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雨中感歎號 (八)

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雨中感歎號 (八)

また、とんでもないところに行くもんだな。
的士{タクシー}の後部座席で、エリックは声に出さずに裡中で呟いた。阿Bが指示した的士は、ザ・ピークと呼ばれる高級住宅街へと向かっている。金のある外国人(主に欧米人)や香港の金持ち、こと芸能関係者の別荘が多い地域だと言われている。
隣には、何も言わずに座っている阿Bがいる。これでも、的士に乗るまでがすでに随分揉めたのだ。ついて来なくていい、一人で行ける、これ以上世話は掛けられない、なんでそんなに構うんだ――最後には、「好きにしろ」と言ったきり無言になった。
具合が悪いのも手伝っているのだろう。上気した少し朱い頬は、熱のせいなのか、強引についてきたエリックに対して怒っているからなのか。
「あの・・・。もうすぐ門に着きます」
的士の司機{運転手}が遠慮がちに言う。
「門の中へ入って、邸の門口{玄関}までつけて」
阿Bが窓の外を見ながら告げた。窓の外は山頂{ピーク}への山道が、目にも爽やかな初夏の緑に溢れているが、車の中は阿Bが黙っているだけで重苦しい動靜{ふんいき}だ。
「門の中へは入るな、と、いつもあの邸の執事には言われますが」
「ライトを2回点滅させて、アッパーで3回。それで門が開くから門口まで行ってくれ」
自動門の開け方を口にすると、司機ももうそれ以上何も言わなかった。阿Bの無愛想さに合わせてか、「OK啦」とぶっきらぼうに答えるだけだった。
やがて見えてきた邸宅の門は、果たして、阿Bの指示通りのライトの点滅で開き、的士の司機は、一度ちらりと阿Bを振り返って様子を伺う素振りを見せたが、阿Bが目を瞑ったまま何も言わないのを見ると、そのままカーブしたアプローチに沿って、邸宅の門口に向けて車を進ませた。
エリックにしても、阿Bに聞きたいことは山ほどある。城砦で育ったと言っていた、読書{勉強}もろくにしていないとも言っていた、そして、体を売っていたと言っていた阿Bが、だ。自殺未遂した媽を訪ねるのに、高級住宅が建ち並ぶピークへ来たということ、そして、そのピークの邸の門を開ける方法に通じていること、そこにはおそらく一言では説明できない事情があるのだろうということだけは推測される。
人の事情はそれぞれ、だが。
誰もが複雑な気持ちは心の中に押し込めて生きているものだろうから、敢て暴こうとは思わない。両の腕にあるように、阿Bが数え切れない傷を持つことを知ってしまった今となっては、傷の扱いを考えてやるのが先決で、傷ができた理由をあれこれ詮索することはむしろ、傷口をこじ開けるようなものだとエリックは理解している。
「阿B。我はこのまま的士で待っていようか」
阿Bが的士を降りようとしたときに、エリックが提案した。振り返った阿Bは、少しだけ笑って、ため息をついた。
「いや。中へ入って。長くはかからないけど、的士で待っててもらってると思うと落ち着かないから」
いくつなんだろう、と、今頃になって、ふと思う。
細い体つきが少年のように見えるが、今のように諦めた笑いは、えらく年を経た年功者にも思える。その笑みの裏側に深く翳を落としているのは、佢が自分で口にした生い立ちと、このピークの邸宅との間にある掛け隔たりのせいだ。
阿Bの心はすでに邸の中にある心配事へと向いているのだろう。それきりエリックを振り返らずに車を降りた。
「お帰りなさいませ」
的士から降りると、黒いスーツを身に着けた年配の男が出迎えていた。
阿Bが何か言うより先に、男は「二階のいつものお部屋です」と告げ、阿Bもただ頷いて邸に入る。
「佢に、待っててもらって・・・」
阿Bが黒スーツの使用人に言いつけかけたところへ、1階の廊下の奥から眼鏡を掛けた青年が出てきて、端的に一言。
「誰だ」
青年を無視して、阿Bは使用人に言う。
「友人なんだ。どこか部屋で待っててもらう」
「知らない人間を家に入れるな」
青年の容赦のない無遠慮な言い草に、阿Bは明らかにムッとした。
「エリック、じゃあ、我と一緒に」
まっすぐ階段へ向かおうとするが、傷が痛んだようで顔をしかめた。目が合ってしまったスーツの使用人の男にエリックは軽く会釈して、阿Bに手を貸して、一緒に階段へ向かおうとした。
「お怪我を?」
心配そうに覗き込む黒スーツとは対照的に、眼鏡の青年が冷たい声で、まるで事務作業を命じるように告げる。
「ジェイムズに診せろ」
ジェイムズと呼ばれた黒スーツが、阿Bに手を伸べようとすると、阿Bはすかさず制した。
「你不管喇{構うな}。佢は醫生{いしゃ}だ」
エリックの腕を借りながら、阿Bはエリックを2階へと促した。
嫌な空気を知りつつも、阿Bの言葉に従って2階へと階段を上がるエリックの耳に、青年の低いつぶやきが背後にぽろりと落ちた。
「醫生だと?」
思わず振り返ると、青年と一瞬だけ視線が絡んでしまった。余りにも強い意志の籠っていそうな視線に、エリックはかろうじて受け止めるだけしかできない。出来るだけ、佢の逆鱗に触れないように、とフェードアウトするように目線を足元へと落とす振りで、青年から視線を外した。
2階に上がると、目当ての部屋の前で、阿Bが済まなさそうにエリックに言った。
「エリック。申し訳ないけど、すぐに終わるからここで」
「わかってる」
阿Bはエリックの肩から手を離し、壁を代わりに支えにするように伝いながら、僅かに開いているドアの中へ滑り込む。ドアは閉めなかった。
やがて、部屋の中から、かずかに女性の声がし始める。
―― ボウイ・・・
一方で、エリックの目に、階段を上がってくる火仔が映る。
―― 阿B。ここへ来ちゃいけないって言ったでしょう?
「阿媽{かあさん}」
―― 早く帰りなさい。火仔に悪いわ。
聞き耳を立てているつもりも素振りも見せなかったが、ドアの横にいるエリックを睨みつけて部屋へ入っていく火仔は、静かにドアを閉めきってしまった。
重苦しい空気から遮断されて、むしろ呼吸がしやすくなった気がするエリックが、ほっとため息を漏らすと、続いて階段を上がってくる先ほどの黒いスーツのジェイムズがお茶のトレイを捧げて上がってくるのと目が合ってしまった。
「隣の部屋へどうぞ。続き間になっています」
「いや、我{ぼく}はここで」
「お待ちいただくように、と器廣様が仰いましたから」
器廣様、が誰だか、一瞬わからなかった。
が、阿Bのことだと気づくと、エリックは自分で自分に頷いて、それからジェイムズに改めて固辞しようと口を開きかけると、相手から先に話の矛先を変えられた。
「器廣様はお怪我をされたのですか」
そのまま、お部屋へ、と促される。巧みな話法だ。ドアを開けられて、阿Bたちがいる隣の部屋へと招じ入れられてしまった。
「お怪我の具合は?」
「足を少し縫いました。ほかには、縫い傷ではありませんが、わき腹に切り傷を」
「あなた様が?」
手当てをしたのか、と声の外で質問を続ける目がこちらを見る。
使用人であることは間違いないが、所謂、執事なのだろう、と思う。言葉巧みに話を誘導し、かつ、自らは言葉を皆まで言わないで控える。相手が言葉の続きを話すように仕向けるのだ。
「ええ、まあ」
香港の醫生牌がないことはつつかれたくないので、言葉を濁す。阿Bの手当てで金を取ったわけではないから違法云々でもないが、執事は深くは追求しなかった。
「阿B」
ドアで区切られていないコネクティングされただけの隣の部屋から、火仔の声が阿Bを呼ぶ声が高く聞こえた。執事も僅かながら眉を動かした。
続いて、大きな音を立てて扉が開き、荒々しく蹴立てて出て行く足音が聞こえた。
エリックも慌てて立ち上がって、追おうとすると、執事に穏やかに留められた。
「お急ぎにならなくても大丈夫です。器廣様は、階下の部屋に行かれたのだと思います」
「?」
「妹様が」
「妹?」
隣の部屋から、決して騒がしくはないのによく通る声で青年が執事を探すらしき声がし、すぐに追っ付け、青年本人がこちらの部屋へと大股でやってきた。
「ジェイムズ」
「・・・失礼いたします」
名前を呼ばれただけで、即座に青年の要求を心得て、ジェイムズはエリックに断りの意を示して隣の部屋へと行った。
「ジェイムズ。エイニーに温かいお茶を」
青年が命じる声に応える執事の声は、エリックにまでは聞こえない。不用意に大きな声は出さない。見事にイギリス風の執事だな、とエリックが感心する。
お茶に口をつけることなく、エリックは席を立って廊下に出た。階段を下りようとすると、後ろからよく通る声で止められる。
「ここで待っていてくれ。佢{やつ}が帰る前には必ず声をかけさせる」
それで文句は無かろう、と、いかにも命じる口調にムッとしたエリックだが、止むを得ないということは分かっている。
「知らない人間に、屋企の中を勝手にうろつかれるのは好きじゃない。悪く思うな」
言い捨てるように言うと、後も見ずに青年は階段を下りていく。
「仕方ない、か。招かれざる客だろうし」
ひとりごちたエリックの言葉に返答することなく、執事のジェイムズが「お茶を入れ直しましょう」と声を掛けてきた。
「お構いなく。あ、ひとつだけ」
ネガティブな表情ではなく、わずかに眉の動きだけでジェイムズは控えめな返事そしてみせた。
「妹というのは、『アイリーン』?」
ジェイムズは一瞬考える風を見せたが、すぐににこやかに、声のないお辞儀をして応えた。そして、この邸の主人からの要求とすることは、使用人としてはっきりと、しかしとことん柔らかな語調で客に告げる。
「器廣様には、お帰りになる前に必ずあなた様がこちらでお待ちであることをお伝えします」
主人と執事とに念押しされてて、仕方なく頷いて、エリックは部屋にもう一度入った。しかし、ソファには座らず、隣の部屋との堺に近寄り、ベッドの上を見る。顔はよく見えないが、阿Bと同じように薄い身体がベッドに横たわっているようだ。
あれが、阿Bの――媽。
媽は自殺を図った、と言った。なのにあれほど阿Bが動じないのは、これまでにも未遂歴があるということだろう。それも、1度や2度ではない。それにあの媽は、阿Bに対して「火仔に悪いから帰れ」と言っていた。
この女性が、ずっと阿Bを育ててきた母親なんだろうか。だとしたら、この女性が――。
「エリック」
阿Bが戻って来たことに、エリックは全く気づいていなかった。
エリックが媽を凝と見ていることに、何を考えているのか想像がついたのだろう。
「エリック。帰ろう」
ぐい、とエリックの腕を引く。
「妹のほうはいいのか、もう」
阿Bが、「ジェイムズの野郎か」と舌打をしながら、質問には応えないまま、的士を呼んでもらうから帰ろう、と頭を押さえて繰り返す。
「どうした。具合が悪いか」
「帰ろう」
ああ、また、この表情だ、と思う。
諦めてしまった、苦い笑い。これ以上何も訊かないでくれ、という表情。そして、自分もこれ以上何も望んでいないから、という、消極的な拒絶。
ようやく触れかけたと思った阿Bの体温が、すっと遠のいてしまったような感じがする。
「器廣様。車でお送りします」
「的士でいい」
ついに自分の体を支えきれなくなり、床に吸い寄せられるように腰を落とした。
「阿B」
「器廣様」
エリックが床に落ちる前に阿Bを抱きとめた。
「ベッドを用意します」
ジェイムズの言葉にエリックが是と言いかけると、阿Bが弱い声だが、すぐさまきっぱり拒絶した。
「ジェイムズ。頼むから、・・・帰らせてくれ」
土気色の顔をしてうつむいている阿Bが言葉を搾り出す。「ここに居たくない」
それを聞いたか聞いていないか、背後から鋭利な刃でなぶる様に青年の声が命じた。
「ジェイムズ。車を出して家まで送ってやれ」
承知しました、という声と同時に、ジェイムズの手も阿Bの支えに回る。
「歩けるか」
「無問題呀」
どう見ても大丈夫には見えないが、ジェイムズの手もエリックの手も払い、手すりに捕まりながらかろうじて階段を降りていく。階段の手すりがなくなると、さすがにエリックの手を求めた。
何かあれば司機{運転手}に申し付けるように、と、車のすぐそばで言うジェイムズの後ろで、青年は終始、射るような目線で眼鏡の奥からこちらを睨みつけていのだった。
「油麻地(*13)でいいですか」
司機は阿Bの住居がある場所を知っているということだろう。
「いえ。紅磡へ」
「エリック。我、自分の楼{アパート}へ帰りたい」
「No。おまえんちは扉が壊されたままだろう。熱が下がったら帰してやる。紅磡へ行ってください」
エリックはもう一度司機に言った。
阿Bもそれきり言い負けしたのか、文句も言わないでぐったりとエリックの肩に凭れ込んでしまったのだった。
車窓の外は、もう暗い。

< 九へ続く >

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(*13)香港の地名。

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