オリジナル小説とイラストサイト

MENU

夜半歌聲

  • HOME »
  • 夜半歌聲

香港製造 夜半歌聲

登場人物紹介

阿B:本名 李器廣。
現在はコンピュータ関係の仕事。
火仔:本名 陳輝火。
香港指折りの金融企業のボス。
アイリーン:李愛伶。
阿Bとは父親違いの妹で、火仔とは母親違いの妹にあたる。
ジェイムズ:本名 梁恵生。
陳家の執事。
マーク牧師:本名 葉志偉。
火仔とローラを昔から知っている牧師。実は阿Bのことも…。
ローラ張:本名 張倩琳。
TVB(香港無綫電視台)所属のタレント。
陳輝大
火仔とアイリーンの父親。(故人)
阿蓮
陳輝大の2番目の妻で、共同経営者でもあった。

私たちがバラと呼んでいる花は

ほかの名まえをつけても  同じようによい匂いがするでしょう

シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』

 

(枚(*1)瑰花我o地叫o既

如果第二名 花仍然好好香o既

Song by Laura chang)

 

 

 

ぞくりとする感覚が、身體{からだ}を這い上がる。

一瞬という快{はや}さでもない、だが、緩慢にゆるゆるとでもない。確実に時を刻むアナログの時計の針が進むように、確認しながらなぞっていかれる感触だ。

開くまいとする口許から出たがる声は、何を火仔に伝えているのだろうか。

快感?

下腹から脇へと伸びた傷跡を這う火仔の指に、執拗さと苛立ちを感じながらも跳ね除けないのは、心がその傷に触れるなと言い、同じその心がその傷をいっそ開いてくれと切に願っているからかもしれない。

任せても良いものか、と気持ちが揺れている間に、身體だけ持ってゆかれる。

驚くほど優しい声音で自分の名を呼ばれると、まるで自分の名前ではない誰か別の人の名前に聴こえる気がする。而家{いま}だけなら、と今夜もつい自身を委ねる気にさせるのは、自分の名前を呼ぶ火仔の声色の宛先にいるように思える誰かへの嫉妬なのか。

誰かに嫉妬を抱くほどにも自分は、火仔を欲しているのか、それとも、誰であれ人恋しいだけなのかと心の奥深くで自問自答にため息をつきながら、阿Bは火仔を受け入れた。

 

 

 

明るくなってから蘭桂坊{ランカイフォン}の自分の唐楼{アパート}に戻り、体をベッドに投げ出すと、阿Bはすぐさま眠りに飲み込まれていく気がした。火仔のそばで眠れなかったわけではない。

「不過{でも}・・・・・・」

眠れたわけでもない。

それは火仔のせいではなく、いつからか、心のどこかがすっかり休まることがない気がしていた。むしろ、起きたときに火仔のいる朝は、いくらか救われた気分になる。

「不過・・・・・・」

同じ言葉を繰り返して、まるでシーソーのようにどちらかに傾いては修正する考えをそこで切り上げるために、煙{たばこ}に火をつけたとき、訪問者を報せるブザーが鳴った。

最初のブザーを無視して、シャツを脱いでベッドに腰をかけた。ほどなく二つ目のブザーが鳴ったが、これも無視する。三つ目は鳴らず、暫く間が空いた後、ノックが開始された。

「邊個呀{だれだ}? 用なら中午{ひる}になってからにしろ。我{おれ}の時間じゃ、まだ朝じゃない」

不機嫌に叫ぶと、ノックがぴたりと止み、諦めて帰ったかと思ったころにしれっとした声が返ってきた。

「いらっしゃるのですね?」

では、という接続詞を思わずこちらが心の中で付け加えてしまったくらい、ごくごく自然にドアの鍵が外される音がした。

「いっ!?」

有無攪錯呀{バカヤロウ}!と叫んでドアのところへ飛んでいくと、実に穏当に開錠する音がしてドアが開き、麻九煩{くそったれ}ジェイムズが立っていた。

「おはようございます」と、まるっきり、主人の部屋に主人を起こしにきた執事らしく言い、イギリス仕込みの執事は、片手には書類ケースを持ち、もう片手には明らかに似つかわしくない、至ってシンプルな針金を手にしていた。

「イギリスでは執事教育のカリキュラムに泥棒って教科まで入ってンのか?」

上半身裸で咥え煙{たばこ}、頭がぼさぼさで機嫌が悪いという寝起きじみた阿Bの厭味など、耳を素通りさせる技を持っているらしく、あっけらかんと「輝火(*2)様のお使いで参りました」と言いながら、ジェイムズは部屋の中に入ってきた。

1Kになっている部屋の食卓の上には、朝方、唐楼{アパート}に帰ってくる途中で買ってきた報紙がだらしなく散らばっており、ジェイムズはそれを片寄せて、書類ケースを開いた。

「置いてくるだけでよい、とのことですので、ここに置いて帰らせていただきます」

「んなもん、郵送でもいいことじゃないか」

「郵送したら戻ってきた、と輝火様が」

ジェイムズが返答せずに、胡散臭げに部屋の中を見回す。

「ああ。そうか。油麻地{ヤウマテイ}から引っ越したんだっけ」

それというのも、元々は火仔の仕事を手伝ったせいで、前の唐楼を引き払わざるを得なかったのだが、考えてみれば確かに引越した先を教えた覚えがなかった。

「・・・・・・おい? おまえはなんでここがわかったんだ」

「器廣(*3)様の後を尾けました」

愚問でしかなかった。

「―― それ置いて、とっとと帰ってくれ。疲れてるんだ。もう少し寝みたい」

ジェイムズは小煩いことは何も言わず、黙って書類を取り出してテーブルに置き、再びケースを閉じて手に提げた。

「器廣様」

「咩呀{なんだ}?」

「お体を壊さないようになさってください」

思わず咥え煙{たばこ}を落としそうになった。

このジェイムズが労わりの言葉を、我に対して言うなんて。

ドアの前まで戻りかけて、ジェイムズが振り返った。

「お小さいころ、輝火様はいろいろなところに閉じこもってしまわれる癖があったので、そのために」

ハリガネを回す仕草を見せた。

「上達しました」

普段は表情もほとんど見せず、全く人造人{ロボット}的なジェイムズだが、普段のテキパキとした仕事ぶりよりも時折こうして見せる仕草に、火仔への忠誠を感じるのはどういうわけだろう。

苦笑ではあったが、思わず笑みを漏らして、帰れ、とジェスチュアした。

 

 

 

朝寝をしようとしたところを邪魔された不機嫌もあるが、わざわざ書類をジェイムズに持ってこさせるなど、火仔の気の置き様にも腹が立つ。朝にでも夜にでも、渡したいものがあると話す時間がなかったわけでもないのだ。

誰も見ていないのに、あてつけがましく書類の包袋をテーブルの端に押しやり、まず、帰りしなにスタンドで買ってきた報紙{しんぶん}から読み始めた。仮にもリサーチ業という(多少のいかがわしさで探偵ごっこやハッカーの真似事をさせられようとも)看板で仕事をしている上で必要不可欠な作業であり、すでに朝の習慣になっていることだ。

たっぷり2時間かけて、歌星{かしゅ}のCD発売記念イベントの情報まで読みきってから、ようやくベッドから起き出し、水のペットボトルを戸棚から取り出して一気に半分ほど空け、今度はジェイムズが置いていった包袋を手にして再びベッドの上に戻った。

ベッドの中で寝転んだまま、書類をぱらぱらっと、見るともなく見る。遺産についての書類だった。

妹のアイリーンが死んで、アイリーン名義だったピーク(*4)の住宅{やしき}が、アイリーンの遺言で阿Bに譲られるという。次いで別の書類には、その住宅を火仔が我から買い取りたいという旨の申入書がついてきている。

そもそも、住宅{やしき}がアイリーンの名義になっていたということすら、阿Bは知らなかった。

壁面に並んだ四架{台}の電脳{コンピュータ}のうちの一架の電源を入れる。不動産登記の記録を遡って探すのなど、わけない作業だ。少少{たしょう}の違法行為は無いも同然である。

 

 

「火仔!」

阿Bが荒げた声で呼ぶと、火仔は眼鏡を外し、知らない人間が見れば冷たいとしか思えない視線で、真っ直ぐ射るようにこちらを見た。

ピークの住宅{やしき}へ行くには、勿論のこと山道を登る。今は自分の車を持っていない阿Bは、自分の唐楼{アパート}を出て、すぐに的士{タクシー}を拾ったのだが、的士の運転手は門の前までしか送ってくれなかった。『中へは入らんでくれっておっかない執事のオニイチャンに言われてるんですよ。島側の的士乗りなら誰でも知ってまさぁ』と言い、有無を言わせず下ろされた。恐らく、いろいろな輩が住宅{やしき}の中に入り込まない用心のためでもあるんだろうが、おかげで阿Bは、門から玄関までの長い坂道になったポーチを自分の足で駆ける羽目になったのだ。勿論、のんびり歩くという選択肢もあるにはあったが、落ち着いて散歩する気にはなれなかったのである。

「咩呀{どうした}?」

こちらがこんなに息が上がっているのに、涼しい顔を向ける火仔に思わず阿Bは怒鳴っていた。

「おまえ・・・知唔知道{知ってたのか}?」

「セo野呀{なにが}?」

「この、住宅[いえ]・・・・・・」

「この、住宅の、前の、持ち主、が、張倩琳{ローラ・チョウ}、だった、って」

本当に言いたかったのは、そのようなことではない。この住宅がアイリーンの名義だったこと、そのアイリーンの遺言が存在し、遺言の内容が阿Bに遺産を譲るというものだったということ。それを問い質したくて来たのに、門から玄関までの短い急な坂を一気に駆け上ってきて息を継ぎ継ぎ言う阿Bを、「それがどーした」とばかりにじろりと見ただけで、再び眼鏡をかけ直して、火仔は手元の書類に視線を戻した。

だが、火仔の眼の表情が、微かにではあるが動いたのを阿Bは見逃さなかった。

「おい?」

張倩琳に、火仔とてTVB所属(*5)の明星{タレント}だったとなると、まるで、この住宅{やしきはTVBの社宅か、と言いたくもなる住宅の来歴に、思わずここへ来てしまったが、完全に無視された形で、阿Bはすっかり勢いを殺がれたのと、引っ込みがつかないのとで、気まずい気分のまま、それでも房{へや}の中に入り、手持ち無沙汰の体{てい}で火仔のビジネスデスクの前にあるソファに腰を下ろした。

電視機{テレビ}のリモコンを手に取り電源を入れると、すかさず火仔から声が飛ぶ。

「音は出すな」

麻九煩{こんちくしょう}と思いつつも、言われたとおりにミュートにする。翡翠台(*6)ではニュースをやっていたが、見出しだけ見てニュースの内容が聞けないのも意味がない。電源を切って、コーヒーテーブルの上にあった香港商報(*7)を手に取り、乱暴に広げると、

「静かにしてくれ」

と、抑揚もなく命令される。一応、頼み口調であることが、以前に比べ、まだましになったと思う。

「・・・・・・もしかして、機嫌が悪いのかよ?」

と、下手に出てみたが、

「没{べつに}」

と、書類から顔も上げないで返された。

「没呀」でもなく、「没o厄」でもなく、「没」かよ。(*8)

これは相当に機嫌が悪いぞ、と判断して、阿Bはそろ~っと報紙{しんぶん}を開くが、手にしている香港商報を始め、今日の報紙は既に、明報、蘋果日報、東方日報、星島、大公報、太陽網、天天日報、ついでに娯民日報まで(*9)、朝、読んでから来たのだ。

それなら、と、思い立って、ぐしゃ、と報紙を閉じてテーブルの上に置いた瞬間、火仔は少しばかり視線を上げて眼鏡の隙間からこちらを睨んだが、そんなこと知ったこっちゃない。

ソファから立ち上がって、阿Bは黙って、火仔のビジネスデスクの上にあるキーボックスに手を伸ばした。

と、すかさずその手をぴしゃりと打たれた。打たれはしたが、阿Bの手には、しっかりと火仔のベンツの鎖匙が握られていた。

ふふん、と口の端を上げて見せると、火仔は今にも噛み付きそうな表情で睨んできた。

黙ったまんま阿Bが房{へや}を出ると、火仔は、声すらも、追ってこなかった。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

階段で、郵便の束を手にしたジェイムズとすれ違ったが、ジェイムズは阿Bの手の中の鎖匙{かぎ}を見ても、僅かに左の眉を上げただけで何も言わず、阿Bも別段何も言わずに黙って階段を降りながら、拜拜{バイバイ}と背中向きに手を振ってみせた。勿論、これ見よがしに鎖匙を持った手のほうで。

車寄せには火仔の会社の公用車と私用車が前後に並んでスタンバっている。そのどちらも無視して通り過ぎようとすると、ジェイムズの声が引き留めた。

「輝火様のベンツは車庫です」

足を止めて振り返り、ジェイムズのいつもの人造人{ロボット}的顔を見て、いささか乱暴に鎖匙{かぎ}を放り投げてやった。どうせ火仔への嫌がらせで持ってきてみただけの鎖匙だ。

「返しといてくれ」

「では、お送りします」

「唔Thank!(*10)」

さっきは後を尾けられ、この上、行き先まで監視されて堪るか、と小さな声ではあったが毒吐いた。

玄関を出て、車寄せに上がってくる門までの坂道を降りていく途中で、ベンツのエンジン音が阿Bを追いかけてきた。

「搭{のれ}」

運転席から、火仔が言う。

命令されるのは好きじゃないが、眼鏡をかけたままなのが、いかにも追いかけてきた風だったので、阿Bはとりあえず助手席側に回って、車に乗ってやった。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

車はピークを下り、蘭桂坊{ランカイフォン}の繁華街に入る。よりによって一黄線だというのにいきなり車を停め(*11)、火仔は運転席から降りて行った。

当然、路上駐車に対して、周りから一斉にクラクションが飛ばされる。自分に優しく他人に厳しい香港ドライバーのお決まりのリアクションだ。

「火仔! おい! 邊度去呀{どこへいく}!? 火仔!」

早速後ろから差人{けいかん}がやって来るのが見えた。

「おい、火仔!?」

「腹痛だとでも言っておけ」

「ん~なもんで誤魔化せるわけ、ないだろ!」

「すぐ戻る」

確かに火仔は、割合すぐに戻ってきた。ただし、戻ってくるまでの間に阿Bは免許証とIDの提示を求められ、違反票{キップ}を切られかけていたが、差人が票を切り取る前に火仔が戻って来、偉そうに阿Bに怒鳴った。

「ばかやろう。エンジンをかけておけと言ったろう!」

わけもわからず怒鳴られた阿Bは、そのうえ花束を顔に投げつけられる。

「悪いが、急いでる」

早口かつ有無を云わせぬ言い切り方で、火仔は胸ポケットから素早く何かを出して、またしまった。

「は。これは失礼しました」

「新米でね。これだから、教育に苦労するよ」

ちらりと阿Bを見て苦笑してみせる火仔に、追従するかのように差人も少しばかり頬を歪めて笑ってみせた。

「辛苦o西{おつかれさまです}、Sir」

差人が火仔に敬礼をして、切りかけた票を千切って丸め、自分のポケットに突っ込むのが見えた。 やれやれ。香港皇家警察はこれだから。

愛想笑いをしている差人を呆れて見ている阿Bを尻目に、火仔はさっさとエンジンをかけて車を出した。

大人しく渡されたままの花束を膝に抱えている阿Bに、車を走らせながら、火仔が言った。

「花は後ろに置いていいぞ」

その声で我に返った阿Bは、呆れてまた怒鳴る。

「おまえ、どこで、あんなo厄{ごまかし}覚えたんだ!?」

初めて火仔がにやりと笑った。

「昔の台本であっただけだ」

そういや、今は親父の仕事を引き継いで、香港でも五指に入る若手実業家と言われているが、TVB(*12)のドラマにも出ていたことがあったんだっけ、こいつは。

二の句が告げないでいる阿Bを尻目に、火仔は我の膝の上の花束を後部座席へ置いた。

「花なんてどうするんだ?」

「おまえにプレゼント」

「いっ!?」

「・・・なわけないだろう」

いつもよりも口数が多くなっていることから、思った。

こいつ、怒っているわけでも機嫌が悪いわけでもないのかもしれない。可能{たぶん}・・・。

「何を緊張するようなことがあるんだ?」

つい、声に出してストレートに訊いてしまったが、火仔はちらりと一瞥をくれただけで、運転に集中している素振りを装った。否定の一言も出ないところを見ると、図星だったのかもしれない。

しばらく、運転する横顔を、阿Bもまた横目で見ていた。

どこへ行こうというんだろう?

花を持っていくのなら、女の度{ところ}、病人の見舞い、―― あるいは。

車は皇后大道中{クイーンズ・ロード}から金鍾道{クイーンズウェイ}へ、もうすぐ軒尼詩道{ヘネシー・ロード}へ滑り込むところだった。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

小高い丘の上にある教会墓地は、活気のある中環{ぢょんわん}地区を見下ろして、対照的に静けさに包まれていた。

車の後部座席に置いた花には目もくれないで、火仔は、車を停めると教会のほうへと歩いて行った。ついて来いともなんとも言わない。阿Bは鎖匙{キー}を慌てて引き抜いて後を追いかける。

教会の入り口では、牧師が立っていた。自分たちを待っていたのだろうか。

「お待ちしておりました」

人の良さそうな牧師が微笑みで迎えてくれた。

「マーク牧師だ」

火仔の紹介でマーク牧師が手を差し出す。その手を握り返して「はじめまして」と阿Bが挨拶をすると、牧師はちょっと困ったふうに笑った。

「中へどうぞ」

火仔にというより、どちらかというと阿Bのほうに視線を傾けて言い、教会ではなく、その裏手の道を少し行った方角にある自宅へと案内された。

中へ入ると、火仔が突然、阿Bに指図した。

「脱げ」

突然も突然だったので、何を言われたか、よく意味がわからなかった。

「腰帶{ベルト}を外せ」

「點解呀{なんでだよ}? いきなり何をばかな・・・・・・」

「勘違いするな。何をしようってわけでもない」

冷静を装って言ったつもりであろうが、火仔のほうが よほど耳仔{みみ}が紅かった。

「おなかに、傷がお有りだとか・・・・・・」

マーク牧師が、横から控えめに言い添えた。

「・・・・・・? ああ。係{はい}」

確かに、阿Bには右のわき腹の下邊{したがわ}に下がったあたりに傷がある。だが、今日初めて会った牧師が、傷を見たいとなどとはどういうことかと思いながらも、火仔と牧師に言われるままに、阿Bはベルトを緩めて、シャツの裾をたくし上げた。

火仔は、自分が服を脱ぐように言ったくせに、まるで見たくないというように俯いて顔を背け、代わりに牧師が一歩、阿Bに近寄った。

「どう、ですか?」

火仔は心持ち横を向いたまま、牧師に訊ねた。

牧師が凝と、阿Bの傷を見る。

傷に伸ばしかけた牧師の手から、思わず阿Bが身體{からだ}を庇う。

すると、いつの間にか傍に来て立っていた火仔が阿Bの背後に立っていた。

「做o羊o牙{なんだよ} ?」

傷に人の手が触れると思った瞬間、些かながら過剰なほどに阿Bがうろたえるのへ、火仔は穏やかな声で言った。

「何もしない。傷を見てもらうだけだ」

阿Bはうろたえたことが恥かしいのと、腰に当てられた火仔の手の思いのほか優しいことに、ふと思い出すともないことを思い出して力が抜けた。我ながら情けないと思うが、火仔はそんなことは全く気にしていないようで、寧ろ蒼褪めたほどに真剣な顔で、いまや牧師と一緒に我の傷を冷静に検分しているのが俯いた阿Bの視界の橋に見えた。

「どうですか」

火仔の質問に、マーク牧師が頷いた。

やがてマーク牧師が、阿Bの顔を真っ直ぐに見詰めて言った。

「この傷は、間違いなく私と私の父が手術したものだと思います」

驚いて、ベルトを外したスラックスが落ちないように持っているのが精一杯だった。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

「右の下腹わきに二本の傷。そのうち ―― 上邊{うえがわ}の傷は銃弾を取り出したときのものです」

マーク牧師は、傷の説明から話し始めた。

「あの日、ローラが怪我をしているらしい男人{だんせい}を的士{タクシー}で連れてきました。銃で撃たれたのだといい、ローラもまた、わき腹に傷を負っていました。どうやら、銃弾はローラのわき腹を掠めて、その男人の体に」

そう言いながら阿Bを見つめた。

隣接した厨所{キッチン}で湯の沸く音が、次第に大きく響いてきた。席を立とうとするマーク牧師を制し、話を続けるよう促して、火仔が代わりに腰を上げる。

「我{わたし}が」

マーク牧師はあっさりとそれを容れ、自分は座り直して、改めて話の続きを語り始めた。

「あのとき、ローラは、自分の手当てよりも男人{だんせい}の手当てを優先するべきだと譲りませんでしたし、父にもそれは理解できました。父は牧師になる前は醫生{いしゃ}でしたから。そしてローラは」

歌星{かしゅ}のローラ張{チャン}こと張倩琳の生い立ちを、マーク牧師は初めて他人に漏らした。

「ローラは、この教会の孤児院で、 ―― 私の父の許で育った子どもだったのです」

ローラの実の両親は裕福な商人だったという。

「私は勿論、父も、彼らの生前を知っていたわけではないのですが」とマーク牧師はつけくわえた。なぜなら、ローラは両親が亡くなったため、この教会の孤児院にひきとられたからであった。

「ローラの両親が亡くなったとき、まだ乳飲み子だったローラは、親類にもひきとってもらえず、ここへ来ました」

「じゃあ、ローラの父親、・・・・・・と言われていた、張啓偉{チャン・カイワイ}は・・・・・・」

「張氏の夫人がボランティアでこちらへ来てくれていたときに、ローラを見て気に入り、養女にしたのです。ローラが二歳になったころでした」

牧師もまだ十歳の頃だったが、ローラが養女に貰われていった日のことはよく覚えていると言った。

「ここで洗いざらしの、年上の子からのお下がりを着ていたローラではなく、夫人が用意した上等の服を着て、張氏のリムジンに乗せられていく姿を見たときは、妹のようになついていた子だっただけに、心からうれしいと思いました。ここにいるよりも、ずっとずっと幸せになれるんだ、と思ったものです」

マーク牧師のテーブルの上で組んだ手が、微かに震えていた。

「明星{タレント}になり、ボランティアとしてもよくこの教会に顔を出してくれていましたし、寄付の面でも随分と力になってくれました。でも、そんなことより何より、元気で、幸せで暮らしていてくれるということが、私たちにとっては一番うれしいことだったのです」

後に自殺することになるローラの運命を思えば、悲しみも込み上げてくるだろう。牧師の声音は、涙の色を帯びていた。

「あの日、ローラはここへ来たんですね?」

火仔の言葉に頷いて、牧師は再び話し始めた。

「あの日 ―― 夜更のことです。ローラは男人{だんせい}を連れてここへ来ました。どちらも怪我を負っていました。男人も、ローラも」

そうでしょう? と言う代わりに、マーク牧師は阿Bを見た。阿Bもそれに頷いた。

ローラは、事の経緯を説明している時間はないと言い、男人の体から早く銃弾を取り出して、どこか醫院{びょういん}に連れて行って欲しいということを頼んだという。

「とにかく、男人の ―― あなたの身體から、急いで銃弾を取り出すようローラは言いました。それから・・・・・・」

牧師は物問いたげに阿Bを見て、そこで言葉を切った。阿Bもまた、牧師が次に何と口にするのかと、息を詰めて待った。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

そこへ、火仔がコーヒーを入れて戻ってきた。

コーヒーカップをテーブルに置いた火仔が座るのを待って、牧師は言葉を続けた。

「とにかく早く銃弾を取り出してほしい、それだけを我o地{わたしたち}に頼むと、それから、ローラは自分の怪我の手当ても受けずに出て行ったのです。それがローラに会った最後でした」

その後、ローラは自殺したのである。翌日以降、暫くは多くの報紙を賑わせることになった事件である。自分の育ての父、張啓偉が?社会{やくざ}と麻薬の取引をしていたことに責任を感じたのではないかと言われた。

マーク牧師は静かに瞑目し、火仔は黙って珈琲の黒い面{おもて}を見つめたままだった。

阿Bはいたたまれなくなり、顔を逸らせる。すでに完治しているはずの下腹の古い傷ふたつが、ローラの面影と共に思い出される痛みに疼く気がして。

「それで、 ―― 我{おれ}の傷口{きず}が、なんの関係があるんでしょうか」

立ち上る珈琲の香りが寂黙を埋めてしまう前に、阿Bは口を開いた。

「確かに、あの夜、我{おれ}はローラ張と、ある事件の現場で会いました。 ―― それから」

躊躇が全くないかと言われれば嘘になる。しかし、マーク牧師がローラの出生を明かしたのと同じように、自分もまた、彼の前ではこのことを黙っているわけにはいかないのだろう。

「ローラが撃たれたときに、我は傍にいて、我はローラを庇って怪我を負いました。それは、確かに事実です」

庇う瞬間に計算ができていたわけではない。咄嗟の思いでローラの身を庇い、ローラをかすめた銃弾は自分の体に吸い込まれた。その一瞬に阿Bは、自分の腹の中に爆弾を抱え込んでいたことを思い出したのだった。

「―― あなたと、あなたのお父さんが助けてくださったことを、我{おれ}は今日初めて知りました。ありがとうございます」

阿Bは素直に心から感謝した。

銃弾を受けたあと、ローラが自分を抱えるようにして車に乗せ、どこかへ運んでくれたことはおぼろげながら覚えていた。そして、そのあと目覚めたのは、醫院{びょういん}のベッドの上だった。

阿Bがそう話すと、今度はマーク牧師のほうが立ち上がり、別の房{へや}から封筒を二通、手にして戻ってきた。

「父はローラに言われたとおりにあなたの体から取り出すべきものを取り出し、傷の処置をしました。私はその手術の助手を務めました。父は昨年亡くなりました。だからあのときの男人{だんせい}の傷と顔を知っているのは、今は私ひとりなのです」

開封していいか、という確認なのだろう、牧師は包袋を火仔に見せ、火仔が首を縦に振り、牧師は中身を取り出して阿Bに手渡した。

「住宅{やしき}の、権利書・・・・・・? 譲渡・・・?」

譲渡される人物の欄は空欄のままである。

「ローラが亡くなった後のことですが、弁護士がこれを持ってきました。いつの日か、ローラがここへ運んで父と私が手当てをした男人がみつかったら、この書類を渡して欲しい、と」。ローラは、自分を助けてくれた男人に、お礼としてあの住宅を遺そうとしたのです」

つまり、阿Bに。

阿Bは、しばらく書類の文字をランダムにひとつずつ眼で拾っては捨てていたが、やがて矛盾に気が付いた。

「待ってくれ。だが、今朝、我{おれ}は、あの住宅{やしき}がアイリーンのものだったという書類を・・・・・・」

火仔が頷いた。

「あの住宅{いえ}は、もとはローラの生家だった」

火仔の言葉に続けて、牧師が話した。

「ほとんど赤ん坊の頃に暮らしていたというだけなので、ローラ自身にあの住宅の記憶はありません。しかし、成長したローラは、自分の本当の両親のことを調べ、あの住宅が自分の生まれた家だということも知り、そして手に入れたのです。自分で稼いだお金で、自分の力で。しかし彼女は張啓偉やその夫人にもそのことを隠していました。養父母に、自分が本当の両親を探していることや、自分が生まれ、赤ん坊の頃だけとはいえ実の両親と暮らした住宅{いえ}を自分が買ったなんてことを、自分を慈しんで育ててくれた張夫妻には知らせたくなかった。養父である張啓偉が麻薬の売買に手を染めていたことが許せなかったのも、ローラがそれだけ養父の張を愛していた証拠だったんでしょう」

香港でも名の知れた実業家だった張啓偉は、美食{グルメ}実業家などとしてマスコミにもよく露出していた。明星{タレント}である娘を自慢の娘として、雑誌などにもよく同じ誌面に納まっていたものだ。

「だが、あの住宅{やしき}は」

アイリーンと阿Bの媽{ははおや}が、火仔の父親の陳輝大に引き取られて、暮らしていた屋企{いえ}だ。その屋企に、当の陳輝大は生活をすることなく、別の愛人を作って他所で暮らしていたが、火仔もまた、あの住宅{やしき}で暮らしていた。まるでアイリーンと阿Bの媽の庇護者であるように。

ローラ名義の、つまり、火仔でも火仔の陳輝大の名義でもない住宅だなんて思いもしなかった話だった。

そして火仔は、阿Bにとってさらに思いもしなかった話を持ち出したのだった。

「陳輝大が、おまえの媽とアイリーンを引き取ると言い出したとき」

自分の実の父親を、「陳輝大」と、品物の名前を読み上げるように言う。

火仔の父親への確執は、父親が死んだ今もなお消えていない。

「輝大はすでに阿蓮と関係があった。まだ愛人として公認ではなかったが、片腕以上の存在として周囲の一部が見ていたことは確かだ」

訝しげに眉を寄せた阿Bを見て、知らなかったのか、と火仔の目がすまなさそうに上目遣いに阿Bを見る。阿Bは深くためいきをつきかけて、かろうじて小さなため息だけを吐き出して首を振った。媽も陳輝大も死んでしまった今となっては、もうどうでもいいことだ。それは火仔のせいでは、勿論ない。

「おまえの媽が、輝大に言っていたのを、偶然聞いたんだ。自分と娘はただのお荷物でしかないから、ほかに情人がいるなら、自分たちは元の生活に戻る、と。」

「媽が・・・・・・?」

「そうだ。輝大はアイリーンとおまえの媽に、太古城{タイクーシン}の洋楼{マンション}に住むよう言った。だが、そこにはすでに阿蓮が出入りしていたから」

「媽{はは}は拒んだわけか・・・・・・」

阿Bは、媽のそんな事情は知らなかった。まだ一歳のアイリーンが発作を起こしたとき、病院にかけつけてきた陳輝大はとても誠実に思えたし、そのまま媽とアイリーンはすんなりと陳輝大の元へ行ったものだとばかり思っていた。だからこそ、その後、陳輝大が自分の媽ではない別の女と結婚したときに、媽と妹{アイリーン}を自分の元へ連れ戻そうとまで思ったのだ。

「輝大にとって別の住宅を用意することは容易いことだったんだろうが、さすがに輝大もそのときは意地を張ったようだな」

「じゃあ、あのピークの住宅に住んだのは ―― 」

「あのとき、我にも住宅を用意するだけの自由になる金はなかったから、あの住宅を貸してもらうようローラに頼んだんだ。」

当時のローラは、自分の生家を買ってはみたものの、いつかは養父の張啓偉の耳にも入るだろう、と、もてあましてもいたのだという。傳媒{メディア}がローラがピークに住宅を買ったと嗅ぎつけたなら、きっと騒ぎになるだろう、と心配していたところに、火仔が住宅を探しているのにめぐり合った。火仔はちょうどTVBを辞め、大学に通うことになっており、元TVBの藝員{はいゆう}の火仔が、人気が昇り調子のさなかに引退し、香港大学に通いながら老豆{父}・陳輝大会社の仕事を手伝うこと、ピークに引越しをするということだけが注目され、上手い具合にその住宅{やしき}の本来の持ち主を暴くまでには至らなかった。

阿Bは、凝と火仔を見つめた。

自分とは違い、恵まれた育ちだと思い、反発を感じたこともあった。陳輝大が媽でなく別の女と結婚したときに、媽と妹を連れ戻そうとして断られたときは憎らしいとも思った。だが、媽が阿Bには話さなかった事情が存在したことを知ったのと同時に、その事情から媽と妹のアイリーンを庇護してくれていたのがほかならぬ火仔だったことも、今になってやっと悟った。

ため息を吐く。ともすれば自嘲までが口をついて出ようとするのを、噛み締める。と、火仔がその口を開かせまいと制するかのように言った.。

「おまえの媽{はは}は、別に我{わたし}に頼ったわけじゃない。あのとき、ローラの家を借りられなかったとしても、彼女は多分、陳輝大の元から出て行くだけだったと思う」

そうだろうか。いや、多分、火仔の言うとおりだろう。媽はアイリーンを生んでからは、いや、正確に言えば、恐らく陳輝大の情人となってから後は、阿Bのことをすら、頼ったことなどなかった。それは頼り甲斐がなかったためか、頼ってはならないものと思っていたのか。いずれにしても、媽は何をするにも自分で決めたのだ。阿Bの父親が自分を置いて消えた後、鶏{ガイ}(*13)として糊口をしのぎながら自分を育てたことも、陳輝大に何も言わずにアイリーンを生んだことも、アイリーンの病気がわかって陳輝大に連絡を取ることにしたことも。

「アイリーンを生かしてやるために、一番良いと思われる方法を採ったまでだったと思う」

自分のためでなく病身の娘のために、自分以外に愛人がいる男の許に留まることを選んだ ―― 。

あの媽{はは}なら有り得るだろう。

「彼女が計算高かったわけじゃない。あの女{ひと}は、自分の人生は娘の命を守ることだと選んだんだ」

火仔の言葉に、阿Bは感謝の気持ちをこめて頷いた。

「だが・・・・・・、住宅{やしき}アイリーンの名義になったのは、いつのことなんだ・・・・・・?」

ローラが自殺したのは、阿Bが怪我を負った翌日のことだったはずだ。

ローラが死亡すれば、彼女の名義だった住宅はローラの遺産として彼女の法定相続人のものになるはずだ。だが現実には、ローラの持ち物だったあの住宅は、アイリーンの名義となり、アイリーンが死んで、今、阿Bのものになることになっている。

マーク牧師は阿Bの途惑いを見、それから確認するかのように火仔をも見た。火仔は屈託した様子を隠してはいなかったが、何かを口にすることには躊躇いがあるようで、マーク牧師に全てを委ねるかのように、マーク牧師から視線を逸らした。

牧師はかすかにため息を吐いて、自分に託された役目を果たすつもりで口を開いた。

「ローラが自殺を図る前に、火仔の元へ行ったのです。そして、住宅を買い取ってくれるよう頼んだ。そうでしたね?」

火仔が買い取った住宅は、そのときアイリーンの名義で登記され、それがアイリーンの遺言では阿Bに遺された。

「けれど、火仔としては、ローラの遺言も果たさなくてはなりません」

牧師のその言葉を聞いて、阿Bは思わずカッとなった。

手にしていた書類を火仔の頬にたたきつける。

「・・・・・・我から買い戻した住宅を、また我にくれるというのか・・・・・・?」

声は、心と裏腹に冷静だった。だが、阿Bの怒りは、水の中に火の玉があるようなものだった。表情には嘲笑すら浮かんでいたかもしれない。何に対しての怒りかと問われれば、正確に答えることはできなかっただろうが、朝、自分で手渡さずにジェイムズに書類を持ってこさせた火仔の気を置いた振る舞いと重なった。

床に散らばった、ローラの遺言に添って作られた書類を拾い上げ、マーク牧師と火仔の前のテーブルに激しい音を立てて置くと、阿Bはその場を離れ窗{まど}の傍に立った。

僅かながらに窗は鏡となって、阿Bの背後、マーク牧師と火仔の姿を映していた。

牧師が言葉をかけるのに、何度か首を横に振っていた火仔も、最後には縦に振り、やがてテーブルを離れて、阿Bの後ろに少し距離をとって立った。鏡の像を見つめていることに火仔も気付いているかもしれないが、阿Bは振り向こうとはしなかった。

阿B。

そう呼びかけられたと思った。

いや、多分、呼びかけたかったのだろう、火仔のほうは。

映し鏡になった玻璃窗{がらすまど}に、阿Bの背中を見つめた火仔の姿があった。

火仔は、牧師に肩を優しく叩かれ、やがて、阿Bを置いて、部屋を出て行った。

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

マーク牧師が、黙って新しい茶を入れる姿が窗の鏡の中に見える。ゆったりと、焦ることなど知らぬかのように茶を注ぎ、そして、阿Bのほうを伺い、静かな声で、しかし断ることを許さない断定の声で、牧師は阿Bを呼んだ。

「こちらへいらっしゃい」

阿Bもまた、拒むことなど知らないように、素直に言葉に従った。

「火仔から、大体のご事情は聞いています」

牧師は、とても牧師らしい声でそう話し始めた。

「おかあさまのことも、妹さんのことも。―― 妹さんは、本当に残念でした」

決り文句の言葉が社交辞令かそうでないかは、多分、職業ではなく、その人が祈りのなんたるかを知っているかによるのだと阿Bは思った。

「火仔は、此処へはよく・・・・・・?」

「彼の母上が信者でしたので、ごく小さい頃からの彼を知っています」

「じゃあ、もしかして、火仔とローラは子どものころから?」

「いえ。それは。ローラは2才のころにはもう張家に引き取られていますし、火仔が母上に連れられてこちらへ来るようになりましたのは、そのあとからでした。ただ、」

「ただ?」

「ええ、ふたりとも中学生のころから、ここでボランティアをしていて顔見知りではありましたよ」

「では、あのふたりはTVBに入る前からの知り合い?」

「係{はい}」

マーク牧師の返事に、少し考える。

「あの‥‥‥、火仔とローラはもしかして ―― ?」

微塵も屈託した様子を見せず、マーク牧師は微笑んで答えた。

「さあ。私は火仔でもローラでもありませんので、その質問には答えられませんね」

本人ではないから、答えを知らないという意味だろうか、それとも、答えは知っているけど言えないということだろうか。

藝能メディアでふたりの仲が話題に上ったことはなかった。それに、そもそも火仔は ―― 。

その先を考えかけて、阿Bは牧師の視線に気づいてはっとする。

「彼らはお互いに信頼しあっていた。それだけは私にもわかります。あなたと火仔がそうであるように」

まっすぐな視線に、思わずこちらから目を逸らしてしまう。

「我{おれ}と、火仔が、ですか?」

「はい」

躊躇もなく応える牧師に、阿Bが思わず顔を上げると、やはりそこには揺らがぬ自信に満ちた顔があった。

「そんなふうに思ったことはなかった・・・・・・です」

阿Bの答えの中に途惑いと躊躇いがあることに、牧師は気づいているのだろう、優しく説き始めた。

「あなた方ふたりは、かつては反目しあっていた。そうではないですか?」

「・・・・・・それも、火仔から?」

「いいえ。彼から聞いていたのは、彼の家庭の事情だけです。彼の母上が亡くなり、母親の違う妹が彼のもとにやってきたこと。その妹{こ}の母親も一緒に住むことになったこと、・・・・・・彼の父親である陳輝大のことは、彼の口から聞かずとも多くのメディアが報道していましたから」

愛人報道も、結婚報道も、メディアはつぶさに、そして巧みに、あるいは明らかに、嘘と誇張を取り混ぜて報道してきた。

「彼にとって、父親は家族という意味においてはすでに別世界の人であって、火仔の家族はアイリーン ―― あなたの妹でもあり、火仔の妹でもあるアイリーンと、一緒に暮らすことになったあなたの母上だったと思います。彼らの間には確かな絆があったのです。発端は、いわゆる家族の愛情ではなかったにしても」

阿Bは無言でいるしかなかった。それは自分の全く知らない事柄でしかなかったからだ。

「あなたは、母上と妹を火仔に奪われたかのように感じていたことでしょう。ですから、ここへきて、火仔がいかにあなたの母上とアイリーンを大切に思っていたかを他人の私の口から聞いたりすれば、あなたの過去の孤独が今になってあなたを苦しめるかもしれない」

過去の孤独。

陳輝大が媽以外の女性と結婚すると知った日に、あのピークの住宅を訪ねたときから、その孤独は自分につきまとっていた。媽{はは}と妹妹{いもうと}を火仔に奪われてしまったかのような孤独。

そして、その孤独を、過去のものだと心の奥底に塗りこめようとしている而家{いま}の自分。

「ですから、あなたは、あくまで反目し合う形でしか火仔と対峙してこれなかった」

牧師の言葉に、思わず阿Bは目を上げて牧師を見た。

鋭く阿Bの心を言い当てる牧師は、言葉とは裏腹に変らぬ優しい笑顔をたたえていた。

「アイリーンがここで、私や私の妻、父や母にいろいろなことを話すのを黙って聞いていたときの火仔は、どんなに優しい表情をしていたことか」

「アイリーンも、ここへ?」

「ええ。体調の良いときに。信者ではありませんでしたが、我{わたくし}たちや、ここの子どもたちの良いお友達になってくださいました。そして、アイリーンがあなたのことを愛情こめて話すときも、火仔は黙って、優しい表情{かお}で話を聞いていました」

阿Bの脳裏に、アイリーンの顔が思い出される。

阿Bが時折ピークの住宅を訪ねていったとき、アイリーンが火仔のことを話すその表情。

自分はそれをどう思いながら聞いていたのだったか。アイリーンが話す火仔の思いやりの数々を、どんなにか自分は嬉しく聞いていたことか。

「あなた方は、アイリーンを通して、間違いなく信頼し合えるだけの愛情を交わしていたのだと、私には思えます」

「我{おれ}たちの ―― 信頼だ、と?」

信頼と愛情という言葉のうち、「信頼」のほうを選んだ阿Bの意図を知ってか知らずか、牧師は頬を緩めて簡潔な返事をした。

「係定o拉{ええ}」

だが、マーク牧師の断言のような返事にも、阿Bの心は、まだどうしても抗おうとしていた。

「その信頼が本当なら、どうして、住宅を買い戻してまで譲るだなんて水汪汪{みずくさい}ことを言わなくてはならないんですか」

「彼にしてみれば、あなたが妹妹{いもうと}から遺された遺産を、易々と受け取るとは思えなかったのでしょう」

違いますか、と牧師の問う言葉に答えられなかったこと自体が、阿Bの答えだった。

その通りかもしれない。

「彼は、あの住宅を、あなたか、でなければ彼の屋企{いえ}にしておきたかったのだと思います」

「我か、火仔の、屋企」

一言ずつ区切って言う阿Bに、牧師はゆっくり深く頷いた。

「先ほども申し上げましたように、私は火仔ではないので私の推量をお話しするしているのですが」

牧師はそう断ってから続けた。

「あなたがアイリーンからの遺産を受け取ることを拒んでも、ローラからの遺言を拒んだとしても、あの住宅が火仔のものであれば、あなたにとってもあそこが屋企になるから、ではないでしょうか」

そして、逆に、あの住宅をあなたが受け取ることになれば、火仔もまた、自分の屋企を失わずに済むことになると彼は考えていたのではないでしょうか、と牧師は言った。

「火仔は、そんなにしてまで、どうして我をあの住宅に縛り付けたいんだ?」

痛い気持ちが抑えきれず、そんな言葉になってつい問い掛けてしまう。屋企という言葉で自分が思い出せるものは、あの九龍の汚く暗い、狭い部屋で、媽と暮らした日々ばかりなのだ。そこに自分を縛り付けていたものは、まだ一人で生きていくことができない子供であるというどうしようもない現実だった。だからこそ、媽に陳輝大という男ができたとき、自分はどうあってもひとりで生きていくしかない現実に直面させられ、引いてはそれが、子供であるという柵から解き放たれたということにもなったのだ。

「屋企は、人を縛るものでしょうか」

牧師が、まさに阿Bの思いに切り込む問いを投げかけた。

阿Bがどう答えて良いかわからず、もどかしさを持て余して言葉にならない言葉を探しているとき、牧師は今度は、自分自身が言った問いに、さらに相反しかねない意味の問いを口にした。

「人を縛るというのはそんなにもいけないことでしょうか。 ―― いえ。縛られるということは、そんなにも苦しいことなのですか」

阿Bは、次の牧師の言葉を待った。マーク牧師は必ず阿Bが欲しがっている答えを持っていると思った。

牧師は、小さく息を吐いて、また頬を緩めてこう言った。

「誰かを縛るということは、・・・・・・誰かに縛られるということは、少なくとも、孤独ではないという証にはなりませんか。屋企というのは、そういう場所なのではないですか」

マーク牧師の問いは、そのまま阿Bの屈託を解く答えとなっていた。阿Bの目を見て頷く牧師は、阿Bの気持ちに肯定の意志を添えてくれる。

「阿B」

マーク牧師が少しばかり表情を引き締めて、阿Bの名を呼んだ。

「ひとつだけ、我{わたくし}はあなたに確かめておきたいことがあります」

阿Bの下腹部の傷口が、痛みを思い出した。

マーク牧師は、もうひとつ手元に持っていた小さな封筒を、阿Bに差し出した。封筒は、見て取れる程に膨らみがあった。

「ローラが、一刻も早くあなたの傷口を開くよう我と父に言った理由は、これですね」

下腹部が、まるで撃たれた直後のように熱く激しく痛んだ。

阿Bは自分の下腹部を庇うように無意識のうちにわずかに上半身を折り曲げる。いや、この痛みは記憶の中の、しかも仮想の痛みだったはずだ。

マーク牧師は、そんな阿Bを黙って待ってていてくれた。

「あのとき、あなたに銃弾がもう少しずれて当たっていたなら、恐らくこの袋は破れていたと思います」

牧師の言葉に、阿Bも頷く。

「もし、あなたのおなかの中でこの袋が破れていたなら・・・・・・」

牧師の言葉を最後まで聞かず、阿Bは、震える指で、封筒から白い粉で膨らんだビニール袋を取り出した。

あのとき、目を覚ました醫院{びょういん}では、醫生{いしゃ}も護士{かんごし}も、何も言わなかった。抜糸の折に、傷が並んで二つあることを知り、そのうちの一つは、古い傷をそっくりなぞって切り開かれ、また、縫い合わされた傷であることを阿Bだけは知っていた。

「火仔はこのことを知っていますか」

阿Bは牧師に訊ねた。

マーク牧師は変らず優しい眼差しで否定し、阿Bはまっすぐに牧師の目を見て言った。

「我{おれ}が、自分で話します」

牧師は莞爾と微笑んで、ほっとした表情で喜んだ。

「係{はい}」

では、と、牧師が手を差し出した。

「その粉は返してください」

麻薬を返せという牧師に、阿Bが訝しげな表情を見せると、牧師はさっさと粉の袋を取り上げ、ビニールを破って粉を少し掌に乗せてみせた。

「これは小麦粉です。貧乏教会にはこれだけでも大切ですから」

片目を瞑って、粉をつけた指をぺろりと舐めてみせた。

「あなたのおなかから取り出したものは、そのまま、あの夜、厠所{トイレ}に流しました。ですから父も我{わたし}も、あれが何であったかは知りません」

「・・・・・・は」

阿Bの肚の底から、明るい笑いがこぼれ出した

 

◇◆◆◇◆◆◇

 

「これを、あなたに」

マーク牧師に暇を告げて出ていこうとしたとき、背後から呼び止められて渡されたのは、一本のカセットテープだった。

「ローラの弁護士が、先ほどの書類と一緒に持ってきたものです。ローラから預かった、と ―― 。誰に、とも言っていなかったそうなのですが、誰かに渡して欲しかったものだと思います」

牧師の目を見つめていた阿Bは、言った。

「・・・・・・火仔に?」

言葉でなく、笑みで返答した牧師は、阿Bにテープを託した。

阿Bが表へ出ると、火仔は運転席で、凝と前方を見つめていた。視線の先には墓地が広がっている。ローラもまた、そこに眠っているのだと、先ほどマーク牧師から聞いた。

火仔が車の中にいるということは、どうやらスペアキーを持っていたのだろう。助手席のドアを開けて、阿Bは車に乗り込んだ。後部座席にあった花は、無くなっていた。

阿Bは今ほど、マーク牧師から受け取ってきたカセットテープを、黙ってカーステレオに押し込んだ。

かすかなピアノを伴って、張りのある声が流れる。弾き語りだろうか。少しセンチメンタルなスローバラードは、曠野にひとりきりで立って露をその裡に含んでなお、花開こうとする薔薇のように凛としていた。

「・・・・・・ローラ、か?」

阿Bは、火仔にそう訊いた。

牧師からテープをもらったときに、ローラから預かった、と聞いていたが、にわかには信じがたいほど、阿Bが知るローラの歌声とは違っていた。香港で偶像{アイドル}としてもてはやされ、流行を生み出す闊達な女主角{しゅえんじょゆう}であり歌星{かしゅ}であったローラ・張。電視{てれび}に電影{えいが}に出て、いつも明るい陽の光を浴浴びていたような彼女とは思えない、しっとりと影に寄り添う月の光そのもののような歌声だった。

「おまえに遺した歌だ」

しばらく歌声を聞いていた阿Bが、ぽつりと言った。

「我に?」

問い返す火仔に、阿Bは「聞けばわかるだろう」と言いたい気にもなったが、それを言ったところで、どうにもなるものではない。ローラは既にこの世の人ではなく、また、マーク牧師は、ローラはこのテープを誰に残したものでもないと言った。本当にローラがこれを火仔に遺したかったのか、また、火仔がそれを信じるかどうかは火仔が決めるしかない。

香港の静かな丘に、白い月が昇っていた。下を見れば、喧騒の街があるというのに、ひとつで、僅かに小高いこの丘の上がまるで天上であるかのように、荘厳な寂黙を持っていた。

阿Bは、少しだけボリュームを絞ったが、そのほうが、一層、歌からのメッセージが心に聴こえてくる気がした。

「これは、歌星のローラ・張の歌じゃなく」

火仔が呟いた。

それまで凝と助手席の窗から外を見ていた阿Bは、火仔の方を見た。ハンドルに凭れていた火仔が、助手席の阿Bを振り返るように見て言った。

「ただこのメッセージを遺したかったのが、たまたま歌い手だったんだ」

車の中に流れる歌声から、思いが溢れてくる。誰に届けとも言わず、誰に届くかもわからなくとも、ひたすらに歌う。それは、誰が歌っているかではなく、誰に向けて歌っているかでもなく、誰が受け取るか、受け取る者が、自分でどう受け取るかを決めればいいのだ。

「おまえは歌星{かしゅ}じゃないから、おまえの方法で ―― 」

顎に伸ばされた火仔の手を軽く払う代わりに、阿Bは自分から顔を近づけて少しばかり意地悪く笑った。

「ここじゃ、―― 好o吾好o牙{まずい}?」

火仔は言葉で返事する代わりに、車の窗を閉めた。教会が視界から消える。フロントガラスの奥、遠く高くに見える円い白い月だけが、ふたりの影が重なるのを見ていた。

「返去{かえり}は、運転を代われ」

火仔はそう言って、自分が差し込んでいたスペアキーを引き抜いた。

「キーは持っているだろう?」

好o牙{OK}、と短く言って、阿Bは一旦、火仔から離れた。

「腹が減ったから、早く帰ろう。 ―― 屋企{うち}へ」

驚いたように目を見張った火仔に、もう一度、阿Bが顔を寄せた。長いような短いメッセージを伝えるために。

「―― 帰ったら、出前一丁作ってやる」

「・・・・・・救命o牙ぁ{やめてくれよ}。そりゃ、火仔{おまえ}の好物だろ」

余計な口数があるのは、本当の気持ちを隠すときの癖だと、何時の間にか理解していた。

 

 了

 

 

(*1)中国語を漢字で書くときに、どうしても表示できない漢字は、同じ読みをする別の漢字(意味は全く違っても)で記することがあります。この字は本当は、王へん。

(*2)火仔の本名

(*3)阿Bの本名

(*4)ピーク・・・ビクトリア・ピーク。(地名)

(*5)TVB所属・・・TVBは無綫電視という地上波テレビ局。テレビ局に俳優養成所が付属している。

(*6)翡翠台・・・TVBの広東語放送

(*7)香港商報・・・香港の日刊経済紙

(*8)「没呀」でもなく、「没o厄」でもなく、「没」かよ。・・・呀やo厄と語尾につけることで、「なんでもないよ」のように語気を表すことができる。「没」だけだと、いかにも言い切り、言いっぱなしの喧嘩腰。

(*9) 明報、~ついでに娯民日報まで・・・どれも香港の新聞。娯民日報は芸能情報で、追っかけのための情報まで掲載。

(*10)「o吾」は広東語のnotの意味。英語と広東語をチャンポンにする造語。

(*11)黄色の1本線が引いてある場所は駐車禁止。香港人は運転マナーは悪いが、駐禁は結構守る。

(*12)TVB・・・香港の2大テレビ局のうちのひとつ。ここの広東語放送が翡翠台チャンネル。(→*1)

(*13)鶏{ガイ}・・・娼婦

(*14)出前一丁・・・香港では実にポピュラーな日本のインスタント食品

CONTENTS

Copyright © A-Y All Rights Reserved.