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雨中感歎號 (十)

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雨中感歎號 (十)

「今度は食えそうか」
「うん」
「粥でいい?」
「好好{いいよ}」
阿Bの腿の傷に、ビニール袋を巻きつけてテープで水が入らないよう塞ぐ処置を施しながらエリックが尋ねる。どうしても沖涼を使いたいと言うのも道理かと、さすがにエリックも承知した。城砦を出て以来、初めて男を受け入れた、と阿Bがぽつりと言った。
阿Bが沖涼を浴びている間に、エリックが食事を買いに出る。
戻ってくると、阿Bが自分で腿のビニールを外しているところだった。
「濡らさなかったか」
「濡らさなかったよ」
こういうときのムッとした表情は好きだな、とエリックは思う。諦念に押しつぶされた、悟りきったような表情より、子どもっぽさがいい。まるで佢がどこかへ置き忘れてきた無邪気さが見え隠れする。
笑いを噛み殺しながら、エリックは手提げ袋から粥の容器を取り出し、蓋を開けて粥に油条を割りいれる。阿Bの粥にも入れようとすると、阿Bが慌てて叫んだ。
「你停喇{やめてくれ}!」
「何? どうして?」
「好きじゃないんだ、それ」
「おまえ、・・・本当に香港人か?」
出前一丁のときと同じことを言う。香港人の味覚をどこかへ置いてきたんじゃないか、とぶつぶつ言いながら、エリックは阿Bの分の油条も自分の粥の容器へと割り入れたのだった。
粥をおいしそうに食べる阿Bを、エリックは、今度は笑みも隠さずに見ていた。
「痛みは?」
「まだ薬は欲しいかな。でも、我慢できないほどじゃない。飲まなくてもなんとかなると思う。エリック、考試は?」
「明日は土曜日。朝になっても熱が上がってなければ、你の楼{アパート}の様子を見に行くか」
「一人で行くよ」
ムッとする阿Bにエリックが笑う。
「傷口が開いたらすぐに縫ってやるよ」
もうあんな痛いのは真っ平だ、と言うのをエリックが笑って受けるのを見ながら、阿Bは心中、穏やかではなかった。何かが引っかかるのだ。
「エリック、你、あのとき」
「うん?」
食べ終わった容器を片付けていたエリックの背中に訊ねかけたが、振り返って問い返す顔が余りにも屈託なく、阿Bは何も訊けなくなった。
阿Bの唐楼で、待ち伏せしていた男仔たちは、あのとき、エリックを目当てにしていたはずだった。それに、その前には、通りを誰かに追いかけられていたのではなかったか。
「どうした。そんなについて来て欲しくないか」
「あ。いや。そんなわけじゃ」
そっちこそ、本当について来て大丈夫かよ、と胸の中で呟きながら、爪を噛んで誤魔化した。

◆◇◆◇◆◇◆

やっぱり、エレベータなしの5階なんて最悪だ、と、階段一折れ分下からぼやいて上がってくるエリックを笑って振り返ったときだった。
「わ!」
「Watch out!」
落ちてくる阿Bを受け止めて、エリックが尻餅をついたとき、上のほうから声が落ちてきた。
「阿Bか? そこ、気をつけろー」
遅いよ、と阿Bが叫ぶでもない声で言って、下敷きになったエリックに謝って起き上がった。
「大丈夫か? 傷は?」
「・・・響いた」
左腿に手を当てて蹲る。
暫く痛みが治まるのをエリックも立ち尽くして待っていると、階上から男が降りてきた。
「どうした? 怪我でもしたか?」
「どうせなら、踏む前に言ってくれよ、夜霧さん」
「足音がしたから注意したんだが、遅かったか。――怪我したか?」
「これは違うよ」
エリックの手に助けられながら立ち上がった阿Bが、痛みを堪えながら、手すりに縋って階段を上がる。
「じゃあ、その怪我は『これ』が原因か?」
夜霧と呼ばれた男が、下半分が蹴破られた扉を指差した。
「驚いたぞ。この壊れ方だし。何があった?」
「ちょっとね。それより夜霧さん、どうして我の唐楼{アパート}に?」
夜霧が少しだけ周囲を窺うような素振りを見せて、声を落として言った。
「許が死んだ」
「死んだ? 許経理{マネージャー}が?」
阿Bがぎょっとした貌をする。
「それで、你のことが心配になって来てみたんだ」
「我? 點解呀{どうして}?」
あ、そうか、と阿Bが自分で気がついた。
「夜霧さん、我、翡翠を辞めたんだ。許経理に辞めろって言われて」
「それは美紅から聞いた。だから来たんだ」
「美紅に? でも、どうして我?」
阿Bが繰り返してわけを聞いた。
「許は殺されたって話だ。犯人はまだ捕まっていない。となると、直前に店を辞めた你は疑われる要素がある」
「そんなこと言われても」
「冗談じゃなく、そのうち、警察が訪ねてくるかもしれないぞ」
「ここがもぬけのカラとなると、尚、疑われるかも」
エリックが初めて口を挟んだ。
唔該、と阿Bがようやく気づいたように、夜霧にエリックを紹介した。
「珍しいな。おまえが誰かとつるんでいるのは」
「そう、かな」
少し考えて、「うん、そうかもね」と頷いた。
「蘭桂坊の翡翠{ジェイド}っていう夜總曾{クラブ}で仕事してたんだ」
エリックに阿Bが説明する。
「ビデオ屋と掛け持ちで?」
「係呀{そう}。どっちも夜霧さんが紹介してくれて。あ、夜霧さんは」
「城砦で、你に読書{べんきょう}を教えてくれた人、だな」
夜霧の頬が、少し綻んだ。
「なるほど。本当にちゃんと朋友{ともだち}らしいな」
阿Bの昔の話を聞いていることが判断材料になったらしい。夜霧がエリックへの警戒を解いて、手を差し出した。
「エリック・藩と言います」
夜霧は名乗らず、手だけ握る。
「夜霧先生{さん}、で、いいですか」
フルネームを名乗らない夜霧に、エリックのほうからそう訊くと、浅く頷いて返しただけだった。年齢も良くわからない。まだ若いのか、そこそこ年がいっているのか。――本当に、日本人なのか。
「何か盗まれてないか、確認しろよ。これ、いつ蹴破られたんだ?」
「一昨日、だっけ」
阿Bが部屋の中へ入っていった。続いて夜霧とエリックも部屋に入る。部屋の中は、幾分散らかってはいるものの、椅子が倒れていたり、テーブルの上に雑誌が散らばっていたり、多少ベッドが乱れている程度だった。
「この階にはうちの部屋だけだったから、騒がれもせず済んだかも。このまま部屋で話す? 扉はないけど」
阿Bが椅子を起こしながら「椅子も人数分ないけどね」と言う。
部屋を見回して、夜霧が何やら様子を伺いながら、最後に窗から落ちたブラインドを拾ってため息を吐いた。
「どこか外へ出よう」
「あ。それを壊したのは美紅・・・」
「美紅?」
夜霧の眼が訝しげに阿Bを睨む。
「美紅をこの部屋に入れたのか」
阿Bが、しまった、という貌をする。
「佢{あいつ}に深入りするなと言っただろう」
「夜霧さんと美紅が知り合いだなんてわかる前だったんだよ。家に入れたのなんてその1回きりだから。唔挂住{心配しないで}・・・」
至近距離で夜霧に睨まれて、阿Bが肩を竦めた。
胸倉を掴んだ阿Bの衫{シャツ}から手を離して、夜霧がふと思いついたらしく「修理は房東{大家}に連絡したか」と訊ねる。
「未呀{まだ}」
「連絡しろ」
夜霧が投げてきた手機{携帯電話}を、阿Bが慌てて受け取った。
「『房東 馬』で登録してある」
「大丈夫。號碼{ばんごう}覚えてるよ」
「覚えてる? 部屋を借りたのは1年以上も前だ。あの後、何か連絡でもしたか?」
「いいや。覚えてたらヘン?」
「――いや」
夜霧が少し考え込むふうなのがエリックの眼に止まる。が、すぐに手機のプッシュボタンを押し始めた阿Bに向かって、特に屈託もなく夜霧は忠告した。
「ああ、自分が壊したなんて間違っても言うなよ」
「え? じゃあ、どう言えば」
「仕事から帰ってきたら壊れてたって言えばいいだろう」
「嘘つけって?」
「自分で壊したっていうなら、修理代は当然你持ちだ」
「そんなのごめんだ。壊したのは阿友なのに」
ぶつぶつと言いながら、手機で電話を掛ける。
房東はすぐに出たようで、阿Bが不慣れな様子でやり取りを始める。
その間を盗んで、エリックは夜霧に訊ねてみた。
「夜總曾の経理{マネージャー}が殺されたって、どういうことですか」
「一昨日の夜、店で何者かに刃物で殺されたらしい。昨日の朝、掃除人が見つけたんだ」
「一昨日、っていうと、ここでひと悶着があった・・・」
「同じ日だな」
エリックの言葉に頷きながら、夜霧が煙{たばこ}を咥えた。
「阿Bが許に夜總曾を辞めるよう言われたとかいう、その日の夜、でもある」
「・・・偶然?」
「さあね」
エリックは胸の裡に広がる不安に動揺しているが、夜霧は、と言えば、火のついていない煙を咥えたまま、口で上げ下げしてにやりと嗤う余裕すら見せた。
その余裕にエリックがムッとすると、夜霧は煙を指に戻して眼を擦り、今度は真面目な貌で言った。
「いいか。あのバカを夜總曾に近づけないでくれ。『偶然』ってのは、『魔術{まほう}』と同じくらい、信じちゃいけない言葉ってのが我{おれ}の信条なんでね」
当たっている、とエリックは思った。同時に、夜霧への信頼感も生まれる。頼もしさとでも言えば良いだろうか、この男の言葉に従ったほうが良い結果が望めるであろうと思わせられる。
「乜嘢呀? 魔術?」
阿Bが手機を夜霧に返しながら言うと、夜霧は外へ出るよう促した。どうにも、部屋の中は落ち着かないようだ。
「着替えは取ってこなくていいのか」
「あ。そうか」
エリックと阿Bのやりとりに、夜霧が訊ね顔を向けた。
阿Bがそんな夜霧に、着ている衫の裾ををつまんで見せる。
「ちょっと怪我をして、エリックの服を借りてたから」
「ああ。それでブカブカなのか。で、房東はなんて?」
「扉が修理できたら連絡くれる、って」
「金は?」
「ぶつぶつ文句言っていたけど、払わなくていいって」
「有板有眼{上出来}」
夜霧が阿Bの頭をぽんぽんと叩いた。
「修理できるまで、うちにくるか」

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