからない。どうすれば自らの思いに決着がつけられるのか、どうすれば、真っすぐな自分の真実が顕れるのか。
黙り込んだ早緒の表情の翳りを見て取った尾末は、痛々しげにその横顔を見つめた。早緒の手の中の「木蓮」の色の小鉢が、今にも溢れんばかりの悲しみで満たされているような気がした。
近ごろの早緒は、こうして黙り込むことが多くなった。元々が口数少ないだけに、尾末はわずかな言葉から早緒の心を読み取るのが常なのだが、このごろはそれすらも難しいほど、益々早緒は言葉少なになっている。その癖、本当は何か言いたげなもどかしさが見て取れた。
だが、黙ったままの近頃の早緒が何を思っているのか、尾末には分かっていた。
早緒は、愛した男のことを考えている。そして、最後まで彼を拒もうとした自分の真実の気持ちを、知りながら、しかし、受け入れられない自分に苦しんでいるのだ。
伊堂が胸を病んで逝ってから、季節が三つ過ぎようとしている。
尾末と同門で、兄弟子であった、その長身の男の姿が、尾末の脳裏に浮かんでくる。
陶芸の道に若くして秀でた彼には、敵が多く、同門の者たちでさえ、味方と言えるような関係の者は皆無に等しかったといっていいだろう。ひとつは、伊堂には、良からぬ噂が多かったせいかも知れない。その中にはあから様に、その端麗な容貌が周囲に言わしめた、いかがわしい噂が多くあった。単なる中傷に過ぎない物も多く混じっていたが、総てが嘘だと庇う事が尾末にできないのは、尾末は噂の中のいくつかの事実を知っているからであった。
だが、尾末はそれについてとやかく噂を立てたがる年寄りたちには、自分たちだって今こそ違え、同じ穴のムジナじゃないか、と内心毒づいていた。
芸術品を手掛けるために修行の道に入る者たちの生活に、女人は入れない。そんな中で、少年から青年への時を過ごすのだ。大抵の者がその時代を一つの踏み台にして、捨て去って行く。それが噂を立てる側にいる輩だ。今では、彼らは自分の隣にすました顔で品の良い奥方を並ばせている。かつては、彼らの面倒をみたパトロンや、彼らが可愛がった弟分のいた場所に、だ。
尾末はどちらかというと、門下にあっても異端児的な存在であった。というのは、尾末は門下での修行と言っても、実のところ、金持ち息子の道楽としてはじめたものだったから、同門下の弟子たちと一緒に暮らしていた訳ではない。どうしても父親が許さなかったのだ。尾末はその訳も知っている。父は、そんなところへ息子を入れる訳にはいかないことを、身をもって知っていたからだ。尾末の祖父も曾祖父も、自分自身には大した才も無かったが、事業で設けた金をひたすら後援と称してつぎ込むことで、音に聞こえた芸術道楽であった。それを世間で芸術への文化的貢献と褒めそやされては、芸術家の男色が嫌いだという程度の理由だけで、その名声をみすみす捨てることなど、尾末の父にはできなかったのである。もっとも尾末はそれら総てを噂で知ったことではあったけれども、今では噂の真偽の程を図ることが出来る歳になっていた。
とにかく、同じ門下の中でも尾末はまだ、伊堂にたいして好意的な側に入っていた。
「伊堂さんと」
尾末がその名を口にすると、空気が一瞬にして張り詰めた。
「‥‥尾末‥‥それは‥‥」
早緒が忌まわしそうに首を振った。だが、目を閉じたままそれを口にした尾末には、早緒は見えなかった。
早緒は奥歯を噛み締め、辛そうな表情をしていた。それは、何物にもたとえようがない。
「伊堂さんと暮らしていたのは、嗣郎の家へ行く前のことなのか」
早緒の頬にさっと赤味が走る。
「‥‥それは‥‥伊堂さんの所へ預けられていたというだけで、私は決して」
「『決して』?」
早緒はそこで口をつぐんでしまった。
「『決して』伊堂さんの恋人だったのではない、と言うのか。‥‥噂されていたようなことはない、と‥‥?」「!」
咄嗟に早緒は耳を塞いだ。ごろん、と小鉢が早緒の紬の膝の上に転がる。早緒の声のない拒絶があった。
それは尾末の問に答えることへの拒絶であり、しかし消すことのできない事実への拒絶であり、さらには、その事実を拒絶しようとしている自分への拒絶ですらあった。
早緒が藤堂の家に書生見習として行くことがきまった直後、令次は体の不調を訴えて床についたことがあった。令次の家には、通いの手伝いしかいなかったから、令次が病院にいて家を空ける間、早緒は伝を頼って預けられたのだ。その伝というのが、伊堂だった。
「早緒」
友人の声が、早緒のすぐ耳元でした。早緒は畳に落としていた目を上げて、尾末を見た。
「俺たちの間ではもっぱらの噂だった。覚えているだろう、早緒?あの頃おまえは、よく伊堂さんに連れられて俺たちの釜に来ていた。俺とおまえが知り合ったのもあそこだ」
「尾末」
「俺たちが何を聞いたわけでもない。おまえが何かを言ったわけでもない。噂だ。あくまで、噂だったんだ。だが、俺たちとは余程のことでもないと口を利かないあの人が、おまえに話しかけて微笑う。肩に手を置き、並んで歩く。それがどういうふうに俺たちの目に映っていたか!おまえが。あの頃のおまえが、あの噂を全く知らなかったとは言わせない。」
「尾末!」
「伊堂さんは、最後におまえに何を言ったんだ?‥‥早緒」
尾末の追求する目が厳しく、早緒の怯えた戸惑いの目とぶつかる。
最期に出合った時の伊堂の表情が、言葉が思い出せない。
そうだ。あの時、最後まで伊堂の顔を見なかった。最後まで、伊堂の言葉を拒んだ。
自分が、伊堂を憎んでいる、と言った時の、伊堂の表情など見なかった。見ることができなかった。自分はあの時、伊堂に嘘を言ったからだ。いや、憎んでいたのは、決して偽りではない。けれど真実でもない。昔、早緒の心よりも先に躯を欲した伊堂への、精一杯の抵抗の言葉だったのだ。
自分の心が、あの躯への仕打ちによって裏切られた早緒には、そう言うことしかできなかったのだ。
早緒はかぶりを振った。
気づいてしまう。真実の自分の心に。気づいてはいけない、もうこれ以上‥‥。
「やめてくれ‥‥。これ以上、‥‥」
早緒は立ち上がろうとした。だが、尾末の方が素早かった。
「早緒」
「いやだ、尾末」
早緒の腕を尾末が引き下ろす。立ち上がりかけた早緒の腰が簡単に畳に落ちた。
勢い余った尾末の体ごと畳の上に倒れ込みながら、早緒の声が高く叫んだ。
「もういやだ!なにもかもが私を弄んで。私の心なんかどうでもいいかのように周囲が勝手に動いて行く。いつだって心だけ流れについていけず、心だけ残して私は流されなければならないんだ!」
仰向けにされた早緒は、激しく両の手で顔を覆った。
尾末は暫くそれを真上から見つめていたが、やがて尾末の手がそっと早緒の片手をその顔から外すと、そこには尾末の見たことない早緒の表情があった。眦に盛り上がった涙が、音もなく頬を伝って畳に落ちていく。
「誰も愛さない‥‥。そう決めたんだ。私が誰かを愛しても、私の思いを置き去りにしてみんな去って行く。私までもが、私の思いを置き去りにして流されて行かなくてはならなくなる。心だけ‥‥どこかへ置き忘れて、私はいつだって寂しくて、苦しくて‥‥」
かすかに嗚咽が漏れる唇に尾末は近づき、静かに塞いだ。
一瞬だけそれを甘んじて受けた後、早緒は抵抗した。尾末が早緒の肩を強く掴んで畳に押し付ける。その肩を掴む指を引き剥がそうと、早緒は必死に抗った。
「尾末!」
力強い指を剥がすことを諦めた早緒の手が、尾末の頬を容赦なく打った。
しかし早緒を押さえ付けた尾末は、早緒の上から退くわけでもなく、打った早緒もまた、起き上がるでもなく。二人は凝と互いを見ていた。まるで次に言う言葉のために時をためて置く必要があったように、荒げた呼吸が静かな息遣いになるまで、二人ともが黙ったまま待っていた。
「だから、愛さなかったというか」
尾末の声が、早緒をぞっとさせる程低くなった。
「それが、おまえがあの人を拒む理由か」
「‥‥‥」
早緒はまたもや、尾末から目を逸らした。
「俺ならば、ずっとおまえの傍にいてやる」
尾末の声が、低いが甘い囁きに変わる。
「おまえが望むだけ‥‥いや、おまえが望んだって、離れはしない。‥‥それならば、俺を愛するか」
低い声は次第に耳元へ寄せられる。やがて尾末の胸が早緒の胸の上に、ぴたりと重なった。
尾末の髪から、着物の襟元から、陶芸の薬のつうんとした刺激臭と土の甘い匂いの交ざった匂いがした。
その尾末の匂いが、早緒に伊堂を思い出させた。陶芸の匂い。伊堂の着物の匂い。あの時の、あの部屋に満ちていた匂い‥‥。
「私があの人に抱かれたのは、一度きりだ。それも力ずくで、それを愛と呼ばなくてはならないか。私の心を踏みにじったあの人の行為を、それも愛と言わなくてはならないのか!」
早緒の叫びが響くと、尾末はその言葉を反芻した如き間を置いた後に、ゆっくりと起き上がった。
<そして、俺にもおまえは同じ問を投げつけるのか。>
早緒の体から離れて立ち上がった尾末は、やがて早緒に背を向けて、ひとり窓の桟に腰掛けた。
早緒は何も言わずに起き上がって、襟元の乱れを直すと、部屋を後にした。
二人、ともに、言葉は何も無かった。
早緒が階段を降りていく軋みだけが、みしみしと尾末の耳に音を残す。
早緒が表に出ると、尾末が腰掛けた窓の下を通ることになる。だが、早緒は、尾末を見上げはしなかった。尾末もまた、下を通る早緒を見ようとしなかった。
尾末は桟に腰掛けたまま、早緒が先刻まで手にしていた小鉢が転がっているのを拾い上げた。そして早緒が通り過ぎていった誰もいない通りに向けて、器を持つ指の力をそっと抜いた。
かしゃん、という虚ろで悲しい音に、三間程歩いた早緒は足を止めた。が、矢張り振り向きはしなかった。
どこかから薫る木蓮の薫りが、一時に強くなったような気がした。
地面に散らばった白い焼き物のかけらが、まだ散りもしない花弁のように尾末には見えた。
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茶釜の中で湯が煮えたぎる音が、尾末を温くしていた。春三月とはいえ、まだ寒い日も多い。
尾末は柄杓に湯を汲んだ。
「尾末さん。お茶をたてるときのお湯は、柄杓八分目にしてください」
柄杓一杯の湯をすべて茶碗に空けきってから、しまった、と尾末が思ったときにはもう、嗣郎の声が飛んで来ていた。
盲目であるはずなのに、まるで見えているようで、時折嗣郎には驚かされる。尾末は感心し、敬服しながらも肩をすくめた。
「わかるんですよ。勢いが違いますから。八分目で止めようとするときは、どうしても力を加減しなくてはならないけれど、全部空けようと思えば、力の加減なんて考えませんから」
嗣郎はにこりともせずにそう言った。茶の湯のけいこの時には必ず嗣郎の側についている早緒が、今日はいないせいだろうか。相当機嫌が悪いようだ。普段の嗣郎はもっと愛想がいい。
だが、尾末にとって、早緒はいないほうがよかった。 そうでなければ、尾末は黙って稽古を進めることができなかっただろう。
稽古が済んで道具も片付け終えると、嗣郎が尾末にぽつりと尋ねた。
「早緒さんがどこへ行かれたのか、ご存じありませんか」
まるで、今日はそれだけを尋きたかったのだとでも言わんばかりに、嗣郎は先刻までとうって変わって感情も露に尾末の方を向いていた。
「早緒‥‥? いや。何かあったか」
「いえ。それなら良いです。気になさらないでください」
嗣郎は、ぷいと身を翻した。聞かなければよかった、という一瞬の後悔がその表情にあった。
「嗣郎」
嗣郎の細い手頚を、尾末は掴んだ。尾末のたくましい手首に比べれば細いというだけで、そうそう女の様に細いわけではないが、それでも軽く尾末の指の輪の中に嗣郎の手首が収まってしまっていた。
「言いなさい、嗣郎。早緒がどうした」
「わかりません。分からないから伺っているんじゃないですか!」
嗣郎の頬が、打たれでもしたかのように上気していた。普段、声を荒げたりしない嗣郎が珍しく興奮していた。
「早緒さんは、何も言いません。何も言ってはくれないんです。それに」
嗣郎が尾末の手を振り払おうとしたが、掴まれたままの手頚が顔の間近で、尚堅く掴まれただけだった。
「嗣郎?」
掴まれたまま嗣郎は手頚を下げた。自然に尾末の指が嗣郎の手首から離れる。
「尾末さんも私に何かを隠しています。」
尾末が言い返そうとしたわずかの隙をついて、嗣郎は言葉を続けた。
「隠してはいないのかも知れません!でも、言ってはくれないでしょう。昨夜、あなたのところから戻ってから特に様子がおかしかったと言えば、何があったか教えてくれますか?」
嗣郎は気配に聡い。盲目である分、そのほかの感覚が鋭く研ぎ澄まされていて、視覚以外の有りったけの感覚で周囲を知る。尾末などは、まるで嗣郎は普通の人が物を見ている変わりに、人の心を見ているのではないかと思うとが時にある。
今も嗣郎は尾末の様子を感じ取っていた。いつものように鷹揚に構えた態度の尾末ではない。
「何か、あったんですね」
自分の袖に縋る嗣郎の手が震えていた。
「嗣郎」
縋る手を外して、尾末は出ていこうとした。
「尾末さん!」
嗣郎の声が追ってきたが、尾末は止まらなかった。
俺じゃない。
尾末の胸の内は大きく揺れていた。
俺のせいじゃない、早緒が変わってしまったのは。
俺ではなくて‥‥。
<伊堂さん、あんただ。早緒を変えたのは。そして俺を変えたのは>
尾末は嗣郎を置いて出ていった。その足は、向かう所を知っていた。
早緒はぼんやりと庭先に立っていた。
荒れ果てて雑草が幅をきかせた、主のいない広い庭先に立つ早緒は、最早其処を訪れた客人ではなかった。庭と同じに、主を失ったひとつの“物”のようであった。
<心を、いくらかちぎって持っていかれてしまったようだ>
自分の耳元を過ぎていく風は冷たくて身を切るようなのに、ここに立つだけで、思い出が暖かく自分を包む気になる。
<錯覚だ>
それは知っている。ただの感傷なのだ。かつては振り切って捨ててしまおうとした思いを、今になって、いい思い出にかえてしまおうなどと、むしがよすぎる。
冷たい風が、足元に冬の名残の枯れ葉をからめていった。
以前は美しい庭だった。隅々まで行き届いた主の手入れのおかげで、この庭には沢山の薔薇が季節を追って咲きほこったものだった。
『薔薇屋敷』
坂の途中にある伊堂の屋敷は、そう呼ばれていた。単純に、薔薇が多く植わっている屋敷だから。どうやって生計を立てているかもわからぬ母子が住まう洋風の大きな屋敷を揶揄して。母を送り、少年が一人、生きているかいないかわからないようにひっそり幽けくいることをまるで幽霊が棲みついているかのように噂して。
<早緒か‥‥>
花鋏の音が止んで、自分を呼ぶ。そうっと近づいたつもりなのに、あの人は必ず気が付いてくれた。
<早緒>
かさつく枯れ葉の音が、いつしか自分を呼ぶ声に聞こえてきそうで、早緒は此処にいてはいけないとさえ思い、足早に庭を出た。なのに門を出たところで振り返ると、『伊堂』の表札の文字が早緒を捕らえてしまった。
「何故‥‥」
その黒い石に白く抜いた文字を指でなぞると、もう、早緒は涙とともに溢れ出る感情を抑え切れなかった。
何故。
何故、自分を愛したのだ。
何故、死ぬ前になってまた、自分の前に現れたのだ。
何故、自分に気づかせた。
何故、自分は気づいてしまったのだ。自分もまた、あの人を愛していたのだ、と。
声も出さずに、早緒は泣いた。
愛しくてたまらないものに触れるように優しさの限りを込めて、けれど、切ない痛みに手を伸ばすように恐る恐る、表札の文字をなぞる。やがて手が表札の文字をなぞり切ってしまうと、早緒はゆっくりとその場に崩折れていった。
やがて、人影が坂を登ってくるのに早緒は気づいた。
「尾末‥‥」
坂の下から歩いてくるその姿を認めると、早緒はその場から立ち上がり、ゆっくりと自分の速度で歩き出した。 尾末もまた、早緒をその目の中に認めながら、それでも、急ぐでなく緩めるでなく、一歩ずつ坂を上ってくる。
やがて二人は出合う。
丁度、途の中程で。
ぴたりと二人は歩みを止めた。
「尾末‥‥私は‥‥。私は、あの人を」
こわごわと、一言ずつ区切って、早緒は尾末に告げる。
尾末は無言だった。無言で早緒を、ただ見つめる。
「待つ」
たった一言で、尾末は歩きだそうとした。
愛しい。
心からそう思った。
すれ違い様に発せられたその言葉に、早緒は思わずその人の名を叫んだ。
「尾末!」
けれども、早緒は振り返らない。風が揺るがす羽織りの袖を、流されまいとするように強く抱き締めただけだった。
そして、尾末も振り向かない。その背に、早緒の向けた背中を感じ乍ら、尾末もまた歩き続けるだけだった。 早緒の横を、尾末の後を追う風が切なく擦り抜けて行く。
はらり、と早緒の前髪を掠めて肩に落ちるものがあった。
「木蓮‥‥」
小さな呟きは、その花弁程の微かさか。
涙を振り払うように、肩から白い花弁を振り払って、早緒は、再び歩きだした。
仄かな薫りはしたけれど、もうあの夜のように砕け散る虚ろさは聞こえない。
早緒は、ただ歩く。
尾末も、ただ歩く。
木蓮の薫りだけが静かに散って、時の移ろいを夫々に教えてくれた。
< 了 >