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不思議絵の回廊

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不思議絵の回廊

少し湿った風が、坂の上にある墓園を吹き抜けると、汗ばんだ絽の羽織の背中が一息つくようで、気持ちが良かった。まだ梅雨っ気を含んだ空気は、早朝であるにも関わらず、今日はすでに温度が上がり始めている。

「皆、私をおいて逝くのだな」

暑気などいざ知らず、涼しげな顔をして立つ白い板塔婆を見ていると、つい愚痴を言いたくなった。

六○も目前となったとはいえ、私は今迄の生涯にはもう十分、多くの人を見送る場面に立ち会ってきたと思う。

<伊堂多津朗>という俗名と没年だけが記してあるささやかな墓標の足元に、火を付けた線香と花を供えて手を合わせた。彼が亡くなってから三五日目の、私なりの法要のつもりで参ったのだった。

「令次さん?」

名を呼ばれて振り向くと、たくましい体躯の青年が立っていた。多津朗と同じ陶匠の下で修行した、多津朗の弟弟子に当る青年だ。着物から土と釉の匂いが仄かに匂うのが、私に故人を忍ばせる。

「尾末くん。君も来てくれたのか」

片手に余る程抱えた薔薇を墓前に置き、照れ臭げに言い訳のように尾末青年は云った。

「伊堂さんの庭に寄って来たんです」

伊堂の家の庭は、今、薔薇が満開だと尾末は報告した。それは私に云う形をとりつつ、多津朗に云ってやったのかも知れない。暫く私たちは、それぞれが手を合わせ、胸の裡で個人との会話を交わした。

「令次さんと伊堂さんは、友達、というには随分年齢が離れていますよね。前から不思議に思っていたんです。お二人は、どういう・・・・・・?」

尾末青年が、私に尋ねた。

「私と多津朗か。そう言えば、一七歳の開きがあるな」

私の中で、伊堂多津朗はいつまでも少年の日の面影を纏っていた。胸を患って先日亡くなった時にはもう四一になっていたが、寂しくてか細い影、風に連れていかれそうに細いフォルムと、それとは逆に強{したた}かで強刃な光をもった瞳は、いつまでも少年の日のままだった。それは、多津朗の心が、少年の日に傷ついたままであることを私が知っていたせいもあるかもしれない。

墓標の多津朗の名を見つめながら、私はもう一つの、それと似た寂しい姿の墓標を思い出しつつあった。

 

 

 

私と多津朗が知り合うには、まず間に仲森というのがいた。仲森と私は中学が同じで、始終一緒にというような交際ではなかったが、何となく気が合っており、卒業した後もよく会うようになった。仲森は、生家の家柄も好く、成績も群を抜いて優秀であったけれど、素行は決して良いほうではなかった。人は悪くはなかったが、愛想はかなり悪い方で、どこか他人を正面から相手にはしない風があった。

私はというと、それなりに成績も良いほうではあったし、品行も悪くはない学生で通ってはいたけれど、自分自身の家庭の事情の複雑さが、私を周囲の同年代の少年達よりも早く大人にしたのか、私は、私の周囲に集まってきてくれる仲間たちからも離れて歩きたがる傾向にあった。

そんな仲森と私は、特に何を語らうでもなかったが、周囲を拒みがちだった私達が拒まなかった他人は、互いの存在だけだったかもしれない。

少なくとも、私は仲森といると楽に息ができる気がして気にいっていた。

卒業後、私は高校に進み、仲森は芸術の道を見つけた。

陶芸をやると決めたことを私に告げたときの仲森は、まるで宝物を見つけ出した子供のようだった。

『土は、温かい』

そう言って少年のように純粋に笑った表情は、以来、後にも先にも見たことがない。

仲森はかなり高名な陶芸家のもとへ弟子入りしたのだが、彼の才能はその道において彼を輝かしくするものだったにも係わらず、彼の性分は徒弟制の中で順応できるものではなかったらしい。幸いにも彼の師匠であった陶芸家は、彼の才能を高く評価してくれていたから、彼が多少兄弟子たちと諍いを起こしても、放っておくだけの器量を持った人だった。しかし、やがて仲森自身が、しばしば起きる弟子同士の諍いにうんざりして、自分の窯を得て独立した暁には、やはり師匠の方こそ一息ついたであろう。

思えば、そんな仲森だったから、彼が伊堂多津朗と出合ったとき、彼は多津朗の中に自分自身の孤独の影を見いだしたのではなかったか。

仲森を送った数年後に、多津朗までも見送って、今さらながらに、ふと二人の似通った横顔に思い当った私であった。

 

 

 

「結局、赤ん坊はどちらに貰ってもらうことにしたんだ?長田{おさだ}か、遊佐か?」

その時、縁側でぼんやりとしていた私は、突然尋ねられて驚いた。仲森はいつも、勝手知ったるという調子に家にあがりこんでくる。私はその頃すでに母を亡くし、ひとり住まいをしていたから、気まぐれに訪れてくる気侭な友も、それなりに歓迎していたものだった。

「うん。長田に頼むことにしたよ」

仲森は私の応えを聞きながら、縁側に置いてある椅子に腰を下ろして袴に包んだ長い足を組むと、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。

「しかし、遊佐の方が金は持っているぞ」

「そうだな・・・・・・しかし」

ずけずけと物を言う仲森に苦笑して見せると、仲森は怪訝そうに先を求めた。

「何だ」

「長田の細君が、似ているんだ」

「赤ん坊にか?」

「にも、似ているかも知れない。私が思うに、赤ん坊の母親が、長田の細君に似ている」

ふうん、と気のない返事を返して、仲森は燐寸を擦った。

「いずれにせよ、今回のことでは、いろいろと世話をかけたな。仲森いなけりゃ、俺は赤ん坊を抱えて途方に暮れていた」

「おまえが育てりゃ、それで済むこった。甥だろう? おまえの弟がこさえた子だから」

できるものなら、そうしていたのだが、と辛い気持ちを噛み締め乍らも、里親捜しに手間暇を費やしてくれた仲森の厚意は存分に受けていたから、私は曖昧に苦笑した程度で、何も言い返しはしなかった。

一二歳違いの私の腹違いの弟の太治は、高校に入ったばかりだった。まだ学業半ばの若い彼が恋をしたところで、幾ら真剣であったとしても、その若さでは家の許しが得られるわけはなかった。無残にも愛人との仲を引き裂かれたことについては、太治本人からも相談を受け、慰めもした。だが、それ以後も二人の仲が続いていたことや、さらには太治の愛人が子供を宿してしまったことなどは寝耳に水の話であった。太治が若ければ、その愛人はさらにまだ若い少女の域を出ていない娘で、我が娘の体の変調に気付いた両親が太治と共に私のところへ来たときは、すでに娘は臨月も間近だった。

弟も、さすがに、腹違いの兄を相手とは言え、そこまでの身の不始末を口にはできなかったのであろう。

遅すぎる相談を受けた私も、もとより、太治と娘の結婚など父に話せる相談ではなく、かといって、生まれようとしている子を殺すことなどは、何より人の良心からできようはずもなく、私にできたことは精々、娘のお産を無事に過ごせるよう計らってやることと、生まれる子供の行く末を心配することであった。娘と娘の母親は出産までよその町の旅館で過ごすことに路を見つけたが、どうにも産まれた後の子の行先には困ってしまった。頼れそうな縁はどこにもなく、考えあぐねて仲森に相談したらば、中学時代の友人夫婦を候補に見つけ出してくれた。長田も遊佐も何年か前に妻をもらってはいたがどちらにもまだ子供はなくて、長田は町医者として、遊佐は実家の商売を継いで、どちらもしっかりした家庭を築き上げていた。

二人の友人のうち、長田を選んだ理由は、手広く商売をする遊佐の家ならばいつか養子を貰った経緯が人の口に上るのを懸念したのと、都合の良いことに長田は間も無く開業のために県外へ引っ越すという事情からだった。

「妙なものだよ。おまえならば、頼みごとをすれば親身になってくれる宛てなどいくらでもあるだろうに。学生のころだっておまえは人気者だったじゃないか、温厚で、大人びていて誰からも頼られていた」

「どうだか」

そんな風に見られていたからこそ、私は余計にだれにも何も弱みを見せられないできたのだ、とは言わなかった。卒業してからも、自分の気の向くままにふらりと立ち寄ってくる仲森は別にして、私は特別同窓生の誰とも連絡をやりとりすることもなかったのだ。

「何にせよ、ありがとう。本当に」

あらたまって、深く頭を下げた。

「よせよ。大家の醜聞とやらに首をつっこんでみたかっただけだ」

悪ぶった照れ隠しの言葉が、仲森らしくて安心できた。

「おまえは」

夕刻の風を遮るために縁の硝子戸を閉めながら、私は言った。

「おまえは結婚しないのか。おまえに細君がいたなら、赤ん坊はおまえに任せられたのに」

新しい煙草を呑もうとしていた仲森は、それを吹き出してむせた。

「冗談じゃない。第一・・・・・・」

テーブルで一旦跳ねて床にまで落ちた煙草を、椅子に座ったまま拾いながらそれを言った友人の表情は、私からは死角で見えなかった。

「第一、好きになれる女がいないからな」

あれはわざと顔を隠して言ったのかもしれない、と私が理解したのは、それから数日後のことだった。

 

 

いい加減、夜も更けていたと憶えている。私は書斎としていた部屋で、その時もそこで家に持ち帰った仕事をしていた。中庭のほうに面した鎧戸が、激しく叩かれたが、勝手に中庭まで入ってきて、しかもこのような時間に迷惑な音を立てるなどは、大方酒を呑んだ仲森が酔いに任せて訪れてきたのだろうと予想して、戸を開けた。

確かにそこには仲森が立っていた。が、腕にはぐったりとした人を抱き抱えていた。

「どうしたんだ」眉を思いきりひそめて尋ねた私が思い浮かべた子細は、酔った仲森が間違いを起こして誰かに怪我でも負わせたのでは、というものだったが、目の前の仲森からは酒の匂いは全く無かった。

「医者を頼んでくれ。それと寝間を。こいつを寝かせる」

仲森は、その腕に人を抱き抱えたまま下駄を脱いで廊下へ上がろうと苦労するので、私は手を貸そうと差しのべたが、仲森はそれまでには見たこともない鋭い目で私を制した。その視線に私は助けようとした手も止められ、仲森は両腕の中の体を揺すり上げて、さっさと廊下を歩いていこうとする。そのときになって初めて私は、仲森が抱えているのが、少年だと知った。

「私の部屋に布団が敷いてある」

私が仲森の背中に向かって言うと、仲森は振り向きもせずに「医者を」とだけ念押しした。

 

——-  ——  ——

 

母の生前、世話になっていたかかりつけの医者に、夜中というのに無理を頼んで来てもらい、医者が少年を手当している間、私は続きの間にぼんやり座っていた。手当が済んで医者が出てくると、私は頭を下げた。

「深夜、申し訳ありませんでした。お茶でも」

「いや、遅いから今日はこれで帰りましょう。明日また、午后にでも診に寄ります」

医者を見送りに玄関についていきながら、それとなく少年の容体を訊いてみた。

「どうですか。あの子の具合は」

どこがどう具合が悪いとも知らずに尋ねた私に、医者は事情に通じていると思ったか、すぐに険しい顔で応えてきた。

「何人の男に乱暴を受けたかは知りませんが、体の傷はなんとか癒えても、精神の方が余程深く傷ついているでしょうな」

医者の言葉から受けた衝撃に、思わず仲森のいる家の奥を振り返ると、仲森は私達のすぐ後についてきており、そこに立っていた。

「夜分、ありがとうございました」

仲森が慇懃に礼を述べると、医者もそれきり無言で帰っていった。

私はといえば、仲森の視線と正面から対しながらも、何を言ってよいのか分からずに黙ったきりだった。

「うちの連中と揉めたらしい」仲森は唇を噛み締めた。

「汚い真似しやがって。彼奴ら」

「仲森・・・・」

訊きたいことは喉から出かかっていた。だが、少年が傷ついているのと同じに、仲森もまた、深く傷ついているように私には見てとれた。

「悪いが、今晩は、このまま俺も泊めてくれないか。

「あ、ああ」

「それと、明日は朝から出かけてくるから。昼の間、多津朗を頼む」

「わかった」

次の朝、目が覚めて、私は、仲森とあの多津朗という少年が寝んでいる隣の部屋をのぞくと、仲森の分の布団だけが部屋の隅に畳まれており、少年は未だ安らかな寝息を立てていた。

幸いにも休日であったから、通いでいつも来てくれている家政婦も断って、私は自分で珈琲を入れるために湯を沸かし始めた。豆がしゃらしゃらと音を立てて砕けていく間も、挽いた豆に掛けた湯が、色と香りを放ちながら滴となって落ちていくのを見詰めながらも、私はずっと、少年の目が覚めた時、どう接すればいいものかを考えて緊張していたのだ。

少年がどんな目に遭ったかは、もう理解していた。

そして、仲森が少年をここに残し、今何をしに何処へ出かけているかも、大体の所の察しはついていた。多分、仲森は窯へ行ったのだ。仲森は、少年を犯したのが同門の、つまり自分の兄弟弟子達だと言った。そして、昨夜の仲森の鋭い気勢は、明らかに怒りだった。

仲森は、あの多津朗という少年のために、窯に出かけたのだ、と私は確信していた。

「あの」

みしり、と勝手の板の間を踏む足音がしたので振り向くと、少年が立っていた。

「目が覚めたのか」

頃合いを見て、声を掛けて起こしてやろうと考えていた私の考えはあっさりと裏切られ、まだ心構えができていないうちに私は少年と話す破目に陥った。

「まだ寝んでいなさい。午后には医者も来る」

私の応えに無言でただ頷いただけで身を返して、勝手を出て行った少年の後を、つい慌てて私は追った。もう少し、何か言葉をかけてやるべきではないか、と思ったのだ。

部屋まで行ってみると、少年は布団には戻らずに、廊下に面した障子を開け放ち、桟にもたれて庭を眺めていた。

「起きていて、大丈夫なのか」

目覚めてすぐに問うてやるべき問いを、私は口にした。どうにも間がぬけた話だが、今はもう話す心構えをしてきただけに、私は少年の顔を見詰めながら、常を装って話しかけた。

「食欲は? 何か食べるなら、・・・・・・たいした物は作ってやれまいが」

少年は軽くかぶりを振って、それを断った。

「仲森さんは?」

果たしてこの少年に、昨日の経緯を思い出させるような、仲森の行き先を告げていいものか、私は悩んだが、それは杞憂だったようだ。

「窯へ出掛けたんだね。仲森さんは」

此方を向いた少年の意外に穏やかな表情に促される様に、私は曖昧に頷いた。

「いいのにね」

ふ、と翳りを持った彼の微笑に、何か自嘲めいたものを感じたのは、気のせいだったろうか。

少年が、口にした言葉にどんな意味を込めて云ったのかは、その時の私には分からなかったが、少年が、見かけよりも大人の精神を持ち合わせていることだけは感じ取れた。微妙な均衡{バランス}でこの少年はどうにか心を立たせているのだな、と少し哀れにさえ感じた。

「あなたが、『令さん』?」

突然に少年が問うた。そのような呼ばれ方は初めてだったので、そうだ、とも違う、とも云えずにまごついていると、彼の方が赤くなって詫びた。

「ごめんなさい。仲森さんがいつも、令、令、と呼んで」

「ああ、あいつは、れいじ、と呼ぶのが面倒だ、って」

たった一字では、そう口手間がかわるとは思えないのに、仲森は私のことを、そう呼び慣わしていた。

少年は私の返答を聞いて、思いを含ませた笑みを浮かべる。嫌な感じの笑みではないが、先刻感じた、少年独特の危うさとはどこかちぐはぐな、むしろ大人の女のするような艶めいた笑みに、私は少なからずどきりとした。

「ちがうよ。仲森さんは、自分だけの呼び方をしたいんだ。他の誰もが呼ばない、自分だけの呼び方で、貴方を呼びたいんだよ」

「多津朗」

仲森が戻って来ていた。仲森は私の隣まで歩み寄って来ながら、私の顔は見ずに、少年の顔だけを見据え、それはまるで、目で制してそれ以上物を云わせないようにしている様だった。

「おかえりなさい」

その時、私は正直、仲森の気に押され気味でいたのに、多津朗はそんな仲森の意に全く介さない様子で、平然と迎えの言葉を云っただけだった。

「四人もの男の相手をしても、平気なようだな」

仲森は乱暴に多津朗の顎を掴み、自分を見ていた顔を更に仰向かせた。多津朗は痛みに顔をしかめはしたが、それでも仲森から目を逸らそうとはしない。それは先程までの少年の頼りなさではなく、したたかさを光らせた鋭い刃物の様な瞳だった。

「あなたが、僕を抱いたからだ。昨夜の人たちは、あなたへのあてつけで僕を弄んだんだよ。僕が望んであの人たちに抱かれた訳じゃない」

仲森の、多津朗の瞳を見詰める目がすうっと細くなり、その顔から血の気が引いたようにも見えたが、やがてうっすらと口元に笑みが浮かんで、それがこの上なく、仲森を残忍に見せ、私の背筋に冷たいものが走った。こんな仲森を見たのは初めてのことだ。

「可愛気のないやつだ。・・・・・・まあ、いい」

仲森が漸く、突き放すように細い頤から手を外すと、多津朗は桟に持たれて、ぐったりとその身を投げ出すように目を閉じた。

「奴等は、もう二度とおまえに指一本触れない。今度そんなことをしたら、破門だ」

「師匠{せんせい}に云う、って脅したんだね?」

多津朗の声は、仲森を責めていた。だが、語気とは反対に多津朗の顔は、涙さえ浮かびそうだったし、今にも崩れそうな体は、やっとのことで障子に助けられているみたいだった。

「『云う』と脅したんじゃない。云ってやったのさ」

「そんな……! そんなことをしたら、僕は・・・・・・。僕だって!」

「破門になるさ」

仲森は多津朗の襟をひっ掴んだ。

吐息が迫る程になっても、多津朗は仲森から目を逸らしはしないが、緊張のためか、多津朗の顔は真っ白で強張っていた。

「いいか。あんなやつらに隙を見せるからだ。自分の身は、自分で守るんだな」

科白を捨てるように仲森が多津朗から乱暴に手を放すと、多津朗はその場にぺしゃんと膝をついた。仲森はそんな多津朗を後にすると、傍に立っていた私にも目もくれずに、部屋を出て行こうとする。

「仲森! 仲森……」

「令さん!」

私は振り向いた。

多津朗は床に腰を落とし、うつむいたままだったが、はっきりと声にして私に望んだ。

「追わないで。ここにいて……」

その後。

多津朗は激しく声に出してこそしなかったが、その肩がやがて怺きれずに小刻みに震え、ざんばらに垂れた髪の下から、水滴の染みと鳴咽は徐々に部屋に広がっていった。だが、私は成す術がなく、ただそこに立っているだけの自分を持て余していた。

やがて半刻程経ち、多津朗は窓から吹き来る風に吹かれる様に、ふらりと立ち上がった。そのまま風に押されたようにゆらりとかしいだ体は、ゆっくりと縁廊下の柱に体重を預けるところとなった。

多津朗は何も云わない。

息をするのさえ、心の臓が鼓動を打つのさえ物憂げな様に、ただ居るだけだった。

「悪いやつじゃあ、ないんだ」

私は、仲森のために弁解したのではなかった。仲森が多津朗を傷付けるような人間であったことに、多津朗が傷ついたのを慰めるためだった。

だが。

「あの人は、僕を、ただ抱くだけなんだ。あの人も、他の人も・・・・・・」

声は風に連れていかれるように消えていったが、その言葉の持つ切ない響きだけは、その場の空気に沈んだ様に残った。涙の跡も渇ききらない頬を風に向けて柱によりかかる多津朗は、まるで一枚の絵で、『切なさ』という名で構図を取れば、こんな絵が描けるものかも知れない。そして既に完成された絵というものは、余人の手が触れることを堅く拒むものだ。

一四、五の少年に、これ程に諦念の悲しみを染みとおらせた時間は、そんなに長い筈もないのに、もはや誰の手にも色を塗り替えてやることはできないように思えた。

私には、多津朗を慰めることはできないと識った。

 

 ——-  ——  ——

 

もう、大丈夫なのか」

ある夕刻、仕事から帰宅したら、仲森が勝手知ったる顔をして上がりこんで待っていた。ちょうど一週間ぶりだった。

吸っていた煙草を揉み消し、新しい煙草を取り出しながら、仲森はそれが誰のことかも訊かずに答えた。

「慣れてるのさ、あんなこと。根っからの色子でね」

なんでもないことを装いながら、仲森が落ち着き無く煙草を点けたり消したり、いらいらとしているのは多津朗のことを話題にしたくないからであろう。

「あんなのを一晩も二晩も火の前に放っておきゃ、いい餌食にされるだろうよ。前の所でも、そんな様な問題があって、うちへ来たって噂だ」

吐かれた紫煙が、仲森の椅子の足元に滞った。

「そんな言い方はよさないか。おまえだって」

云い掛けて私は痛々しげに首を振った。

多津朗の切なげな口調が、耳に甦る。と、同時に、目の前の友人があの少年を相手に情事を重ねているということを考えると、顔が朱くなる、気がした。

「おまえは、あの子を、好いているんじゃあないのか?」

仲森と目を合わさずに云う。

「俺が?」

目の端にいた仲森が、ゆっくりと意地悪そうに薄い唇許を歪めるのが見えたが、その一瞬前には、間違いなく戸惑いの顔をしたのを、私は見逃していなかった。私は、やはり仲森の弱みがそこにあることを読取った。

「好いているから、……その、関係を持っているんじゃあ、ないのか。おまえは、あの子に乱暴を働いたという他の者たちと同じに、ただ欲望だけで、あの子を玩具{おもちゃ}にしているというのではあるまい?」

「だとしたら?」

「仲森!」

「多津朗などなんとも思っていないと俺が言えば、どうなんだ? だとすれば、おまえは俺を許さないというのか。じゃあ、おまえに一体何が分かる? どんな了見で俺の非を咎めるというんだ? 男色が汚らわしいとでも?」

「違う! ・・・・・・あの子が可哀相じゃないか。そんな言い方をしてやったら」

私はたじろいで反論した。だが仲森の迫力は、私の言うことなど撥ねつけるだけの強さに満ちていた。

「ふん」

仲森の冷たい唇許が、嘲笑うかのように端が上がった。

「あの子が可哀相、か。多津朗が気に入ったか? おまえまで取り込まれたか? あの色気に?」

「私はおまえとは違う!」

思わず強く否定した私は、その言葉が、仲森と私の間にはっきりとした境界線を引いてしまうことを気にする暇もなかった。それが分かったのは、仲森の瞳の色がすうと冷えて、私との距離を置くように椅子から立ち上がってしまってからだった。

「違う、か。そうさ、おまえには分からないさ」

「・・・・・・仲森・・・・・・」

「・・・・・・分からないさ。おまえなんかには。

幼い子供や、ちょっとばかり顔のいい奴を女の代わりにして欲を紛らわせることを愉しみとしておきながら、年がゆけば、妻をとり、子供をもうけ、自分は立派な陶芸家でござい、と表で涼しい顔をする。そんな世界はばかばかしいもんだ。俺だってばかばかしくなる」

「仲森!」

「おまえにはわからないさ」

最後に繰り返した仲森の強い言葉が、私の頬を厳しく打った気がした。

もはや、取り返しはつかなかった。先に拒絶したのは、私の方だ。

背を向けて部屋を出て行くの仲森の肩に、私は多津朗と同じ切なさが震えているのを見た思いだった。

 

 

 

 

 

「私と仲森は、それきり会うこともなかった。仲森はもう、以前の様に私を訪ねてくれることもなくなってね。

代わりに、多津朗が私の家に出入りするようになった。仲森とそっくりなんだ。ふらりと来ては好きなことを云うだけ云って、帰っていく。多津朗も若い頃はおしゃべりな少年でね、おかげで仲森の消息は、多津朗の口から何でも知れたよ。窯出しした作品が気にいらずに一つ残らず割っただの、個展のための製作がうまくいかないでいるだの、果ては風邪を引いた、猫を拾ったなんてことまでね。

多津朗は気難しいのが、段々仲森に似てきた節があって、仲森と同様、早くに自分の窯を持って独立したが、ふたりはずっと傍に居合わせたらしかったね。結局、私と仲森はあれっきりだったが」

「今も・・・・・・?」

尾末青年が、遠慮がちに尋ねた。

「最後に私たちが会ってから、一五年ほどして仲森は亡くなった。女性と心中したんだ。遺書も何もなくて、どういう経緯で仲森がその女性とそんな道行きになったかも、誰もわからなかった」

そして、一番衝撃を受けたのは、やはり多津朗であっただろう。仲森の訃報を聞いて私の家に来た多津朗が、私の前で体を二つに折って哭いた姿は今でも目に焼きついて消えない。

多津朗はそれからも私の家を訪れはしたが、多津朗の口数は極端に減った。

私の家の縁側で、凝と風の行方を追っているかの様なもの静けさは、喋ることを持っていない故だった。時を失くして風に追われるままの羽虫の様な、はかなさと頼りなさが彼の姿だった。

仲森のことだけを見詰め、仲森のことだけを私に語り続けた多津朗と私の関係は、むしろ、仲森が生きていた時迄の方が奇妙な関係であったと言えるだろう。私達は互いのことを話す訳でもなく、その場にいない共通の友人のことを、ただ話し、ただ聴いているだけだった。

騙し絵の中で、隣にいながら遠くにいる様な、不思議な均衡が私達の間柄だったのだ。仲森と多津朗の関係の様に特別な情を抱く間柄になるでもなく、友情と呼べる程に互いのことを知り得た結びつきでもなく。

仲森がいなくなってから、多津朗には居場所がなくなった。仲森の面影だけでも求める多津朗にとって、彼の居場所は私の傍にしかなかったのだ。

「仲森が多津朗を本当に愛していることを、私は理解していて当然だったのに、どうしてあのような言い方で仲森を傷つけてしまったのか・・・・・・。私が彼を深く傷付けたことが、仲森にあんな最期を迎えさせたのかも知れない」

私の記憶に残る仲森の、最後の表情は哀しいものだ。憤りの言葉を私に向かって遮二無二投げつけ乍ら、私に、何故、と問いかけるような表情。もっと色々な時間を共に過ごした筈だのに。

「多分、そうではないでしょう。・・・・・・ええ、そうじゃない。俺ならば、いつだって真実の自分を令次さんに、―― 大事な人に見せるだろうから、仲森さんは精一杯、真実{ほんとう}の姿を令次さんに見せていたと思います」

尾末青年の言葉は淡々としていた。

その恬淡とした彼の物言いの中に、私はいつしか仲森の気性を見ていた。

仲森ならば、決してそれは口にはしなかったくらい、素直な科白だった。だが、私の知る仲森ならば、口に出さずともそう思ってはいたかもしれない、と思われるのだ。

「君なら、か」

思えばこの青年もまた、仲森とは兄弟弟子にあたることになる。もちろん面識はないのだが。ふいと途切れたようでも、不思議にどこかへ絡まっている奇妙な縁を感じた。

「そろそろ行きましょうか。雨になりそうだ」

尾末青年は、私の分の水桶も手にして、先に立って歩き始めた。

遠雷がかすかに聞こえてきた。

水たまりの上を湿った風が通り抜けた後を、夏が追う。

そうして、いつも、いつしか季節はまた巡る。

 

 < 了 >

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