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山の郵便配達

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山の郵便配達

登場人物紹介

山田 弁蔵
大学を出たばかりの新米教師。 担当は理科・数学・社会。
工藤 健太
弁蔵の下宿先の子供。幼稚園年長児。
工藤 金太
健太の兄で中学2年生。硬派少年。
男先生(山口先生)
岩ノ巻温泉郷分校教師。またの名を「ジャージ」。恋人募集中の熱血教師。
女先生(一戸先生)
ファッション雑誌が大好きなお洒落さん。恋人募集中。
スオミさん
村の郵便配達屋さん。怪力女子。
校長先生
岩ノ巻温泉郷分校で一番偉い人。

 

おはようございます。今日のお天気は晴れ、午前6時の気温はマイナス4℃、今日日中の最高気温は‥‥‥。

 

ラジオの天気予報に続いて、

 

新しい朝が来た。希望の朝だ。

 

「・・・ラジオ体操の歌か」

階下でつけているらしいラジオからの歌声に、気持ちを言い当てられた気がして、自分の心の裡など誰も知りようもないことなのに、少し顔を赤らめた、山田弁蔵、24歳。

取り柄は自他ともに認める謹厳実直。精励恪勤。質素倹約。

そして、自覚はないらしいが、鄙に稀見る羞月閉花の ―― 。

「男前先生! 朝めしできたからどーぞ、ってかあちゃんが」

前触れもなく引き戸が開いて、この家の末っ子、工藤健太が入ってきた。

「け、健太くん」

田舎風コミュニケーションはまだ馴れず、ましてやするはずもなかった下宿の間借り人生活。相手はどこまでも馴れ馴れしく、弁蔵はと言えば、どこまでもよそよそしい。それもそのはず、弁蔵がこの家へ来たのは昨夜なのだ。

「そ、その(小さく恥かしげに)『男前先生』というのはやめてください、とお願いしたでしょう」

「だーって、かあちゃもじっちゃもそう呼んでるぞ」

田舎じみた(失礼)赤いほっぺがなんとも子供らしくて良いのだが、田舎の子供というものは、もっと、こう、外から来たものには人見知りをするというか、距離を置くとかいうものではないのか(いささか偏見)? なのに、この、全く気を置かずに背中にはりついているこの子供はなんなんだ? 昨夜は風呂にまで入ってきたぞ。

爽やかな朝を迎えた気分になっていたところを、突然小さな襲撃者によってすっかり相手のペースに巻き込まれてしまった弁蔵であった。

「男前せんせー、このパジャマの柄、ヘンな怪獣だー」

弁蔵のパジャマのプリント柄を数えながら、健太は背中から方を乗り越えて、ごろんと頭から弁蔵の前に回ってきた。

「おおっと。危ない!」

慌てて腕で健太を抱きとめると、健太はこれ以上ないというくらい満開の花のようににぱっと笑って、弁蔵に言った。

「男前せんせー、ないすきゃっち」

もうこれは笑うしかない。

ぷぷっとこみ上げてくる笑いを少しばかり噴出したつもりだったが、健太は不思議そうな顔をして弁蔵を見つめていた。

「モアイ、って言うんだよ。この絵は」

「もあい?」

「そう。イースター島という島にある大きな大きな石の像でね」

くしゃん。

と、健太がくしゃみをしたところで、弁蔵は、はっとした。

いけない、いけない、危うくこんな小さな子供に向かってモアイを熱く語るところだった。

「朝ご飯をいただきに上がりましょう」

健太を膝から降ろして、弁蔵は「ちょっと待っててください」と言って手早く着替えをした。

「お待たせしました」

弁蔵が部屋の襖を開けると、健太が当然のごとく手を握ってき、にこっと笑った。

 

 

朝ご?の風景は、いずこの家庭も、かくもきらきらと輝いているものなのだろうか、と弁蔵に思わせるほど、この工藤家の食卓は眩しい朝のひとコマを呈していた。

「健太! 落ちついて座りなさい!」と母親が向って叫んでいるのが、工藤健太、五歳。来年小学校に上がる予定。

「お父さん。新聞持ってトイレに入らないでよ」とは、この家の長女で農協に就職した工藤唯子、十八歳。

「金太、いい加減起きてきたらどうなの?」とこれも母。二階へ向って叫んでいるののだが、相手はこの家の長男、工藤金太、十四歳。

「今日の味噌汁はなにかな」とトイレから新聞を持って出てきたのが、この家の若主人、工藤太郎、こちらも農協勤務。

「よっちゃんとこの豆腐にアゲ!」

と椅子の上で叫んだ健太を抱き上げて椅子に座りなおさせたのが、この家の主で、この村の村長、工藤幹太郎。

「健太。食事は座ってするもんだ」

厳しいというほどの口調でもないが、そこは一家の主で大黒柱、村の束ね。柔和な顔にも、それなりの威厳を放っているらしく、稚気のあるきかん気の健太も、さすがに大人しく椅子に収まった。

「おはようございます。先生、よく眠れましたか」

「おはようございます。いや、あの、先生なんてやめてください」

そう言いながらも、昔のように呼んでくださって結構、とは続けられない抵抗がある。

「いえいえ。もう立派な先生なんですから。昔のように弁ちゃんとは言えません」

言ってるじゃないか……とは口にせず、少しだけ顔を俯けて、いや、はあ、あの、と口をもごもごさせる。

「べん、ちゃん?」

隣の椅子にすっぽり収まった健太が、弁蔵の顔を見上げるのに目が合ってしまった。

「先生、べんちゃんっていうの?」

健太ではなく、パンにバターを塗りながら長女の唯子が大声を上げた。

「山田弁蔵」

そこへ、二階からようやっと降りてきた、起きぬけの長男・金太がぽつりと言う。

「昨日、職員室でも話題になっていたさ。どんなじじいの先生がくるのかと思いっきゃ、来るのは卒業仕立ての若い先生だって言う。おまけに、男先生と女先生が口をそろえて男前だ男前だってぇ言うもんだから」

「男前先生」

にっこり笑って、ごはんつぶを口の周りに輝かせた健太がオチをつける。この笑顔に弱いのだ。

「先生、お互い、名前では苦労するよな」

金太が、大人びた口調と仕草で、弁蔵の肩をぽんぽんと叩いて、健太と反対側の弁蔵を挟む椅子に腰を下ろした。

・・・・・・ 中学生にまで心を読まれてしまった ・・・・・・。

弁蔵、いささか、ショックである。

 

 

「えー、そういうわけで、中川先生が、産休で、お休みを、されますので、代わぁりに、いらして、下さいました、弁ン蔵先生です。この学校が、弁ン蔵先生の、教師生活の、第一歩、になります。これから先、弁ン蔵先生が、長く教師を続けていきたい、という思いを以って、教職に従事していけるかどうかは、我ぇ々、岩ノ巻温泉郷分校の、先輩教師にかかっている、と言っても過言ではありません。どうかみなさん、この、若き、弁ン蔵先生とご懇意にしていただいて、また、えー、弁ン蔵先生は、まだ、ここでの生活に不慣れでいらっしゃいますから、ぜひとも、みなさん、良くして、差し上げてください」

校長が、一言一言区切りながら弁蔵を教師全員に紹介してくれた。いや、一言一言は構わないのだが、名前を呼ばれる度に弁蔵は思わず身を固くする。しかも、弁ン蔵、と「弁」と「蔵」の間に溜めを入れて呼ぶのだ。

(で、できれば、名字で呼んでください、っ)

弁蔵(一八三センチ)が身を屈めて校長(自称一六四センチ)の耳元で告げるが、校長は、聞こえないのか、改めてはくれない。 「弁ン蔵先生はー、実は私の幼馴染みの孫っこでして、こんめぇ頃から、この通りめんっこい・・・・・・」

救いだ。チャイムが鳴った。

「校長先生、授業が始まりますよ」

すかさず言ってくれたのが、東京の女子大を出てUターン就職したという、この村出身の女性教諭で、少しばかりはふるさとなまりも否めないが、無理してなのか、東京生活の名残か、一応の標準語でしゃべっている。

「校長先生ってば、お話が長くて」

ぺろっと舌を出して、女性教諭は自分の机の上から授業道具を取り上げた。

「じゃあ、先生、教室に行きましょう」とその向かいの机から出席簿を取り上げた男性教諭は、隣市の出身で、養護教諭、つまり保健室の先生でもあるらしい。こちらはなまりも隠そうとしない、隠す必要も感じていない、ただし山奥の温泉郷にはちょっと元気過ぎるくらいの活闥な話し方である。 「あの、私は複式クラスは初めてなんですが、何を持っていけばいいのでしょうか?」

ド田舎の分校である。弁蔵がこれから教えるのは、「中学生のクラス」。中学二年のクラスでもなく、中学三年のクラスでもなく、中学生クラスなのだ。総勢5人。内訳は中学二年男子が二人、中学三年女子が三人だと聞いている。

因みに同じ教室では、女性教諭が受け持っている「小学生クラス」も授業をしているのだ。

「ああ。教科書も、ほかの必要そうな授業道具も、全部、教室に置いてありますよ」

「全部置いてあれば、忘れないだろう、なんて言って」

女性教諭が弁蔵に眉を顰めてみせた。

 

 

下駄のような顔をした恐らく年中ジャージ姿(もちろん今も。今はその上からさらにぶ暑い何年ものといった風の毛玉だらけのカーディガンを着用:余談であるが、仮にも養護教諭である以上、せめて洗濯だけはマメにしているものを着用していると思いたい)の男性教諭は山口といい、村の中では少々垢抜けたふうの装いをしている女性教諭は一戸という。だが、

「男先生のそういうところ、だらしなくて嫌いです」(おい、おい、そこまではっきり言うのか)

「女先生はきつうて、女のくせに可愛いげない」(いや、それ、セクハラだから)

と、何故か互いに、「男先生」「女先生」と呼び合うらしい。

「あの・・・・・・ちょっとお聞きしますが」

ん? と二人同時に弁蔵の顔を見る前に、なにやら二人の間で視線が火花を散らしたことに、弁蔵は気が付かない。

「山口先生が男先生で、一戸先生が女先生なら、産休された中川先生はなんと呼ばれていたのでしょう」

「中川先生」

なかなかキレイにハモる声質らしい。

「では、私のことは・・・・・・」

「男前先生」

がっくりしている弁蔵の気持ちなぞ、全くしんしゃくすることなく、男先生と女先生は、廊下に先に立ち、弁蔵に早く来い、と促した。

 

 

「今日から中学生クラスの理科と数学と社会を担当してくださる、山田弁蔵先生だ。おまえら、いじめたら承知せんぞ」

ベンゾウ? ちがうよ、エンゾウじゃないの? どっちもダサいよ、ケンゾーじゃないの?

最後列に横並びの同じ顔した女の子たちが三人、ヒソヒソと小声で交すのが聞こえる。前のほうに小学生三人、その後ろに工藤金太ともうひとり、これが恐らく中学二年生の二人であろう。

その後ろに同じ顔をしたセーラー服の女の子三人が、これまた同じお下げ髪をして席を並べているのには参った。

生徒名簿はもらっていたものの、同じ名字も多い小さな村のこと、ただ同じ名字なのだろうと根拠なく思っていた。現に、工藤金太と兄弟ではない工藤姓の小学生もいる。まさか、同じ苗字の三人が三つ子だなんて思いもしなかったが、まあ、日本国内であれば五つ子まではニュースにもなっているから、三つ子くらいは双子よりは少なくても、いてもおかしくはない。

同じ顔が三つ並んでヒソヒソ話を交わしているのを耳に収めながら、目眩を感じつつ、それでも自己紹介くらいは、と口を開こうとしたところを、絶妙な間で、聞き覚えのある声に邪魔された。

「山田弁蔵。山に田んぼの田に、弁当の弁に蔵。だとよ」

金太がぽそっと、しかしはっきりと言った。

「え゛ーーーーーーーーーーーーっ」

と、日本語学的に明らかに間違っているような、「え」に濁点がつくような微妙な音声で、最後部の三つの声がきれいにユニゾンになり、前方の座高の低い席三つからは「べんぞー?」とあどけない声が名前を復唱された。

「あ。いや、私のことは・・・・・・」

慌てて弁蔵が口を開こうとするも、それよりも大きく「男先生」が「こら!」と生徒たちを叱責し、「女先生」がきびきびした声で「静かにしなさい」と注意する。そしてまたもや二人揃ってこう言ったのだ。あろうことか、全校生徒(総勢八名)の前で。

「男前先生とお呼びしなさい」

一段と目眩がひどくなったと思った瞬間、弁蔵を凝と見る金太と目が合った。

がたっ、と金太が立ち上がった。

「お。金太、どうした」

男先生が尋ねると、金太はまた、ぽそりと言った。

「自己紹介」

そしてその後、ますます小さく呟くように、

「 ―― を、してやったほうがいいんでないの?」

坊主頭はうつ向いても真っ赤になった顔は隠せず、耳までも赤いのが弁蔵にも見て取れる。

「お。そうか。そうだな。じゃあ全員自己紹介といきましょう」

私は、と弁蔵の右と左でステレオ放送が美しくハモる。男先生と女先生が同時に、我先にと口を開いたのである。

一瞬、全員がしん、となり、「お先にど」とまたステレオ。

もう一度、沈黙が入ったのを破ったのは、金太だった。教師ふたりを無視して進行役をかって出る。

「アキマサ。おまえから行け」

どうやら小学生組の、最前列向かって左端の生徒に振ったらしい。

弁蔵が、アキマサと呼ばれた生徒の顔を見下ろし(身長183センチ+教壇15センチ)、目が合ってしまったので微笑みかけようとした途端、アキマサは火がついたように泣き出してしまった。

えっ、と思って固まってしまった弁蔵をよそに、あらら、泣いた、などの声が三々五々漏れる中、水が滲み出すように笑いが起こり広がった。

「ああ、こらこら」

「みんな、静かに。アキマサくん、どうしたの」

と、男先生と女先生が鎮めにかかるやら、なだめにかかるやら。

金太は黙って席を離れ、アキマサの横にしゃがみこむと、ひとこと二言、アキマサの耳に口をつけて何事か吹き込んだらしい。

泣いていたアキマサが、歯をくいしばり、泣くのを止めて鼻の詰まった声で、ようよう言った。

「くどう、あきまさ、いちねんせい」

「『です』」

「・・・・・・です」

アキマサの隣りの席の、アキマサより何年か上らしい女生徒が丁寧語尾を促し、アキマサはまだ涙声ながらも、きちんと語尾まで言い切ってみせた。

「くどうアキマサくん」

弁蔵が名前を繰り返し呼んでみると、アキマサは大きくうなづいて、また、うわ~んと大きく泣いた。

「泣くな」

金太が端的に、しかし決して厳しく咎めるのではない口調で言って、アキマサの頭に手を置き、「次、タエ」と言うと、先ほどアキマサの語尾に訂正を加えた女子生徒が立ち上がった。

「松野多英。小学二年生です」

「大木理香子。五年です」

続いて右端の女子生徒が自己紹介して、それが最前列三名、小学生クラス。その後ろからは男子は学生服、女子はセーラー服を着ている。

ん、と金太が少しだけ首を捻って合図をすると、金太の隣の席の男子が座ったまま、左手を上げて、「二年、中倉佳祐」と言い、最後列の女子が左から順番に入れ替わり立ち代わり立って「早野弥生」「早野みつき」「早野夢見」と名前を言った。まるでコマ送りされるまんがのようだった。

一通りの自己紹介が済むと、中学生五人は、小学生三人に背を向けるよう机を動かし、後ろを向いてしまった。そのいきなりの、しかし呼吸の整った行動に、弁蔵が目をぱちくりさせていると、男先生が教室の後ろの隅から教卓を抱えてあげていた。

「小学生と中学生を別々の教室にしてしまうと、広すぎて少し淋しくなってしまうんです」

女先生が、自分で口にした言葉の通り、少し淋しそうに笑った。

 

 

「先生、一限目はわたしの国語ですが、複式授業の経験がないっちゅうことですんで、このまま見ていかれますか」

男先生が、「男前先生」と呼ばず、ただ「先生」と呼んでくれるのには、内心、胸をなでおろしていたが、その一方で、教室前方の小学生3人に漢字の書き取りをやらせている女先生は、弁蔵のそばにいつの間にかやってきていて、

「それがいいわ、男前先生」

とやってくれ、弁蔵をがっくりさせた。

生徒用の余った椅子にはいささか長い足を余らせて、教卓左斜めに陣取って、男先生の国語の授業を見る。三年生の早野姉妹は、男先生の手製だという漢字の書き取りがびっしり並んだプリントを解いていて、その横で金太たち二年生は、枕草子をたどたどしく暗誦し始めた。どうやら、一文ずつ交互に暗誦している。金太がつまると、それを正してやったのは、うつ向いたまま漢字の書き取りプリントを黙々とやる早野姉妹のひとり(の誰か)だった。

「ちょうど、三年生の復習になりよるんです」

男先生が、自分も余った生徒用の椅子に、背もたれを抱えこむようにして、弁蔵のすぐ横に座っていた。

「はあ。えーと」

だから自分は授業はしなくていいわけか? と弁蔵はちょっと突っ込みたいのだが、にこにこと顔をつきだして笑う男先生(すでに、名前は忘れてしまっている)の笑顔は、なんの質問も疑問も受け付けてくれなさそうに鉄壁の感がある。

「中川先生との引き継ぎは済んどりますか」

「え、まあ、済んでいると言えば」

済んでいると言っていいのかもしれない。丁寧に手書きで作られた数学、理科、社会、と分けた科目ごとの授業ノートと、生徒ごとのノートが、昨日、村長宅に着いた弁蔵を待っていた。中川教諭は年末から実家へ帰省しているとのことで、直接会って引継ぎができないことを丁寧に詫びる手紙とは目を通したが、全部で十五冊あるノートを、弁蔵はまだ全部読めていない。

なぜなら、昨夜は弁蔵の歓迎会をすると言って、村役場へいきなり引き出され、本来なら弁蔵は九時には就寝の日課なのに、十一時まで付き合わされたのだ。厳密に言えば、十時半まで時計の針が進んだのは覚えているのだが、村長曰く「十一時にはいきなり倒れて、後は気ン持ち良さそうに寝ちまった」ということだからだ。飲むのはいいが、九時には寝たい。一応、最初にそう断って歓迎会に臨んだのだが、一笑に付されてそれまでだった。

「せんせー、終わった」

中倉佳祐が声をかけると、男先生はジャージのポケットに丸めて突っ込んでいた教科書を取り出しながら、弁蔵に軽く会釈し、教卓の前に戻っていった。

「みつき。こいつら、間違えないで最後まで言えたか」

「つっかえつっかえだけどね」

みつき、と呼ばれた早野姉妹その一が、小首を傾げながら答えた。

「ふん。まあ、いっか。よし、じゃあ、二年生、ちょっと遅れてるから、次のやつはざーーっと飛ばそう」

「次って、どれ」

佳祐が金太の手元を覗き込む。どうやら、佳祐は教科書を持ってきていないらしい。

「『モアイは語る』・・・・安田、よし、のり、かな」

金太が言った。

モアイ?

弁蔵の耳がぴくりと動いたかのように、その三文字を捕えた。

「これぁ、すンごくわかりやす~い文章だから、おまえらが家で読んできて、次の時間にちゃっちゃといくつか質問して終わりにするから」

「それはいけません!」

弁蔵、思わず発言。

「安田喜憲先生の論文はとても良いことを書かれておられますから、しっかり読んでいただきたいと思います」

男先生は目をぱちくり(つぶらではあるが)させ、生徒たちは呆然。弁蔵は気づいていなかったが、小学生三人は教室の後部、つまり、中学生クラスを振り返り、女先生は勿論のこと、教壇の上から弁蔵を注視していた。

 

「そ、そう言ば、先生は遺跡が好きだっちゅう話ば校長先生ぇから、たつっと聞いとりました。んだば、ちょうどえが。おい、二年生、このまま『モアイ』やるぞ」

男先生がニコニコ度を増して、弁蔵においでおいでをした。

少し立ち位置をずらして教卓を半分譲ってくれた男先生は、これまたひときわ大きな声を発した。総勢十一人しかいない(そのうち、話し掛ける対象の中学生は五人)、しかも前三分の一と後ろ三分の一しか机が置かれていない教室内に向けたには大き過ぎて、男先生の真横に立つ弁蔵はできれば耳を塞ぎたいくらいだったが、それは失礼かとなんとか堪える。が、いきなりにも唐突に肩に回して来られたがっしり骨太の腕はさすがに甘受できず、さりげなく、教卓の中心線から一歩、外側に外れた。

(いや、そんな顔をされましても。)

弁蔵の退きに、わずかに顔を曇らす男先生には気づいたものの、それをめざとく見た金太が笑いを噛み殺していたことまでは知らない。

「よし。じゃあ、どっつか読め」

男先生の(いい加減、いや、適当、いやいや、柔軟な)指示で、佳祐が小さなサイコロを投げた。音がしないところを見ると、消しゴムらしい。その結果で佳祐が読むことになったようだ。が、佳祐は教科書を持ってきていない。顔をくっつけるようにしてふたりの男子生徒が教科書を覗き込んで、一方が音読を、一方が黙読をしている様は、手足こそ伸び盛りの様相が伺えるが、まだまだ幼い微笑ましさがたっぷりである。

『君たちはモアイを知っているだろうか。』

B4版の教科書六頁余りの短い論文が、男先生に言われて途中佳祐から金太に代わって読み終えられたとき、男先生に言われずとも自ら教卓の真ん中に立った弁蔵の口からは、著者の安田喜憲氏の書いた冒頭と全く同じ文句が出てきたのだった。(*1)

 

 

「・・・・・・はァ・・・・・・」

「何かご心配ごとでも?」

弁蔵の前に湯気の立つコーヒーが置かれた。

「あ。ありがとうございます」

「初授業が済んでから、10回以上は溜め息をついてらっしゃいますよ」

丁寧に標準語のイントネーションを探り探り発せられるが、微妙に地元の言葉である。これも妙齢(いくつだろう、この女先生とやら。いやいや。女性に年齢を聞いてはならないのだ)の女性ゆえの見栄というか飾りのひとつだろうか。

「さきほどの授業は、とっても有意義でしたわ」

はあ・・・・・・。

弁蔵の溜め息はその授業ゆえなのだ。

「私は国語の免許も持っていないのに、山口先生をさしおいて授業時間を使ってしまいました」

「あら。男先生は楽できて喜んど、・・・・・・喜んでいると思います」

(いや、そういう問題では)

「それに、三年生の早野さんたちも、ちょっとした息抜きになったようですし」

(そ、そうかな)

「わたしとしても、勉強になりました」

(・・・そこまで言われると恥ずかしいですが)

「これからわたしも、色々教わりたいと思います」

「・・・は?」

思わず声が出た。

なんだか話が少し飛んでませんか、と思わず言いそうになった弁蔵だが、女先生の次の言葉のほうが早かった。

「いやですわ。先生のご趣味に付いて、いろいろ教えてください、って申し上げてるつもりなんです」

なんで趣味を尋ねるくらいで、そこで赤くなる必要がある・・・・・・? 自分の趣味は、どこか恥ずかしいような趣味なんだろうか、などと真剣に考え始めてしまった弁蔵を見て、女先生は何を思ったか、最後に高らかな一発をくれた。

「ま。もう、やンだわ、男前先生てば」

女子高生が叫ぶような黄色い ―― よりは、すこーし薄ベージュがかった声の感じで:あまつさえ、思わず出てしまった里言葉で)それだけ言うと、女先生は、授業に行ってきます、とスキー手袋を抱き締めて職員室をそそくさと出て行った。残されたのは、女先生の矯声と共に、はたかれた背中の張り手の痛みを背負った、弁蔵ただひとりである。それでも、北国の防寒された室内と同じように、肩に回された手といい(思わず退いてしまったが)、背中を張られた痛みといい(結構力があることは覚えておこう)、学生時代の友情とはまた違う、これが同僚という温かみなのかと思うひとときであった。

結局、男先生の一限目の国語の時間のみならず、舌が滑らかになってしまった弁蔵は自分の担当の二限目も続けて喋り切り、さすがに休み時間を指摘されて(後ろ ―― 弁蔵の側からすると、教室の後ろとも言えるが、実際の教室の造りからすれば前方 ―― の小学生たちが、トイレに行きたいと言い出したため)初授業を終えたのだった。

三、四限目は小学生クラス、中学生クラス合同で外へ出て体育である。生徒八人プラス教師二人で学校の裏手の山でスキーをしているはずだ。男前先生もぜひ一緒に、と、男先生、女先生の両方から誘われ、スキー服がないことを理由になんとか今日は逃れたが、なんだか次回は、服道具一式を用意されて誘われる気がするのは、弁蔵の思い込みだろうか。

そんな思いを払拭するように、頭をぶるっと振るって、弁蔵はノートを次々に開いていった。

前任の中川先生は非常に几帳面だったと見え、自分が行なった授業内容だけでなく、そのときに生徒たちにどんな質問をしたか、生徒たちはどんな疑問を持ったか、などをこと細かに記していた。

生徒ひとりひとりの名前が書いてあるノートは、生徒がどういう学習分野が得意で、どういうところに弱いかをまとめてくれていて、学習の癖と言おうか、どういう部分に教師が気を配ってやれば良いかがよく分かるように書かれている。特に高校受験を控えた三年生の早野三姉妹については、ほんとうに細かくノートされていた。小さな分校ならではのケアかもしれないが、三人三様、なやみごとなどにも至る記述がなされていた。

受験を目前に自分が産休に入ることへの申し訳なさがそこには感じられ、さらには、代理に着任する弁蔵が、これが教師経験のはじめの一歩だという不安ゆえにも作られたノートだったのだろう、と思うと、弁蔵は、まだ見ぬ前任教師に自然、頭が下がる思いであった。

ノートが記された気持ちに見合うように、と丹念に手書きのノートを読み込んでいく。途中、女先生に入れてもらったコーヒーを一口啜ったが、残念ながら、こちらはイケなかった。インスタントコーヒーのはずだが、

「どうして、こんな味に・・・・・・?」

ついひとりごちて、あたりを見回す。厚意で入れてもらったものに、不用意な発言をしてはいけない、と思いつつ、まだ授業時間であることを腕時計で確認して、こっそりと職員室の入り口脇の小さな洗面台にコーヒーを流したときだった。

「郵便で~す」

突然の声に驚いて、手が滑ってマグカップをシンクに落としてしまった。

「あ」

「あら」

職員室の入り口で、口許を押さえて、小柄な女性が割れたマグカップに(か、割った弁蔵にか)同情の目を向けていた。

「ごめんなさい。驚かせてしまいましたか」

女性は青いポリプロピレンのコンテナを抱えている。さて。もうひとりの女性職員は中川先生のはずだが、当の中川先生は実家に帰省しているとのことだし、第一、目の前の女性は妊婦ではなさそうだ。

とりあえず、シンクの中で割れたカップはそのままでも大丈夫なので、女性の持っているコンテナを持つのを手伝うことにした。が。

「お・・・・・・っ?」

重い。

気軽に手伝うつもりで手を出したのだが、油断から一瞬、腰にずしりと重みがかかった。

中身は書類だろうか。いろいろな大きさの袋ものが雑多に入っている。

「えーと。これは、どうすればいいでしょうか」

意外に重かったコンテナに途惑いつつも、自分から手伝いを申し出た手前、「重い」と口にもできず、平静を装って処遇を尋ねると、弁蔵の気持ちが伝わったのか、弁蔵の顔をぽかんと見上げていた女性はくすりと笑って、弁蔵の手からコンテナを取り返した。

「ありがとうございます。重いでしょう? 紙の束は見た目に反して重いんです」

女性は取り戻したコンテナを抱えて、軽い足取りで職員室の窓際の机に運んで行った。

さっきの女先生の平手といい、この小柄な女性といい、どうやら、この界隈の女性は力持ちらしいということを弁蔵は頭に入れた。

窓際で、女性は弁蔵に背を向けてコンテナの中を探っていたと思ったら、中から大きな包みを取り出して、弁蔵に持ってきた。

「はい。男前先生」

キーンコーンカーンコーン。

ちょうど、四限の終了を報せるチャイムが鳴り響いた。

 

 

両手で差し出された60c×40c×30cの荷物には、まさしく自分に宛ててある荷物だ。

「あの、これが私宛てだと、どうして?」

いや、それよりも、自分が山田弁蔵だと何故わかったのか? いやいや、その前に、「男前先生」というその(極力呼ばれたくない)名前はどこから知り得たものなんだ? この人とどこかで既に会っているのだろうか。いや、この村に来て顔を合わせた女性は工藤家の母親と娘の唯子、昨夜の飲み会でお世話になった校長宅の奥さん、今朝学校に来てから女先生、と4人だけのはずだ。それとも私はそんなに、名前そのまんまの顔をしているのだろうか。等々、弁蔵の頭の中をぐるぐると色んな疑問が駆け巡っていた。

自分の名前に幾分憂いある思いを抱く弁蔵が、自分で考えた問でありながらも一番最後の問に我ながらショックを受けていると、職員室の戸が開いて、男先生と女先生が入ってきた。

「やあ、スオミさん。こんにちは」

「こんにちは。あ。郵便物、お配りしなくちゃ」

窓際に置いたコンテナに慌てて走り寄る背中で、しなやかな黒毛の馬の尾のような束ね髪が揺れた。

「ね、ね。私に来てる?」

女先生が弾んだ声できくと、女性は荷物を取り出しながら言った。

「今日は発売日なので、重いですよ」

「知ってる、知ってる。そのために大きなバッグ持ってきてる」

「あとでまた、私にも貸してくださいね」

女性同士特有の、楽しげな会話が続くのを、聞くともなしに聞いていた弁蔵に、男先生が声をかけた。

「先生、給食の時間です。教室へ行きましょう!」

「スオミさんも給食、食べて行ったら」

女先生がスオミさんと呼ぶ女性を誘った。

「でも」

「今日は教頭先生さ本校に出張しとられっがら、ひとり分余っとるです」

男先生も重ねて誘った。すると、奥の校長室のドアが開いて、校長も出てきて誘う。

「小城の倅がぎっくり腰だて? んだで、今日は、スオミさん、あんたが配達しとられっかや?」

大変だなや、と、窓際に置かれたコンテナと、女先生の胸に抱きしめられた分厚い数個の封筒をみくらべた。

「配達っても、運んでくれっのは車ですから」

ああ、この人がこんなふうに笑って言ってくれると、本当になんでもないことのように思わせられてしまうな、と思うような、安心感を与える笑顔だと弁蔵は思った。

「えー? これ、スオミさんが運んできたの? こげな重そうなものを? うっそー。私なんて持ち上げることもできないわぁ」

いや、あなたのあの平手の威力があればこの女性より軽々とこのコンテナももちあがると思います、とは、もちろん、弁蔵、胸の裡の呟き。最後に「ねぇ?」と弁蔵に同意を求められて、困った視線をさ迷わせると、生憎にも「スオミさん」に行き当たってしまった。スオミさんはそんな弁蔵に合わせてくれたような、困った笑いを投げてくれただけだった。

とりあえず肯定とも否定ともつかない曖昧の笑みで女先生に返事をしたつもりだったが、どうも女先生は弁蔵の返事はさほど重要視していなかったらしい。やーん重~い、すごーい、持てなーい、と女子高生(昨今の女子高生の生態といってもさほど詳しくは知らないが)のように簡単な感嘆の言葉を繰り返してスオミさんのコンテナを傾けてみたり持ち上げてみたり(軽くもちあがっていますが、なにか?)しているばかりだった。

「あ。男前せんせーだァ」ガラッと職員室の戸が引き開けられると同時に、知っている幼い声が自分(のこととは認めたくないが)を呼んだ。

「健太くんではないですか」

幼稚園生のはずの君がどうしてここに、と言いかけたが、元気な健太の声にかき消されてしまった。

「せんせーみんな、給食の用意がでけたであっち来{こ}」

言いながら弁蔵の手にぶら下がるようにして手を引いた。

あ。と、弁蔵が少し照れ気味にいると、ほかの人たちも、おや、という目で健太と弁蔵を見つめた。

「早ぐ。スオミさんも」

するすると弁蔵の肩まで昇り(実際には、最初に手にぶら下がり、体重をかけてきて重いので両手を出してやれば、健太もまた

両手を差し出してくるので抱き上げてやるはめになり、抱き上げてやれば肩に乗るという素晴らしく美しい流れで肩車まで辿りついたのだが)弁蔵の頭を抱いたまま健太が言うと、スオミさんは弁蔵の肩の上の健太が伸ばすままに手を握った。

「はい。男前せんせー、しゅっぱつしんこー!」

「え。あ。はい。え。どこに?」

健太がまるで、運転するように弁蔵に指示を出す。

「給食は教室ですよ。小学生と中学生が授業をする教室。ご存じですか」

スオミさんが健太の指示を前もって言語化してくれる。弁蔵はうなづいた。

健太に促されるままに職員室から弁蔵とスオミさんが出ていく後ろで、校長先生の声がした。

「おンやまあ。弁ン蔵先生とスオミさんと健太、ああしてっとまるで夫婦と親子みたいだなや」

その途端、弁蔵の左横に女先生が、スオミさんの右横に男先生がぴたりと並んで、教室へと歩みを進めることになった。

 

 

教室ではすでに給食の配膳が出来上がり、机が二つずつ向かい合わせで一直線に組んである。小中学生の8人以外に、健太クラスのおちびさんが健太以外にもう一人いた。

「ども。幼稚園の生沼です」

「幼稚園、も一緒に給食ですか」

弁蔵は示された席に腰を下ろしながら、自分と同じくらいの年に見える生沼青年に訊いた。

「はい。以前は学校の隣に幼稚園があったんですが、少し前に古くなって取り壊しになりまして。以来、この校舎に間借りです。それに給食を引き受けているのはうちの料理部なんで」

「は。・・・・・・ あ。昨夜の!」

弁蔵は思い出した。昨夜の校長宅での歓迎会に、仕出し料理を持ってきてくれたのは今目の前にいる青年ではなかったか。

「人手不足だもんで、ばんげは自分家{え}ば手伝うとります」

にこっと笑うと目尻に深く皺が出来るのを見ると、もしかすると案外弁蔵よりもだいぶ年上かも知れない。

「用意できました」

白いマスクと帽子とスモックを着けた金太が、マスクの下からもごもごとした声で生沼に報告にきた。

「当番は生徒二人。幼稚園生が入るときは三人体制に、教師が一人つきます。今週は金太と松野多英で、教師のほうは僕が当番です。男前先生もそのうち頼んますで」

自分が白い割烹着を着て帽子とマスクを着けた姿を想像して、弁蔵は少しひきつった笑顔だろうなと自覚しつつ、生沼に頷いて笑んで見せた。当番で回り持ちとあらば、いたしかたないことだ。端っこの席に回って椅子を引きかけると、男先生から声がかかる。

「先生、そこは小学生用です。先生は中学生の先生だはんで、こっちに」

セッティングされた給食の載ったトレイをふたつ、両の手にそれぞれ捧げ持って、男先生は自分の隣の席を指し示した。

「あら。こちらに用意しましたのに」

女先生が腰に手をあてて男先生に向かって言う。

「女先生はアキマサと彩香の間に座ってやって、見てやらんといかんでしょう」

「ですから、私の前に男前先生の席を」

「何もそう無理矢理そっだらこどしなくても」

「いーえ。別に無理だらこど」

「みえみえのこどばすど、嫌われんずやよ」

男先生と女先生が訳のわからない争いを始めてしまったので、弁蔵はふと見つけた、誰も座っていない席を指差して、隣の隣に座っていたスオミさんに「ここ、空いているんですか」と訊いた。

「空いていますけど」

「わーい。男前せんせー、一緒に食べばんげぅ」

スオミさんの隣、すなわち、弁蔵が指差した席とスオミさんとの間には、健太が座っていた。どうやら健太はスオミさんがお気に入りらしい。まだ幼児語も残る言葉遣いで、あれやこれやとスオミさんに話し掛けている。弁蔵が席に着いてしまうと、金太と多英が教壇の上で手を合わせ、ふたりの「いただきます」の声とともに食事が始まった。男先生と女先生の揉め事もなんとか収まったようである。

「せんせー、これあげるん」

健太が自分のフォークに刺したニンジンを弁蔵に差し出した。

「健太くん。嫌いなものを男前先生にあげちゃいけません」

スオミさんが優しく健太を諭すと、健太は渋々、目を瞑ってニンジンを口にくわえ込んだ。

しばらく、口を動かさず、固く目を瞑ったままでいたが、やがて、上を向いたときに、スオミさんが気づき、

「健太くん! 飲み込んじゃだめ!」

と叫んだ。健太は、飲み込むのを止めて、恨めしそうにスオミさんを見て、それから弁蔵をも見た。

「噛み噛みしてください」

弁蔵の言葉に、健太はまるで歯軋りをするように、歯をぎりぎりと噛み合せた。

弁蔵は自分の口から、幼児に向けた言葉がすらっと出てきたことに自分で驚いていたが、健太がそれに従ってくれたことのほうが大きな驚きだった。実は今朝、教室でアキマサに泣かれてしまったのはショックだったのだ。小学校の教師にはならなかったが、自分には子どもの相手が向いていないのでは、と早くも自信喪失しそうだったところへ、健太の素直な態度は、ほんの少しばかり気持ちを救い上げてくれたようなものだった。

「健太くん。これは好きですか」

弁蔵は自分のトレイの上にあるサラダの器から、ギザギザに半分にしたゆで卵を箸で取り上げて健太に見せた。

「うん♪」

大きく目を輝かせて頷いた健太の目の前の皿に、弁蔵はゆで卵をのせてやった。

「男前せんせー、ありまとー」

さっそく大きな口を開けて、深深とゆで卵をつきさしたフォークが健太の口に届こうとした瞬間だった。

「バカ! 健太! そったらもの食な!」

健太の手元のフォークが吹き飛んだ。

床には、健太の手元から飛ばされたフォークと、一緒に飛ばされたゆで卵が床で潰れたものと、それからみかんがひとつ転がっていった。

「金太くん・・・・・・」

金太がみかんを投げたのだ。

 

 

教室中がしんとなった。

給食の時間特有の楽し気なざわめきも、食器と箸やスプーンやフォークがぶつかる音も、まったく止まって、皆が多分、床のみかんか、叫んだ金太かを見ていただろう。水を打ったように、という表現があるが、弁蔵にしてみれば、冷や水を浴びせかけられたようなものだった。まるで金縛りにあったような、動くに動けなかった数秒が解いたのは、健太の火のついたような泣き声だった。

「うぇ〇★□◎ちゃ、☆△※が悪、っ#*●■くない、もんっ。うわぁぁぁぁぁん」

涙と鼻水とで顔面はいきなりの鉄砲水、しかしながら顔を隠そうともしない泣き方はいかにも幼稚園児の泣き方だが、弁蔵は勿論(平然とした顔ながらも心で)うろたえることしかできず、健太をすぐに抱き上げにきたのは、幼稚園教諭の生沼だった。

「はい。はい。今のはちぃっと金太にいちゃが乱暴だったげな。だけんど健太も、タマゴって食ってもえがったのかな? ん?」

スオミさんが床に散らばった健太の給食の器と中身を、手にした給食用布巾で寄せ集め、最後に教壇の下にあったみかんに手を伸ばしたとき、弁蔵の手とぶつかった。

弁蔵のほうが一瞬早くみかんを拾いあげ、それをどうしようか手をつかねていたが、スオミさんが細い指をきれいに揃えて伸ばし、手を差し出してくれたので、その手のひらにみかんをそっと手渡したのだった。

「健太くん、重度のタマゴアレルギーなんです。だから」

「・・・・・・ はい」

弁蔵は自分の胸の高さくらいに顔があるスオミさんの目を見て、深く頷いて返事をした。それは、「理解できました」の意味の「はい」だった。

スオミさんの小さな手の上にちょこんと乗っているみかんを、弁蔵はもう一度自分の手に取り直して、金太のところまで歩いて行った。

「金太くん。ごめんなさい」

金太は、真正面から頭を下げる弁蔵に対して、さもバツが悪そうに少し上気させた顔を背けて、みかんも受け取ろうとしない。弁蔵は一瞬迷いはしたが、自分の手の中にあるみかんを金太の机の上に置き、それから言った。

「健太くんに謝ってきます」

そう言って、元の席近く、生沼に抱き上げられている健太のところへ戻って行った。

「健太くん」

生沼は弁蔵よりも少し低い身長だが健太を抱き上げているので弁蔵の目線はほんの少し屈むだけで、健太の顔は弁蔵の真ん前になった。

「健太くん。ごめんなさい。健太くんも、お兄さんの金太くんも悪くないです。私がよく知らないのに、あげるなんて言ってしまって」

健太は泣くのをやめて、弁蔵の顔を見つめた。

「悪かったのは私ですから、もう金太くん ・・・・・・ にいちゃに怒らないでください」

とりあえず、生沼が抱いてあやしていてくれるので、弁蔵は口下手ながらに自分が言える限りの誠意の謝罪の言葉を幼稚園児に述べるのだった。すると、しゃくりあげるのを止めた健太が、弁蔵の顔をじっと見てから、ぐしゃぐしゃの自分の顔を給食用のうわっぱりの袖や手でがしがしと拭い、その手を弁蔵のほうへ伸ばしてきた。生沼は当然の慣れた手つきで健太が行くままに弁蔵のほうに移ることを助けた。小さな子どもを抱くことに馴れていない弁蔵の手つきを、生沼が手直ししてくれた。

「男前先生は、悪くない」

弁蔵の肩口に顔を埋めた健太が、小さな声で言った。

「健太くん」

「にいちゃも、・・・・・・ 悪くない。健太が悪がった」

ずずずっと健太が鼻をすすり上げるからか、生沼が小さなタオルを弁蔵の肩口に当ててくれた。

「さ。みんな、給食の時間が終わっちまうで、早んよ、食{け}」

給食の時間が再開される。

金太が弁蔵にぺこりと頭を深く下げてから席につき、物も言わず給食を食べ始めた。

 

 

放課後、工藤家へ帰ってからも、弁蔵は自室にあてがわれた六畳の部屋に閉じこもって、前任の中川先生が書き記してくれたノートを読み込むことに時間を費やした。給食の後、帰宅したはずの健太は、どうしているか気になって、帰宅したときに真っ先に工藤家の主婦・敬子に尋ねたら、健太はちょうど昼寝をしていた。今日の給食の時間に起きたことを言うべきか言わざるべきか、道々悩みながら帰ってきたが、やはり大事な身体のことなので、自分が健太に卵を食べさせようとしてしまったことを敬子に話し、それは幸いにもほかの人の配慮で口に入る前に止めることができたと話した。

敬子は「食べなかったのなら問題はない」と大らかに笑って言ってくれ、弁蔵に、健太がほかに食べられないものをいくつか挙げて教えてくれた。

ぼすぼす、と襖をノックする音が聞こえた。敬子だろうか。後でお茶を持っていくから、と先刻言われた言葉を思い出して、弁蔵は襖を引き開けた。

「・・・・・・ お茶」

金太が立っていた。

 

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(*1)光村図書 中学2年国語 安田喜憲 著「モアイは語る - 地球の未来」(書き下ろし):書き出しの文章は「君たちはモアイを知っているだろうか。」となっている。

 

 

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