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Tie Little Fingers

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Tie Little Fingers <後編>

「アイドルの映画? 姫が映画撮るのか」
「撮るわけないだろ。そうじゃなくて、アイドル、・・・って言っていいのかどうかわかんないけど、なんとかいう雑誌でグランプリをW受賞した男の子ふたりを主役に据えて芝居作って、それをドキュメンタリーフィルムに撮るんだそうな」
ふたりで一緒に並んでキッチンに立つ。と言っても、調理らしい調理はなく、作り置きを温める作業くらいだ。
昨夜作ったスープを温め直していたら、肩越しに依嶋が覗き込んできたので、小さじで一口食わせる。
「あ。うま。これ、何?」
「百合根。昨日、田代先輩からたくさんもらってさ。茶碗蒸しで使える量ではないしなって思って、スープにしてみた」
細かく砕いた栗をぱらりと散らして。
「ほい。完成」
スープを注いだカップをふたつ、依嶋に持たせる。
「あっちは?」
依嶋がレンジを指差して訊いた。
「オレが持ってくよ」
さっきタイマーが切れた電子レンジから、赤い半球を取り出して皿に乗せてローテーブルのほうへ持っていった。
「トマト?」
「に、冷凍してあったピラフの残りを詰めてチーズをかけただけ」
志野の細皿に一列に並べて、持っていく。うっすらと器の膚に乗ったピンクが、トマトの赤と絶妙の色合い、と自己満足。
「ビールが似合いそうな一品」
依嶋が言うと、実は、と、こっそり持ってきた缶ビールを出す。
「真昼間から飲む気か、ぷーたろー」
「朝寝、朝湯、朝酒。3拍子揃ったな」
「やめとけって」
オレの手から缶を取り上げて、依嶋がキスをくれる。
「飲まないよ。さすがに」
笑いながら缶を再度取り返してテーブルに置きながら、依嶋の腰を引き寄せると、ぴしゃりと手を叩かれた。
「珈琲」
「はいはい」
缶を冷蔵庫に戻して、サーバーとマグカップを持ってきた。
「はい。お待ちかねの珈琲」
並んだマグの湯気が優しく立ち上る。部屋は十分暖かいけれど、二人分の温かい飲み物が寄り添って湯気を立ち上らせる情景が、何より気持ちを幸せにしてくれる。
「さっきの仕事の話の続きは?」
依嶋に要求されて、太市から聞いた話をまずは話す。
「そのコンテストで優勝したふたりの経歴なんだが、コンテストでも、その後の取材記事でも明らかにしていないんだけどな、ちょっと理由{ワケ}ありらしいんだ」
「ワケあり」
「片や年少帰り、片やいじめられっこの引きこもりだとか」
「なんだ、それ」
コンテストの優勝、というきらびやかさに似つかわしくない重い話に、トマトを口に運びかけた依嶋の手が止まる。
「どこまでが本当かはわからない、って太市も言っていた」
トマトを取り上げて、依嶋の口に入れてやる。
「内容が内容なだけに、プロジェクトの関係者になれば、正式に内容も事情も話を開示するってことらしいんだけど」
「そりゃそうだな。どっちの事情も本当ならかなりシリアスな事情だし。太市もまた、どこからそんなややこしい話を持ってきたんだ。第一、舞台って何をやらせるんだ、そんなピカピカの新人アイドルさんたちに」
オレのほうが、ちょっと言い淀むと、その顔を見て依嶋がピンと来たようで、探るような目で訊いてくる。
「俺にも内緒?」
いや、頼むから、そんなに囁くように言わないで欲しい、と思う。
「Collarbone。・・・やりたいんだって。そいつらのプロダクションの社長が」
渋々、白状した。
アメリカのゲイ小説で、かつてオレがオフオフ(*)の舞台として作った素材だ。日本で初演したときには、依嶋を引っ張り出して、イアンとともにポスターモデルになってもらった、オレたちにとっては縁あるというか、いわくつきというか、とにかく良く知っている作品であるわけだ。
ほらみろ。
さすがに依嶋も、一瞬、返す返事に詰まったようだ。
「えーと。でも、その子たちってまだ若いわけだろ。プロダクションの社長は、あれがアメリカのゲイ小説だってわかってるのか」
「まあ、別に舞台でナニするわけでもなし、目指しているイメージが『身毒丸』や『毛皮のマリー』ってところなら、脚本{ほん}次第で面白くなるかもしれないしな」
そう言うと、依嶋がふと気付いた。
「脚本、って、そういえば」
「そう。脚本化と、日本語に訳すのと日本での上演の作者からの許可はオレが持ってる」
正確に言えば、権利を有しているのはイアンだ。だが、イアンから日本語化に関するさまざまな権利はオレに委託されるものとして、法的な契約を結んである。
「じゃあ、もしも姫がその仕事を受けなくても、舞台化するときには姫の許可が必要なんだ」
「まあ、簡単に言えばそうなるかな」
だから困ってる。
親指の爪を歯に当てて考え込んでいると、依嶋に指で口の端を拭われた。
「他に何か問題が?」
「実は、そのプロデューサーと昔トラブった」
苦く笑う。それを見て、依嶋が自分の指を舐めながら、眉をしかめた。
「おまえと揉めるやつなんているんだ」
「そりゃ、いるさ。舞台で役者に怒鳴りもするし、照明にも音響にも」
「そういう話じゃなくて」
トマトを口に放り込まれた。
とりあえず飲み込むと「飲み込むな」と睨まれた。子どもじゃあるまいし。
「いい舞台作るのに怒鳴るのは姫の仕事だろう。でもそれ以外では、結構あちこちに、始終気を遣ってる。見てて時々、そうまでして妥協することないのにって思う」
「人とのつきあいで腹壊すやつに、言われたかないな」
「腹じゃない、胃だ」
もう一個、口に放り込まれた。
「食わせてもらわなくても、自分で欲しいだけちゃんと食うって」
「俺が言うまで、ずっと受身のままだったくせに」
そーゆーことを言うか。
依嶋の口に放り込もうとトマトを手にしたまま、動揺してちょっと固まる。依嶋がその手に食らいついてトマトを横取りする。
どうだ、と言わんばかりの依嶋に、反撃したくて、キスをした。
「油断大敵」
してやったりと笑い、依嶋の頭を引き寄せる。
「そんなに心配しなくても、オレだって、欲しいものはちゃんと欲しいって主張するの」
依嶋が、引き寄せられるままにオレの肩に頭を置いて、体重を預けてくる。
「一応、さ、痛いだろうし、とか、さ。自分がするのはともかく、男にされるのは嫌かもしれない、とかさ。したいって言って、拒まれたら嫌だな、とか。いろいろ悩むところもあったワケ」
依嶋は何も言わない。代わりに、じろりと睨まれた。
「そんなこと、難しく考えるな、って言う依嶋の言い分はわかってる」
本当に?という目を向けられて、小さく、「つもり」と付け加えておく。
「自分でも、そんなの、中高生のガキが好きな女に手を出しかねてるみたいな悩みだって思う。だから、時間は掛かったけど、今日はちゃんとオレのしたいように・・・だろ?」
まだあまり信用してない風の依嶋の口に、皿に残っていた最後のトマトを押し込んだ。
これでブランチ完食。
片付けといっても洗わなくてはいけない食器もそうたくさんは無いので、さっさと片付けてしまうと、暇な冬の週末の午後である。
リビング窓から見た空は、まだ雲の切れ間はない様子だが、雪は降り止んでいる。
「依嶋、何か予定ある?」
ぱらぱらと雑誌を捲っていた依嶋が「べつに」と返事。
「じゃあ、オレ、ちょこっとだけ行ってくる」
雑誌から目を上げて、依嶋が「どこへ」と訊いた。

@@@

「え。橘さん、新潟の生まれなんですか」
どうぞ、と勧められて湯飲みを手に取る。
「そう。ですからね、雪掻きは馴れたものですよ。東京の人たちには負けません。とはいえ、東京に住んでもう40年近くになりますから、へっぴり腰より多少マシだって程度になっちゃいましたかね」
だから手伝ってもらえて助かった、と柔らかい笑顔で礼を言われた。
マンションのゲートからアプローチを通ってセキュリティエントランスのところまでの雪は、膝丈まで積もっていた。だが、これは、マンションの管理人である橘氏が、早朝に一度、雪かきを済ませた後に降った分だ。朝昼ごはんを済ませた後、ふと外を見ていて、そういえば、これだけ雪が降ったら雪掻きが必要だろうと、依嶋と一緒にマンションの1階クロークの管理人である橘氏を尋ねたのだ。橘氏は依嶋の父親の古くからの知り合いとかで、依嶋のことも幼い頃から知っているらしい。そのため、普通の住人と管理人よりは昵懇なのだが、さすがにこの雪では一人ではさぞ手に余るだろうと思ったのだが、橘氏自身が口で言うほどこちらが果たして手助けになったかどうか。
「朝、気付かなくてすみませんでした」
「いやいや。姫ちゃん、何を言いますか。私の仕事なんですから、お気遣いなく。それにしても、午前中だけでも随分降りましたねえ。土曜日なので出かける方も少なかったようですが、おふたりも週末だからゆっくり朝寝坊ですかね」
そういわれて、内心赤面ものだが、そこは適当にふたりとも生返事をしておいて、怠惰な週末の朝を肯定したと思ってもらう。
「姫は今、プータローなので何でも使ってやってください」と依嶋が茶化してオレを示して言うと、橘氏が、おや、という顔をした。
「新しいお仕事、厳しいですか」
「まあ、自由業ですから。あちこち営業頑張るだけですね」
橘氏が、実は、と切り出した。
「去年、従兄の息子が独立して、養成所とかいうものを作ったらしいんですが、案外順調で生徒の数を増やしたいらしいんです。それで稽古をつけてくれる演出の先生が欲しいって話なんですが、姫ちゃんはそういうお仕事はされないでしょうか」
まさに瓢箪から駒な話で面食らう。
「やっぱりだめですかね」
「いえ。その、正直言って、考えたこともない仕事なので」
「だめですか」
「だめ、と言いますか、その方は、オレなんかよりももっと経験豊かな演出家を期待されているんじゃないでしょうか。それと」
今の養成所は、舞台よりもテレビ向けタレントを養成するのが主流だから、というと、橘氏は明らかにがっかりした表情だったが、「従兄の息子に話すだけ話してみてもいいか」とのことだったので了承した。
橘氏のところで小一時間雑談をして、辞去したときには、すでにまた雪が降り出していた。
明日の朝、雪掻きに来る約束をしてエレベータに乗る。
「おつかれ」
「うん。依嶋も」
エレベータにふたりきりになると、なんだか少しこそばゆい。対角線に立って、ふたりともが階数表示のデジタル表示を見つめる。
誰も途中で乗って来ないのに、必要以上に距離を空けて立ってしまうのは、なんとなく、今朝から変化があったばかりの自分たちの距離にまだ馴染めないでいるせいかもしれない。自分たちの部屋がある階に着いて、エレベータの箱から降りる際に指が触れ合う、その指に感じた熱さをなんとか掌に握り込んだのに、鍵を開けて玄関に入ると、思わず依嶋の指を掴んでしまう。
「――ごめん。なんでもない」
振り返った依嶋の驚いた顔に、咄嗟に指を離して靴を脱ごうとすると、依嶋が背中から抱きついて顔を寄せてきた。
「いくらなんでも、朝からまた、ってのは、早いんじゃないの」
言い聞かせるように区切りながら言われて、顔がかっと熱くなる。
このやろう、と腕を振りほどいて振り返ったら、逃げ足も速く、依嶋がリビングへと逃げ込む。追いついてヘッドロックを掛けて、ソファへと倒れ込むと、着たままのスタジャンのポケットで携帯が鳴った。
「ほら、姫、電話電話」
「うるせー」
後ろ手に人の上着のポケットに手を突っ込んで、鳴り続けている携帯を取り出し、目の前にぶら下げた。
「ほら。邪険にしない。仕事の話かも」
携帯をひったくって電話に出る。
「もしもし。はい。姫路です」
依嶋が笑いを噛み殺している。
電話切ったら覚えてろよ。
「え?」
憶えの無い名前を名乗られ、ぽかんとしながら応対していたら、「橘の親戚です」と説明され、ようやく分かった。
「はい。あ、えーと、大丈夫です。お伺いできます。っと」
周囲に視線を巡らせると、依嶋がボールペンとメモ用紙をくれた。
相手が言うとおり、住所と電話番号を聞き取って、書き留める。復唱して、挨拶をし、電話を切ると、思わずため息が漏れた。
「押し切られたのか」
依嶋が尋ねる。
「いや。それほどでもなかったんだけど、押しが強いタイプであることは間違いないかな。橘さんがどういう紹介をしてくれたのかわからないけど、結構乗り気になっちゃってて」
「こういう仕事ってさ、やりたくないものなの?」
「いや・・・さっきも橘さんにも言ったように、やったことがないことだからさ、わからないんだ。自分にできるのかできないのか」
「芝居で演出をつけるのとは違うのか」
「違うと思うな。テレビや映画の演技と舞台のは違うし、演出をつけるのと、演技を教えるのも全然違うから。まあ、明日、会ってみるよ」
「いきなり明日なんだ」
何か気懸かりなのか、曇った顔で言う。
「一緒についてくる? 明日の7時。渋谷」
「まさか。父兄同伴で面接って言われたわけじゃないだろ?」
「誰が父兄だよ」
笑う依嶋の頭を押さえる。頭を避けて逃げた依嶋が、逆にオレの後頭部を押さえ込んで頭を抱きかかえた。
「そうじゃなくてさ」
笑いを止めて、依嶋が優しい声で言う。
「無理に嫌な仕事を引き受ける必要はないからな。Collarboneの舞台も、養成所の仕事も」
依嶋の肩に頭を預けて、少しほろっと来る。オレって、一応はプータローなのをこんなに気にしてたんだ、と改めて自分に思う。慌てて平静を装って「当分、おまえのヒモでもいいってことか」と、ちゃらけておく。
「ヒモはヒモらしく、美味しい珈琲でも入れるんだな」
後頭部を軽く叩かれ、笑って命じられた。
「今日、何杯目だよ」
「俺、まだ朝昼ごはんのときの1杯しかまともに飲ませてもらってない」
そうだっけ?と依嶋の胸から離れる。と、肌が離れると肌寒いのを感じるほどに、室温が下がっていた。ふと窓の外を見ると、重い灰色の空に雪がまたちらつき始めている。
「どうした」
もう一度依嶋の腕の中を掻い潜って胸元に唇を当てると、依嶋が不審がった。
「んー。随分気温が下がってきてるなと思って」
「で?」
「こうしてると温いなー、と」
「人をアンカにするな」
口ではそう言いつつ、依嶋の腕が背中に回される。
「こうしてると珈琲が飲めない」
「こうしてると入れられないからな。入れる気はあるんだけど」
「なるほど」
ぱん、と臀を叩かれ、腕が解かれる。
「珈琲が飲みたい」
「はいはい」
気持ちが温かくなると、肌に感じる温度まで変わる。
ソファに依嶋の笑顔を置いて、湯を沸かしにキッチンへと立った。

@@@

「依嶋、明日、夜、どうする?」
ひょい、と依嶋のベッドを覗くと空だった。
「あれ?」
「こっち」
「なんだ。オレのほうのベッドか」
ちゃっかり毛布に包まって、寝転んで雑誌を捲っていた。
「こっちのほうが朝陽が入らないから、明日の朝、ゆっくり眠れると思って」
雑誌の頁から目も離さずに言う。
ふーん、と、頭を拭いていたバスタオルを衝立に掛け、ベッドの上にまずは座る。
「で、明日の夜、どうしよう?」
もそもそとTシャツを被りながら再度訊ねるが、生返事が返ってくるだけである。
「おーい」
依嶋の背にうつ伏せる。
「重い」
「あしたのよる」
観念した依嶋が振り返り、オレの肩を両手で掴んだかと思うと、ベッドに押し倒される。
「新宿だろ。終わるの待ってるから、どこかでメシ食おう」
そんな約束を口にしながら、ゆっくりと顔が降りてきた。
着たばかりのTシャツを、早速脱がされる。
「着ないほうが手間が省けたのに」
「そういうもんじゃないだろ」
クスクスと笑いながらも、脱がすのも醍醐味か、とかなんとか言いつつ、お互いの手は怠けてはいない。ふたりして毛布の中でくっついてキスを繰り返しては、せまいセミダブルのベッドの上でころころと転がり、勢い余ってベッドから落ちた。
「あいたー」
したたかに頭をぶつけたのはオレのほうだったが、口に出して言ったのは依嶋だった。当人のオレは目から星が出るという形容がぴったりの痛みで、声も出ない。
「ぶつけたのはオレだぞ」
依嶋がオレの体の上から起き上がってベッドに座る。
「バカだな。俺を庇って受身を取るからだ」
そうか。バレてたか。
依嶋が差し出した手を握って起き上がった。そのまま依嶋の両肩をシーツに押し付ける。
「日がな一日、こんなことばっかしてる気がする」とオレが言うと、「プータローっていい身分だな」と笑われたので「オレひとりでできることじゃないんですけど」と口を塞ぐ。笑う依嶋の、小刻みに揺れる喉に口付けていて気づいた。
首を射竦めて、喉に必要以上に力を込めて、平気そうな顔をしながら閉じた口の中は、どうやら歯を食いしばっているらしい。
こうなると、ちょっとした悪戯心が湧いてきて、つい、丹念に喉を責めてしまう。最初はただ優しく髪に指を入れてた依嶋が、途中でオレの意図に気づいたらしく、指に巻きつけた髪をぎゅうと引っ張り始める。それでも無視していると明らかに抵抗を示してきて、しまいに頭を両手で挟まれて引き剥がされた。弱点だとは口にしたくないらしい依嶋に睨まれる。
「卑怯者」
「なーにが?」
みえみえのしらを切って、つい、笑みを零してしまったら、それが悪かったのか、依嶋に頭を引き寄せられて、キスをされながら身体を組み敷かれた。
「卑怯者」
もう一度繰り返して同じ言葉を言われたが、その顔はさっきと違って笑っている。
「まあね」
さっきとは違う返事をこちらも笑って返して、胸を合わせて抱き合う。抱き合うごとに、互いの体温が馴染んでいくように思える。体格はそう変わらないというのに、まるでイヌかネコのような小動物を腹の上に乗せているようなやすらぎと心地よさを依嶋の体温に感じて、気を抜いていると、依嶋にうかうかと主導を取られてしまう。
煽られて、追い立てられて、欲が出る。依嶋の頭を押さえ込みそうになり、髪に伸ばした右手を握り込む。シーツを掴んだ左手を依嶋の手に握られた。その手を掴んで、依嶋の身体を引き上げて抱きかかえる。
寝室の低い室温の中、シーツの冷たさと自分たちの体温の高さのギャップを皮膚が冷静に知ることがでるのは、身体の芯に熾っている欲だけが熱で暴走しているからかもしれない。
名前を呼んだような気もするし、咄嗟に「ごめん」と言ったような気もする。恣{ほしいまま}に依嶋を組み敷いた。
冬のこんなに冷えた部屋で、互いの汗のにおいが濃くなった気がした。

@@@

依嶋から離れて、大丈夫か、と重い口で、聞き取れないかもしれないほどの小さな声で訊ねる。
なんともバツが悪い。こんなに自制が効かなくとはなる何も言い訳ができず、急速に汗が体温を奪って冷えていくが、毛布を被ることすら厚かましい気がして、依嶋に毛布をかけるので精一杯になる。
あーあ、と思い、ため息をついたら、「ばーか」と依嶋の声がした。
「姫に落ち込まれると、俺のほうがものすごーく、悪いことをしかけた気分になる」
その通りなんですけど、と思いつつ、勿論、そうだと言えるわけもなく、前髪を掴んで膝の上で肘をつき、僅かに口許を引き上げてなんとか笑う。苦い笑いだが、致し方ない。
「あのままだと、おまえがまた『遠慮』しそうだったから」
うつ伏せて、枕元に転がっていたオレの眼鏡に手を伸ばし、依嶋が言う。依嶋がオレを振り向き、オレが依嶋を振り向いて、目が合うと、依嶋も口の端を少しだけ引き上げて笑って見せた。
両手で顔を覆ったまま、後ろに倒れこむ。顔を拭った両手で髪を掻きあげて、ふう、と息を吐いて、依嶋のほうを見た。
「ごめん」
眼鏡で遊びながら依嶋がこちらを向いて片眉を上げた。
「無茶をした。・・・悪かった」
べつに、と歯切れも悪く依嶋がうつむく。手の中の眼鏡で手持ち無沙汰を紛らわせているようだ。
「・・・名前」
「え?」
「名前を先に呼んだほうってことにしよう」
眼鏡を寄越せと手を出すが返そうとしない。
「名前?」
「そう。姫が俺の名前を呼ぶより先に、俺が姫の名前を呼んだら、その日は俺」
「名前ったって、だって、普通に呼ぶだろーが」
「下の名前。家の中でしか呼ばないだろう。お互い」
そう言って、自分のほうを向くように指で呼び、オレの顔の上に眼鏡を乗せてきた。
「悠日」
そう言って、オレの左腕を取る。腕時計を覗き込んでにやりと笑って見せた。
「日付変わって日曜日になってるから、日曜日は俺ね」
「えっ?」
「日付、って、ちょ・・・今言われて、今すぐそんな。依嶋、おまえ」
「月曜日からがんばってみたら」
「がんばる、って、おい・・・」
腕時計をつけている左手を力いっぱい引っ張られて、体ごと引き寄せられて歯がぶつかるように勢いよくキスをされた。
「依嶋!」
「その名前で何度呼んでもノーカウント」
もう一度、頭を抱き寄せられて、今度は長く唇を合わせてくる。さっきの性急さとは違い、ゆっくりと、丁寧に、舌で味わうようなキスをされる。離れかけた依嶋の顎をこちらから捕まえに行って、そのままキスを続けた。
「悠日」
キスの途中で、息継ぎのように依嶋が口にする名前にどきっとする。依嶋が言っていた、オレに下の名前で呼ばれるとどきっとするという気持ちが少しわかったような気がした。自分の名前なのに自分の名前でないような、不思議な艶かしさに驚く。
「おまえが俺の名前を呼ばなければ、ずっと俺だからな」
依嶋がオレの上になって、宣戦布告とばかりに笑みを浮かべて言う。科白とは裏腹に、手はオレの髪を優しく梳きあげているが。
その手を捉えて、反対の手を背中に回す。
さっきのがなけりゃ、それでもいい、なんてかっこつけてたかもな。
そんな言葉を耳元で告げてみる。
おや、という顔で依嶋が顔を上げた。
「月曜日は絶対オレな」
「名前、先に呼べたらな」
ものすごく上から目線で言われて、悔しくて仕方がないので、せめてとばかりにキスの主導権だけでも握ろうと依嶋をもう一度引き寄せた。
耳元で囁かれる。
でも、
俺も、
姫に抱かれるのは嫌いじゃない。
目配せするように微笑まれる。
――なんか、めちゃくちゃ悔しいんですけど。今日は俺、とか言われながら、こんなことまで言われて。
腕時計のアラームを23時59分に合わせようとしたら、依嶋に腕時計を取り上げられた。

 < End >

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