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Sleep Warm 6 – Thursday Holiday-

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Sleep Warm 6 – Thursday Holiday -

木曜日。祝日だと気づいたのは、定時に事務所に誰も出勤してこなかったから。
事務所で迎えた朝、夜中中飲んだインスタントコーヒーに飽き飽きし、隣のビルの喫茶店にコーヒーの出前を頼んだ。
おはよう、と10時を回って出てきた宇草に、「休日だとは知らなかった」と言ったら、そのくらいの感覚で頑張ったから、間に合ったんだろう、と辛辣にも褒めてもらう。
「大谷邸、どうなった?」と聞かれて、変更の趣旨を説明する。那珂川からの3D図面は、朝の5時過ぎにちゃんとメールで届いた。
「よし。じゃあ、打ち合わせは私ひとりで行くから、君は今日は帰って休んでください」
寝不足でよれよれの、いかにも徹夜しましたという面をしたデザイナーは、いい建物の価値を下げる、のだそうだ。
「それに、ここのところ、なんか疲れてるみたいだし」
数日前に、ミス連発の自分に、もう帰れ、と言った宇草だ。踏み込んでこないだけで、何かプライベートでトラブルを抱えていることはお見通しだったのだろう。仕事ができて気配りのできる仕事のパートナーはありがたい。
事務所のテナントビルを出たところで、すでに昼近い陽射しに目が眩み、立ち止まる。
「8時から仕込み(*2)って言ってたっけ」
帰宅しても姫はいないだろう。少なくとも、夜まで帰ってこない。帰宅したら風呂に入って、徹夜した分、少し寝て、それから――。
昨夜、姫が落としていったマフラーを首に巻き、温かさに身を守られながら歩き出す。
「何を作ろうかな、今夜」
仕込みをしたら、本番に向けてラストスパートだから、時間は遅くとも、飲んだくれて帰ってくることはまず無いだろう。
帰りに買い物するために「商店街通り抜けコース」の道へと脚を向けた。
帰宅して、予想通り誰もいない部屋で、まずカーテンを開ける。窓ガラスから冷気は伝わってくるものの、天気は良かった。
「眩し」
思わず舌打ちしてしまう。冬の晴天。仕事をし通した夜を過ごした身には腹立たしいくらいの気分にもなる。あんまりにも清々しすぎて。
「誰かさんののーてんきさみたいだ」
そんな憎まれ口を利きながら、コーヒーでも入れるか、とひとりごちたところで、ものすごく大きく、ぶおー、と振動が響いた。
「携帯?」
こたつ板の上で、姫の携帯が振動している。10回ほど一定のリズムで振動しながらこたつ板を鳴らした。
「相変わらず、忘れ物の多いやつ」
携帯なんて忘れたら大変だろうに、と呆れたため息をついて、携帯をこたつの上から拾い上げた。その途端にまた携帯が鳴り始めた。
ディスプレイに「太市」と表示されている。
たっぷり10秒は出るかどうか悩んだ。今日は太市も同じ現場のはずだ。
悩んだ挙句、電話に出ることなく、振動している電話をクッションの背の上に載せ、風呂も睡眠も諦め、とりあえず着替えだけはすることにした。
おせっかいな太市が、仕込みの小屋を教えてくれていて良かったな、と思う。一度、姫と一緒に芝居を観にきたこともある劇場だ。表玄関は当然開いていないので、通用口を探す。親切にも「楽屋口」と矢印が出ていたのでそちらへ回ってみると、楽屋口のドアには鍵もかかっておらず、「おじゃましまーす」と小さく言って開けてみた。
「不用心だなあ。部外者が入り込んだらどうするんだ」
俺もそうだけど、と呟く。
ガンガンゴンゴン金槌の音や物が舞台の上で動かされるような音のしている会場のドアをそっと開けて、座席後部から客席に入る。舞台には照明も幾つか当てられ、あれ持ってきてだの、そこをどうしろなどの声が飛んでいる。
「姫さん、後でカミ見切れてないか確認してくれー」
舞台ソデから声が掛かる。呼ばれた当人は、と見ると、舞台上手奥から作られたかなり高い階段の一番上にいた。
「太市、こっちに明かり一発くれ」
姫のいる場所にスポットが当てられる。
「もうちょい下。オレのこの辺」
役者が姫より低い身長なのだろうか。姫が自分の首の辺りを指し示す。続いて別の位置を示し、要求に沿った明かりが落とされる。
声をかけるのも憚られて、暫くの間、姫と他の人たちのやりとりを聞きながら立っていた。
役者の演技見て怒鳴ってるだけじゃないんだ。クスッとひとりで笑う。
「依嶋さん」
いつの間にか太市が隣に来ていた。
「照明ブースから見えたんで。何笑ってたんですか」
客席上部を指しながら問われた。照明を操作するコントロールブースが客席上部に突き出している。
「勝手に入ってきて悪い。これ、あいつに渡しておいてくれ」
「あ。やっぱり家に忘れてましたか。そうじゃないかって言ったんですけど、さっき先輩がオレの携帯で鳴らしてみたんですが・・・」
「え」
「鳴りませんでした?」
「ごめん。人の携帯だから。出るの躊躇ってしまった」
そうか。あれに出れば良かったのか。何処かで落としたかとか、心配してたのかも。
太市が「依嶋さんらしいや」と言った。
「たとえ先輩の携帯でも出ないんですね」
いや、そういうわけでは、とかなんとか、もごもごと煮え切らない言葉を言いながら、手の中の携帯をくるくると回転させる。
太市が「それとも喧嘩中だからですか」とニヤニヤしながら聞いてきた。
「まだ機嫌悪いの、あいつ」
そう問うた瞬間、昨夜の、姫に背中から抱きしめられた腕の感触が甦ってきて困った。客席の明かりがついていなくて良かった、と思う。でなければ、太市に真っ赤な顔を見られただろう。
「昨日の小屋さん(*3)との打ち合わせん時は機嫌悪かったスね。ここしばらくで最悪だったかも。今朝は、機嫌が悪いって言うよりか」
「ん?」
太市がこちらを、ちらと見てきた。
「昨夜、先輩と何かありましたか?」
「いや。俺、事務所で徹夜だったから」
できるだけ平静を装う。太市に対してだけでなく、目の端にいる、階段の頂点の姫がこっちを見ている気がした。
「今朝は、機嫌悪いっていうよりも、くたびれてるって感じでしたね。憔悴してるっていうか」
訊いてもいいですか、と断っておいてから、「一体、いつから喧嘩してます?」と切り込まれた。
「かなり、参ってるって感じですよ」
返答に困り、目を細めて、舞台の上の姫を見ている振りをした。
「限界、じゃないですかね。そろそろ」
「大げさだな」
「だって。・・・依嶋さんも、疲れ切った顔をしていますよ」
生意気言ってすみません、とあまり悪びれたふうでもなく詫びられて、「疲れているのは徹夜したからだ」なんて見え見えの口先だけの言い訳を口にしながら、舞台上のことには全く感心がない振りをして、太市と話し込んでいる素振りを繕う。どうやってここからそっと、姫に何も話しかけないで済ませて退場しようかとばかり考えていた。
そこから先、何がどういう順序だったかは定かではないが、誰かが一声、何かを叫んだ気がした。
危ない、だったかもしれないし、言葉にならない、「あ」とか「わ」とかの声だったかもしれない。
その後には、その場に居合わせた者たちは、声もなく息を飲んだか、短い驚きの声を発したかのどちらかに別れたかと思う。
はっきり覚えているのは、たっぷり数分間分くらいのスローモーションの映像である。実際には数秒でしかないのに。
自分は声を無くした方だった。
姫は、ほとんど最上段から、一気に下まで落ちたと思う。
階段であるはずが、まるで滑り台の斜面を滑り落ちたように見えた。
最後に床面に、だん、と姫の身体が大きな音を鳴らして、一瞬の沈黙が有って、その後、各所にいた人間が一斉に姫の下へ集まった。
映画のモノクロの音もないコマ送りのカットから、最後のきっかけで音と色が戻る、そんな様だった。
自分の隣を、腕を掠めて太市が走って行った。それすらも、自分が、観ている最中の映画の中に入り込んでストーリーを観ているかのような気分にさせられる。
たくさんの声が口々に夫々の呼び方で姫のことを呼び、十数秒か、何十秒か、数分かが過ぎて、「いってー」という声が小さく聴こえた。
飛行機の中で耳腔内の圧がふと切り替わった瞬間のように、音が正常に聴こえ始めた。
舞台へと漸く足が進むようになった。

@@@

皆が自分を気遣う声の中で、当の姫だけが「大丈夫だって。あー、もううるさい。キレイに滑っただけだから。頭は打ってないって。それより、ナグリ(*4)、落っことしちまった。誰にも当たったりしてないか」と、周りの声に負けないくらいに声を張り上げていた。
「・・・依嶋」
いつの間にか取り囲む輪の中から太市ともう一人男性に肩を借りて出てきた姫が、舞台下にいた蓮を見て、名前を呼んだ。
「携帯、やっぱり家に置きっぱなしだったか」
「・・・そう」
手の中に残っていた姫の携帯を見せて、短く答えて、太市に代わって肩を貸した。姫から離れた太市が、「うわ」と呻いて、頭に巻いてたタオルで姫の左肘を押さえる。
「怪我してるのか?」
「はい。肘、切れてるみたいです。依嶋さん、やっぱりオレが代わります」
肘に当てたタオルを任され、3人がかりで姫をロビーに連れ出した。
ロビーの長椅子に座らせると、ずるずると体を倒し、自分で横になる。
「気分悪いんでしょう、先輩」
「まあな」
太市の言葉を素直に肯定し、右の肘で顔を覆った。
「落ちた衝撃と痛みで、脳貧血起こしてるだけだと思う」
ここまで連れてきてくれた背の高い男性が依嶋に、安心していい、と言った。
「花ちゃん」
「おう。おれ、中に戻って続けるんで、姫は暫く休んでな」
「よろしくー。悪いな」
「死ななかっただけ、褒めてやる。太市、依嶋、あとよろしくな」
姫が「花ちゃん」と呼んだ男に名前を呼び捨てにされて、太市に疑問顔を向ける。
「今回の舞監(*5)の花坂氏です。依嶋さんたちの大学の同級のはずですよ」
太市が笑って教えてくれた。申し訳ないが全く覚えがない。もっとも、自分は演劇科ではなかったので、同級と言われても、一緒に授業を受けていたことはほとんどないはずだ。
「依嶋さん、ちょっと代わってもらえますか」
肘を押さえるタオルを持たされる。
「うわ」
「新しいタオル、持ってきます」
幾つかに折り畳んだタオルの一番外に血が滲んできている。
姫の顔が蒼白になっている。
「依嶋。悪いけど、客席のどっかにオレの上着が転がってるはずだから、持ってきてもらえる?」
「寒いのか」
貧血のせいで一時的なものだとは思うが、肩も強張って力が入っている。とりあえず、自分のコートを脱いでかけてやろうとするが、姫に拒まれた。
「血が付くから」
「うるさい」
一言の下に却下。
「・・・なんか、依嶋の方が顔色悪い」
かすかに口許を引き上げて、笑みを作ってみせながら姫が言うことに、うるさい、ともう一度言おうとした。が、確かにそうかも、と思うと、上手く切り返せなかった。
「依嶋さん、タオル」
太市が何本かタオルを持ってきて、俺の持っているタオルと取り替えた。タオルを取り替える際に傷口がチラッと見えた。だけでなく、ぼとっと血が姫のジーンズの太ももに落ちる。
「わ。こりゃひどい」
自分の言いたいことを太市が先に口にした。
「トリ。今、手空いてる? ああ。なら終わり次第ロビーに来て。あ。そのまえに事務所寄って救急箱借りてきて」
ハンズフリーで携帯で誰かに指示をして、俺の手からタオルを取った。
「大丈夫ですか」
てっきり姫に掛けられた言葉だと思ったが、「依嶋さん?」と肩を突つかれてハッとする。
「え? 俺?」
「そうですよ。先輩より、顔、青いですよ。まるで依嶋さんが貧血起こしてるみたい」
「そんなわけないだろう」
太市と言い合いしている間に、姫が頭を起こした。
「太市、悪い。なんか飲みたい。あったかいやつ」
「了解」
太市が飲み物を調達に行くと、姫が身体を起こした。
「いてて」
「 起きて、大丈夫か」
「あー、キレイに滑った。途中で止まるかと思ったけど、止まらなかったもんな」
「軽く言うなよ。心臓が止まるかと思ったぞ、・・・ほんとに頭とか打たなかったのか。手や足は。骨は大丈夫なのか」
背中は?と、触れたとき、手にぬるっとした感触があった。
「姫」
「ん?」
ジーンズの中からだらしなくはみ出たシャツの裾が、血に塗れているのを見つける。
「姫、痛くないのか」
「なにが」
「血、出てるぞ。どこかから。背中、は傷はなさそうだから、腰か。・・・臀?」
片手で背を抱きながら、もう一方の手をジーンズの腰に差し入れて、傷が無いか、血が触れないか、確かめる。
臀に傷でもついてようものなら、許さねーし。
「え?」
胸の裡で悪態をついたつもりが、思わず声に出てしまったか、姫のシャツの背中を握ったまま言った。
「姫、後ろ、向けるか」
そう言うと、姫が何か言いたげに見上げた。どうした、と問いかけようとしたその時、客席の扉が開いて「あ。ごめんなさい」と落ち着きのある女性の声が聞こえた。
「先輩。依嶋さん。女の子の前で何やってんですか」と、女性とは反対方向から、飲み物を買った太市が帰ってきた。
片足を折って、ベンチの背を抱えるようにして見せている背中は大方露わになり、ジーンズに手を掛けて、今にもジーンズを脱がされようとしているような姫を見たら、誤解を受けても仕方がない。
声を掛けてきた女の子は、救急箱を手にしていた。
「照明{うち}の新しい子でトリって言います。怪我の手当てが上手いので呼びました」
太市が女の子を俺に紹介する。女の子は、去来川です、と名乗り、きっちりと頭を下げた。
「ちょっと失礼します」
姫のタオルをそうっと外して、彼女がちょっと顔を顰める。
「どう?」
太市の問に、彼女はタオルを戻しながら「すぐに縫ったほうがいいと思います」と告げた。
「姫路さん、腕は動きますか?」
「骨折の心配なら、大丈夫」
姫が腕を動かして見せる。
「あ。腕、できるだけ高くしておいてください。まだかなり出血すると思います」
言われたそばから、姫のTシャツにぽとりと血が落ちる。
「かなり深い傷なのと、あと、皮膚が削がれるようにめくれているので」
「深いって、どのくらい・・・」
思わず訊いた俺の言葉に、彼女は言葉を選びながら言った。
「つまり、・・・肘にはほとんど肉がないですから」
「骨か」
姫があっさり言う。ゾンビゲームがだめなくせに、グロは平気なのかよ。
骨が見えている患部を想像して、ちょっと気持ち悪くなる。それが顔に出てしまったのか、彼女は「すみません」と謝った。
「ともかく、まだ出血も続くと思いますので、縫ったほうがいい傷だと思います。大通りに出て向こうに渡ると、外科の救急をやっている病院がありますから、このまますぐに行ってください」
「そりゃ無理だ」
姫が即答した。
「でも」
彼女は助け船を求めたいようで、太市を見る。だが、太市も口ごもった。
「えーと。トリの言いたいことは分かるけど」
味方にならないと分かった途端、太市を見る彼女の目がきつくなる。
「とりあえず、セットが組みあがってベースの照明{あかり}ができるまでは無理だな」
姫が言うと、太市も重ねて言う。
「このまま先輩がここを離れると、進行が全部止まってしまうんだ」
「そういうこと。ほら。太市も中へ戻れ。ここにいたら、照明はストップしたまんまだろ」
最後の味方とばかりに彼女が俺を見たが、小さく頷くしかなかった。
彼女は苛立ちを込めた雰囲気を隠そうともしないでため息を大きく吐いて、太市の手から新しいタオルをもらった。
「ガーゼだとくっついてしまうかもしれません。もっとも、出血がそう簡単には止まらないと思うので大丈夫だと思いますが」
言葉にかなりとげとげしさがにじむのに、男3人で苦笑する。
「じゃあ、俺は先に戻ります。トリ、手当てが済んだら、戻ってきて」
太市が客席の中へと戻っていった。
「すみませんが」
いきなり彼女がこちらを向いて声をかけてきた。
「関係者の方ですか」
「部外者です。彼の忘れ物を届けに来ただけで」
「では、すぐに帰ってしまわれますか」
「何か、したほうが良いことが?」
彼女は手を動かして、姫の腕を姫の頭の上に載せる格好にして、手当てを続けながらこちらを見て言った。
「腕を下に下げてしまうと、出血が多くなります。できれば、当分の間は腕を心臓よりも上にあげておけるよう支えていてあげてください」
そう言って、姫の手を持つよう示す。
頭の上に載っている姫の手首を持つと、姫の指がぴくりと身動いだが、無視して手首をつかんで、あくまで彼女に返事をした。
「わかった」
「くどいようですが、できるだけ早く病院へ」
「さんきゅ。自分が怪我しといて言うのもなんだけど、照明のほうもできるだけ早く仕上げてくれ」
嫌味ではないことは、姫の笑った顔で理解できたようで、彼女も口元を緩めざるを得なかった。
彼女が客席のドアをあけて中へ入ってしまうと、二人きりの空気に硬いものがたちこめてくる。
「さて、と。俺も戻らないと。携帯、助かった。ありがとう」
やはり顔を見ないまま、姫にしては行儀よい「ありがとう」の5文字をはっきり言い、立ち上がろうと、握られている手首を自分から解いた。
「・・・大丈夫だから」
ちら、とこちらを見て、少しだけ、ほんの少しだけ口の端を引き上げて笑って見せ、すぐに目を逸らして伏せる。
腰が痛いのだろう、顔を顰めながら恐る恐る椅子から立ち上がり、客席の後部ドアへと、そろそろと歩く。開け放してある外扉を過ぎ、内扉に手がかかるところで、姫に追いついた。
「姫」
肩をつかんで姫を止める。振り返る姫に掛ける言葉がすぐには見つからず、思わず俯いたら、血のついたTシャツの裾が見えた。
Tシャツの裾を指し示すと、姫が、汚れた裾をジーンズの中へ突っ込んで隠そうとする。
「怪我! ほかにもあるだろう」
そう言うと、姫は自分の右手をジーンズの臀に突っ込んだ。小さく舌打ちをし、抜いた手の指先に血がついている。
「傷、あるか」
「ん。大したことない」
そのまま、Tシャツの裾を突っ込んで、ジーンズの上から腰と臀ともつかぬところをさすりながら、体で内扉を開けて隙間から体を滑り込ませて中へと入っていってしまう。
残されたまま、暫くはぼおっと内扉を見つめていたが、意を決して、内扉を開けた。
1000席余りに観客席の中央より少し前に座った姫の後ろに立ち、姫の頭の上にある左手首を黙ってつかんだ。不意のことに少しだけびくりと手が波打ったが、姫は何も言わず、こちらを見る暇もない。舞台を右に左にと目を動かせて、早速指示をよく通る声で投げていく。
ああ、ここは姫の仕事場なんだな、と実感した。姫が作りあげた芝居の本番は観たことがあるが、こうして舞台を作っている裏方を見たのは初めてだ。
ただ黙って、姫の手首を持ったまま、姫の声を聞きながらずっと部隊を観察して立っていると、姫が座席をひとつずれて、自分の隣を空けて示した。
「座れよ」
姫の手を持つ都合、跳ね上げの座面をあげたままで、軽く腰を下ろす。
気になって姫の横顔を見下ろす格好で見つめていると、姫がぽつりと言った。
「寝てないんじゃないのか」
「まあね」
「できるだけ、早く終わるから」
それまで、そばにいていいってことだろうか。こうして、手を握って。

@@@

とりあえず、舞台セットと照明を組み上げて、救急病院へ行き、肘の傷を縫ってもらった。
その後、再度小屋に戻り、立ち稽古をして、結局、12時を回る頃、一緒に帰宅した。
「縫ったところ、痛まないか」
戻るなりベッドに伸びた姫に、リビングから寝室の姫に向かって声を掛ける。
「大丈夫。痛み止めも効いているし。第一、傷を縫うのなんて珍しくもない」
確かに怪我が多い。一緒に暮らし始めてからだけでも、姫が縫う傷を負ったのは3度目だ。姫が、リビングから寝室を見ると、ベッドの上にいる姫と目が合った。チョイチョイ、と指で招かれる。
「なに」
「もっとこっち」
「なんだよ」
「こっちこいよ」
部屋越しではなく、ベッドそばまで来い、と言うことらしい。
怪我人だから、と甘くなって、つい言いなりに動く。
「怪我してるからっていい気に」
なるなよ、と言いきる前に、手を引っ張られて、姫の上に倒れこんだ。
「あいたっ」
バカが。自業自得だ。
身体の重みを受け止めて、どこかが痛んだらしい。
「大丈夫か」
「・・・だいじょうぶ」
ふー、と息を吐いて、そのまま俺の背中に腕を回してきた。
「あのさ、階段の上にいたとき、客席におまえが入ってきたの、見えてたんだ。太市としゃべってたのもわかってて」
「――そう」
やっぱり気づいていたのか。そうだろうなとは思っていたが。
「それが見えてなかったら、オレ、たぶん、落っこちるときに、そのまんま死んでもいいかなくらいに思ってたと思う」
思わず飛び起きる。
「おまえが来てくれてたから、咄嗟になんとか怪我が軽く済む体勢、取れたと思う」
姫の手が腰にしがみつくようにしてゆっくりと起き上がった。ぶつけたところが痛むのか、少し顔を顰める。
「・・・バカなこと、言わないでくれ」
「ほんとだって」
昨日の、チアの練習で怪我をして車椅子生活になったというクライアントの娘の話を思い出して、ぞっとする。舞台監督の花坂も言っていた。『死ななかっただけ褒めてやる』と。確かにあの高さから落ちて、打ち所が悪いってことだって十分にあり得る。
どうしよう。鼻の奥が詰まってきそうだ、と思っていると、姫の声のほうが先に滲んだ。
「さんきゅ」
姫がゆっくりと胸に顔を埋めて、身を預けてきた。
ベッドに寝かせてやろうと自分の身をずらそうとすると、胴に回した腕で腰を止められた。
「このままがいい」
「なら、体重、ちゃんと預けろよ。そんな無理な姿勢で、自分の体重を支えながら半分しか寄りかかってこないの、腹が立つ」
くすっと笑って、姫の体の力が抜かれるのがわかった。
姫の重みを抱きとめて、うなじの髪を掬い上げる。
さんきゅ、ともう一度短く繰り返して目を閉じる姫の横顔を、上から暫く眺めていた。
ところが、殊勝に大人しく抱っこされているものと思っていたら、腰に抱きついていた右手がもぞもぞと動き始める。
「おい。こら。姫。おまえ、何やってるんだ」
「怪我人が甘えてるんだから黙ってろ」
「何をバカな」
「黙ってろ」
声に怒気がある。刺々しいわけではないが、有無を言わせない調子の声で言って、姫が腰を強く抱いてきた。
「いくらおまえ相手でも、オレだって怒りたい時もあるんだ」
姫の呟くような声が、直接胸の膚を通して振動で伝わってくる。
「たかがこたつ一つ買ったくらいで、おまえ怒らせてさ。売り言葉に買い言葉じゃないけど、そっちがその気なら、って、ついこっちも意地を張ってみたりして。何日息苦しい思いさせたかって思うと、とっとと一言謝れば良かったとかさ」
聞けば聞くほど呆れるというか、口許が緩みそうになる。
怒ってる? どう聞いても、自省の言葉にしか思えないが。
「・・・タカを括ってたんだ。オレが何やってもたぶん依嶋は許してくれるから、って」
それはその通りなんだが。
ここまで呆気なく反省モードに入られると、どうしてだか意地悪くなってしまう。
「キスのひとつもして、ちょっと情にほだしてやれば懐柔できると思ったな?」
玄関先で無理やり抱きすくめられたときに、一瞬、そのまま許しそうになったのは事実だ。仲直りのきっかけが欲しくてたまらなかったところへ、あれは卑怯だと思った。だから、そのまま許して物欲しげに抱き返すことはしたくないと意地を張った。
「・・・そうだよ。悪いか」
なんでもいいから仲直りしたかったんだ、とぼやいて、人の腹に顔を埋めてくる。姫の、赤くなった耳だけが見える。
「でも、軽く扱ったわけじゃないからな」
右手がもそもそと、背中からシャツを捲って潜り込んでくる。
「手、いやに温いぞ」
熱でもあるのかも。気になって額を探ったら、かぶりを振るように振り払われた。頭がシャツを押し退け、腹に唇が当てられる。そちらも熱い気がする。
「熱が出てる?」
「出てない」
耳の上に指を差し入れて、髪を梳き上げて顔をよく見ようとするが、姫はさらに腹からわき腹へと口をつけてくる。
「依嶋は意地っ張りで負けず嫌いだから、オレから謝るしか仲直りできない」
痛いところを突かれて、思わず黙る。
「でも、あのときはまだ、オレも意地を張ってたから、あんなことしかできなかった」
右手が背を包むように伸びてくる。
「オレが悪かったんだ。ごめん、依嶋」
姫を胸に抱えて、ほっとする。
今なら、言えそうだ。素直に
「・・・それ、俺の台詞だ」
腰を抱く腕に強く力が込められる。
くすぐったくて、止めさそうと、姫の耳を触る。耳を弄られるのが弱点のため、腰を巻いている腕を解くかと思いきや、耳を弄る俺の手を払って尚、シャツのボタンをたちまちのうちに外してしまった。
今晩は大人しくしてろ、と言いたいところだったが、言いたくない甘えも正直、胸の裡に抱えている。仰向けに転がされたときには、スラックスの前ボタンも外されていた。
「依嶋、腹、冷たい」
「うん・・・」
こっちは、その冷えた身体に姫の唇が当てられると、無駄に熱く感じられて困る。
「姫」
やめろ、と口に出したくなく、しかし、続きをそのまま受け入れるにはいくらかの抵抗の気持ちもある。
左の腰あたりに痕を残されるような強さで唇をつけられるのに抗おうと脚を曲げると、たちまち膝の後ろに腕が潜り込んできて、両膝をそれぞれの腕で抱きかかえられる。右に、左に、腿の内に強く徴が残るキスを繰り返していきながら、姫の指が膝から脹脛を降りて、足の指を求めてきた。
右だっけ、左だっけ、こいつが怪我したのは。
ぎりぎりまでなんとか理性で足を蹴りだすのを我慢し、怪我したのとは反対の手が足の指に絡められていると確信を持ったときに、蹴り飛ばした。
ちっ、と舌打ちして「怪我人にそういうことするか」という姫に、「怪我人がそういうことするか」と睨み返す。足の指は触れられるのに弱い。ここで足の指を弄られようものなら、おそらくたちまちのうちに、「落ちて」しまうだろうと思うと、つい、思わずもがな、逃げる手段を取ってしまった。
「手加減くらいしろっての」
クスクスと笑いながら、姫にされるキス。懐かしいほどにいつものキス。
髪を梳かれ、顎をなぞられ、頬に当てられた手も、鎖骨を辿る指も、懐かしさを過ぎて――まるで初めてのように落ち着かなくさせられる。
蓮、と、ふたりきりでいるのに、誰にも聞かれないように、というくらい密やかに囁かれ、同時に、首の後ろを捉えた姫の指が、小さく結んだ髪を絡めて遊ぶと、背中に一瞬、軽く電流が走る。
思わず姫の胸板を押し返した。
「何? どした?」
「・・・なんでもない」
言えるか。久々すぎて、気恥ずかしいなんて。
姫から顔を逸らすと、姫の手がすかさず追いかけてきて親指で唇をなぞられる。
「今日は、怪我人のワガママ聞けよ」
強制でもなく、懇願でもなく、とにかく優しい目と声で言われて、頷きそうになるのを誤魔化して姫の背中に腕を回した。
なのに、重なったままシーツに背を預けて、姫のジーンズの後ろポケットを触った瞬間、思い出す。
「姫」
「ん?」
「ズボン脱いで。後ろ向け」
「おまえ、なんかそれって品がないぞ」
「バカ。そういう意味じゃない。おまえ、怪我してただろう」
姫が、まずった、という顔をする。
「どうやって誤魔化そうか、って思ってるだろう。無理だからな。病院でも、肘の傷だけ見せて、臀は見せなかったんだから」
ほら、脱げ、とジーンズに手を掛けたら、さすがに、自分で脱ぐからやめろと騒ぐ。
なーんか、かっこ悪ぃ、とかぶつくさ言いながら、ベッドを降りてジーンズを脱いできた姫が、ものすごく不満げな顔で睨むが、こちらも引く気は一切ない。
「う つ 伏 せ」
ベッドに座ったまま渋っている姫に、命じる。
「寝そべらなくても、見れるだろ」
腰掛けたまま体を捻って上半身だけ伏せようとして、「あいたたた」と腰を押さえる。
「ほら見ろ。捻るのが一番良くないんだ」
ぺしっと太腿を叩き、うつ伏せて寝転ぶよう促す。
仕方なしに枕を抱えて、腹ばいになる姫の下着に手を掛けた。
「脱がされ方によって、こんなに恥ずかしいかな」
「おまえが恥ずかしがると、こっちまで恥ずかしくなる」
「じゃあ、やめよ」
「だめ」
ボクサーパンツのウエストゴムを引っ張ると、内側に乾いてやや黒くなった血の染みが見えた。
「大したことないだろ」
「あー。これはまずいかも。縫った方がいいんじゃないか」
「え。ウソ・・・」
思わず上半身を捻ってこちらを向いてしまい、「あいた」とうずくまる。
ごめん、冗談、と言ったら、睨まれた。
出血はたいしたものではなかったようで、ボクサーパンツがほとんどきれいに拭き取っていた。それよりも気になるのは、下着が擦れて破けていることだ。それを伝えると、お気に入りのパンツなのに、と冗談を言うから、つい背中を平手で叩いてやった。
「全部で20段あったはずだからな」
いち、に、と数えて、うん、そうだ、20段で作らせたんだ、と姫がうなづく。
「ほぼ一番上から落ちたよな」
「そうだな。いや、3段目に居たな。役者の立ち位置でピン(*6)の位置を取ってたから」
最上段と変わらないだろう、と、改めて落下事故に恐怖を感じる。
「あれ? 下着は破けてるけど、ジーンズは破けてないよな」
「そういえば、破けてなかったと思う。見てみ」
姫が脱ぎ捨てたジーンズを床から拾って見てみたが、それらしき擦れている箇所があるけれど、やはり破れてはいない。
「ジーンズって丈夫なんだ」
思わず感心してしまう。
「おーい。放置かよ」
「大の男が半分パンツを脱がされて横たわって、ぶーたれてるのも可愛いもんだ」
「あほ」
そう言いながらも、大人しく唇を合わせることに抵抗は全くしない。
「内出血、結構ひどいぞ」
「そうか?」
このあたりから、このあたりまで、と、尾てい骨の横付近から腰の横手あたりまで指し示す。
「横に広くぶつけたみたいだな」
「確かにそうかも。この辺が、実は感覚が鈍い」
そう言って、左の掌を広げて、左の臀にぴたりと当てて見せる。
「感覚が無い?」
「無いんじゃなくて、鈍いだけ。たぶん、痺れてるんだと思う」
「痛いわけじゃないのか」
姫が手を離したあとに、自分の手を置いた。
「傷、残らなきゃいいけど」
「男の尻に傷くらい残ったって誰も気にしないだろ」
「俺が気にする」
血が乾ききった傷の付近にそっと指で触れる。
「ったく。傷つけやがって」
綺麗に湾曲した腰椎のあたりに唇をつける。
「くすぐったいぞ」
無視。
「これ、ちゃんと傷の手当しようよ」
「あ。風呂、入りてー」
「だめ。肘だって濡らすなって医者に言われてただろう」
「縫ったところを濡らさなけりゃいいんだろ」
姫が仰向けに寝転んだ。髪にくしゃっと指を入れてきて優しく頭を抱かれる。
「鎌田行進曲よろしく階段落ちして、貧血起こして、嫌な汗掻いたしさ。風呂入ってさっぱりして」
一緒に寝よ、と小さい小さい声で言われた。

@@@

「湯、かけちゃえ」
「沁みるぞ」
「いいって。かけちゃえってば」
「そんな乱暴な」
とりあえず臀の傷口付近の血を洗い流して、と思うが、湯が傷に沁みるかと思うと、こちらのほうがびくびくしてしまう。
「貸せって」
しまいに姫がシャワーヘッドを取り上げて、自分で腰あたりから湯をかける。
「あちっ」
だから言ったのに、と呆れるが、結局、姫が温度を下げたぬるいシャワーで、適当に傷口あたりを洗い流してしまった。
「傷、見えないな」
姫が自分の身体を捻って、腰を見ようとするが、いくら体が柔らかくてもさすがに位置的に見えない。
「あ。思ったよりも小さな傷」
血を洗い落としてしまえば、傷口もほとんどわからなくなるくらいで安心する。
「ジーンズは、分厚いからな・・・いいから、いつまでも人の尻、触ってるなっての」
「傷を見てるだけだろう」
「普段は紙で切った傷でも、わーわー言うくせして」
「グロは嫌いだけど、おまえの尻は大事」
「また、バカなことを」
そう言いながら、姫が腰にタオルを巻く。
「いまさらタオル巻くのか」
「シャンプーとか、沁みるのが少しはマシかな、と思って」
「あ。なるほど」
シャンプーボトルを持ってきて、ポンプを押してやると、姫は右手でシャンプーを受けたまま、あわ立てもせずにそのまま髪に塗りたくった。
「うまく泡立たないもんだな」
「そりゃそうだ。髪も濡らさないで。ほら、目、瞑ってろ」
片手でも洗えるだの、自分でできるだのと、うだうだと口答えする姫の、髪を散々いじくって遊ぶ。
「遊ぶな、人の髪で」
型をつけて遊んでいるのにやっと気づいた姫が、俺の手を叩いた。
シャンプーを洗い流してやり、コンディショナーをつける。
「オレ、リンスいらないぞ」
「え。つけないの?」
「短いし」
そうなんだ、と思いつつもコンディショナーを髪に揉みこんで、洗い流す。前髪から滴り落ちる雫を、犬みたいに頭を振り落として、姫がボディシャンプーのボトルを手に取った。それを受け取って、自分の手にボディシャンプーを出して泡立てた。
「お。さんきゅ」
姫が泡を受け取るべく掌を差し出したが、無視して首筋に泡を塗りつける。姫はタオルを使わない派、だ。
「こんなんで洗ったって言えるのか」
「デリケートなの。ナイロンタオルでガシガシやるヤツの気が知れない」
ナイロンタオル派としてはいただけない発言で、つい、悪戯心を出す。
くすぐったい、と体を捻って抵抗する姫を無視して、泡をつけた手で、首から肩へ、左側は傷のある右肘に支障がないように肩口まででストップしつつ、右は、肩から腕の外側を滑るように撫でて、指を組むように指と指の間を握ったら手首の内側から肘の内側、二の腕の内側へと上って戻る。その間に、右手で姫の肩甲骨から背中心の左側を降りてわき腹から胸板に辿り着いたところで、姫の左手につかまえられた。
「姫、左腕は」
「ラップ巻いてる」
「でも、濡れるだろう」
「こんだけ厳重にぐるぐる巻きにしといて、濡れるか」
でも、と、更に言い募ろうとすると、うるさい、と言って髪をつかまれ、口を塞がれた。
「あ、バカ。服が濡れる。髪も」
「風呂に服着て入るおまえが悪い」
後頭部を捉えたまま、背中まで引き寄せられ、こちらのTシャツの胸まで泡だらけになる。
「濡れた服、いつまでも着てると風邪引くぞ」
「誰が濡らしたんだよ」
泡のついた手で姫の胸を押し離しては、背を引き寄せて、体に触れていく。姫は姫で、自分の体につけられた泡を、わざわざ掬い取っては、Tシャツの外と言わず内と言わず塗りたくって「さっさと脱げば」と言ってくる。
「いやだね」
虚勢を張って見せながらも、濡れたシャツの上から触れてくる姫の手が、唇が、もどかしく艶めかしくてシャワーの温度以上に体が熱くなる。まるでそれを知っているかのように、姫は服を強いて脱がそうとはしない。
「わ」
抱き合っているうちに泡が口に入り、ふたりで噎せた。
「風呂でやるこっちゃないな」
手で口許の泡を拭ってくれながらも、それでも唇を押し付けてきて笑う。
「風邪引く前に、温まって上がるか」
ようやく姫の手が、Tシャツを脱がしにかかった。すでに、こちらはすっかり湯気で逆上せ気味だ。湯気のせいばかりでもないとは思うが。

@@@

毛布の中で互いを暖め合う。
鎖骨に唇を押し当てて背中に腕を回したまま凝としている姫の、前髪から仄かに匂う自分と同じ香りに鼻を埋める。
コンディショナーをつけたせいか、常よりサラサラの姫の髪の感触が珍しくて、ついつい手が行って遊んでしまう。その手を押さえられて、手首の内側にキスをされた。
「大人しく寝ろ」
そう言って、姫はもう一度、胸に顔を埋めてきた。
あまりにも大人しい姫の態度につい笑ったら、親指で唇を止められた。
「今日、普通に仕事だろ?」
「平日だからな」
「それで、昨日、徹夜したんだろ?」
「そういえば、そうだった。誰かさんの怪我ですっかり忘れてた」
ほらな、と小さく言う息が首筋にかかる。
だから、無理はさせたくないの、と言いながら、胸に強く唇を押し当てる。
「姫、言ってることと、やってることが違う」
先へ進むことを誘うようなキスに抵抗して、姫の前髪を掻きあげて、こちらも負けじと額に唇をつけた。
「なんだか、髪がサラサラで別人みたいだ」
「そりゃ許せないな」
「ん?」
「俺以外とこんなことしてる気分になるのはNG。許せない」
鎖骨に唇をきつく押し当てて抱きついてくる姫の髪から、コンディショナーの香りが強くする。
「馬鹿なこと言って」
耳もとに軽く息を吹きかけてから、耳たぶを咥えると、耳が弱点の姫は逃れようと、腕の中でもがく。
「大丈夫。間違いなく姫だ」
ばーか、と言って背中に回された姫の手が、俺の項にかかる髪をクイと引っ張った。
「まだ湿ってるぞ。乾かさないと風邪引いちまう」
「すぐ乾くよ」
乾かしている時間があれば、こうして姫の体温を感じているほうがよほど温かい。
肩口に顔を預けてくる姫の項に鼻先をあてて、深く息を吸う。
「寝ろよ。仕事中にばてるぞ」
「うん。・・・なんとかなるさ。一日くらい」
そう言いながら、気持ちよくうつらうつらしてくるのを感じる。姫の温もりで、緊張が解けていくのが心地いい。一方で、疲れきっていた体に、ゆっくりと何かが充填されていくような気分になる。
姫の、アメイジング・グレイスの口笛が聞こえた気がした。

―― 彼は 私の盾であり 私の一部
人生が続く限り

明日また、姫がちゃんとそばにいる、と思うと、このまま眠ってしまうのも怖くないと思う。
「依嶋」
一瞬だけ眠りに落ちたと思ったら、3時間ほど経っていた。
「可哀相だけど、そろそろ。遅刻するわけにはいかないだろ」
「ああ。・・・うん。さんきゅ」
目覚ましが鳴ったのすら気づかなかったようで、いつもの起床時間よりも15分過ぎていた。
「ちゃんと食えよ」
コーヒーとトーストの匂いに起こされた珍しい朝、金曜日の朝。早朝の冬の陽の光が柔らかい。

<Sleep Warm 7へ続く>

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(*2)公演などの会場準備。大道具などの建て込みをすることも。
(*3)劇場や会場側のスタッフ。
(*4)金槌。
(*5)舞台監督。
(*6)ピンスポット。スポットライト。

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