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雨中感歎號 (十一)

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雨中感歎號 (十一)

「え」
阿Bとエリックが同時に言った。
「まさか、ピークの邸に行くわけじゃあるまい」
「行くわけがない!」
思わず声を荒げたのはエリックのほうだった。夜霧は少しだけ片眉を引き上げただけで、エリックの動揺を受け流す。
「行くところがあるんなら、それでいいと思うが」
夜霧は特に、含みがあるわけでもなさそうに、そう言っているらしかった。
阿Bが、前髪を掻きあげながら、少し考えてから返事した。
「・・・そうだな。夜霧さんのところに世話になるよ」
エリックとほんの一瞬眼が合う。エリックは、その眼の色に何か思うところを読み取ろうとしたが、阿Bはすぐに眼をそらしてしまった。
着替えといくらか身の回りのものを鞄に詰め込んできたらしい阿Bを一番後ろにして、3人で五階から降りて行った。
「夜霧さん、そういえば、美紅は?」
「特に問題はないだろう。美紅は許とは関係ないわけだし、第一、大佬の女になんの嫌疑を掛けるもんでもなかろう。いいか。もう一度言うが、今、夜總曾に近づくなよ」
行かないよ、と阿Bも渋々承諾した。
「ビデオ屋のほうは?」
「小火が出たとかで、店が休みになっているんだ。そっちも一度行って見なくちゃ」
「小火?」
阿Bが手短に説明する。と言っても、阿Bも怪我で寝込んでいる間に店が災禍に巻き込まれたわけで、事情は良くわかっていないのだが。
「これまた同じ日ってのが嫌だな」
「でも、片や高級夜總曾、片や日本人向けレンタルビデオ店だよ。特に繋がりはないし」
夜霧とエリックが、同じ呆れた表情で阿Bを見てため息を吐いた。声が揃う。
「共通点は你だろう」
阿Bが反論しようとしたところへ、夜霧の手機が鳴った。
夜霧は液晶画面を見て、そのまま阿Bに手機を手渡す。
「わ。美紅からだ」
「出てやれ」
「我?」
深入りするな、って言ったくせに、とぼやきながら阿Bが手機を耳仔に当てた。
<阿B? 無問題呀? 點解呀?>
大声で言っているであろう女仔の声が、阿Bが耳仔に当てている手機から聞こえてくる。
「怖くて家から出られないから、屋企{家}まで来てくれ、だって。夜霧さんに話があるからって」
「佢{あいつ}がそんなタマか。你が電話に出たから『甘えて』みせてるだけだ。どうする? 時間があるなら、一緒に行くか?」
阿Bはちらりとエリックを見たが、エリックには何も言わず、夜霧に「そうだね」とだけ答えた。
エリックはエリックで、阿Bの気持ちを量りかねていた。もちろん、阿Bの話からすれば、自分よりも夜霧とのほうがつきあいは長いわけだから、夜霧のほうから宿を貸してやると言うのであれば、そのほうが気心が知れていて阿Bにとって気楽なのかもしれない。たった二晩、奇遇に任せて一緒に過ごしただけの男仔のところに来るよりは。
「それじゃあ、我はここで」
唐楼の門口{玄関}で、エリックは阿Bと夜霧が歩き出した背中に向かって告げた。
振り向いた阿Bと夜霧に、如才ない笑顔で別れを言うと、阿Bの口が何か言いたげに動く。開こうとしては閉じ、何度目かに漸く、阿Bが言ったのは、「借りた服をどうすればいいか」だった。
「楼の房{へや}のドアのところにでも置いておいてくれればいいから。ついでがあるときにでも」
阿Bの表情が曇る。これまでに見せた妙に年を取った物分りのいい諦めの表情とは違う、小さな子どもが親に叱られでもしたときのような、抗いたい気持ちが満載のような不満げな表情だった。なんとも言えない愛しさが込み上げてきて、思わず阿Bの頭に手を伸ばす。油気のないさらりとした前髪に指を差し入れて、くしゃっとかき混ぜた。
「再見喇{またな}」
髪を弄くってくるエリックの手を阿Bが払おうとした。
「細蚊仔{ガキ}扱いするな、って」
互いの指が一瞬、相手の指を求めて絡もうとしながら、離れていった。

◆◇◆◇◆◇◆

昼間の繁華街は観光客も多いせいで、矢鱈と肩や身體がぶつかりすれ違うことが癇に障る。それはただ単に阿Bの気が晴れないせいなのかもしれない。
「夜霧さん。許経理はどうして殺されたんだろう。犯人の目星はついてるのかな」
話題が話題なので、夜霧が、眼で制しながらも返事を返す。
「まだだ。佢{あいつ}は夜總曾の中ではそれなりに周囲に睨みを利かせていたやつだったが、恨みを買うようなことはしなかったはずだ」
「・・・じゃあ、何か逆恨みされたとか・・・?」
「それが正解なら、この事件は犯人さえわかれば解決だがな」
「違うの?」
「わからん。だが、美紅は、殺手{殺し屋}の仕業だと言っていた」
驚いて夜霧を見上げる阿Bに、夜霧がにやっと笑ってみせた。
「いっぱしの黒幇の情婦みたいなこと言ってやがるよな」
「美紅は、許経理の死体を見たの?」
「いや。許の死体が発見されてから店へは行ってないんだから、見てるわけがない。が、当たらずしも遠からずかも知れん」
問いかけ顔の阿Bの喉に夜霧が人さし指を当てる。
「喉に刀{ナイフ}を一突きだったそうだ」
思わず、阿Bの足が止まった。その背中を夜霧が、力強くはたく。
「おい。美紅に負けてるぞ」
「え?」
「それを聞いて、佢{あいつ}は一言、『専業{プロ}ね』だからな」
細蚊仔{おこちゃま}とは格が違う、と、阿Bは蒼褪めた貌を笑われた。
「昼飯でも食ってから行くか」
歩きながら夜霧が話しかけるが、上の空で適当な返事を返してしまう。
「――何か言った?」
わき腹を突かれて、漸く我に返る阿Bに、夜霧は特に機嫌を損ねた風でもなく、改めて訊く。
「何か食べるか、と訊いた」
「ああ。うん。そうだね。なんでも。夜霧さんがいいもので」
少し路地に入れば、いくらでも舗{みせ}はあるだろう。同じことを考えたのか、夜霧が小路に脚を向ける。その背中に、阿Bは慌てて声を掛けた。
「夜霧さん、ごめん」
「どうした?」
「ページャーを、置いてきちゃったみたいだ」
「置いてきた?」
どこへ、と言いかけて、夜霧も理解する。「佢{やつ}の屋企か」
「たぶん。――取りに行ってくるよ」
言うが早いか、回れ右をして背を向ける阿Bの、少し左足を引きりながら歩く後姿を暫く見ていた夜霧は、
「美紅のところで待ってるぞ」と張りのある声で叫んだ。少し振り向いて、阿Bが手を軽く振った。
「――『帰ってこない』に昼飯。・・・っつっても、その賭ける相手がいないか」
暫くは阿Bが人の波を縫って抜けて行った後を楽しげに見ていたが、やがて、何かに気づいたかのように、ふっと笑みを消し、夜霧は歩き出した。

◆◇◆◇◆◇◆

紅磡の自分の楼に着いたエリックは、部屋の中で音がしているのに気づき、扉についている三つの鎖匙{カギ}を開けてから、扉を開くときに、思わず慎重になった。できるだけ音を立てないよう、細く少しずつ開ける。が、開けてみてわかったのは、鳴っていた音は聞き覚えのある器械音だということだった。
誰もいない部屋の中へ入って、音の正体もわかると、肩の力が抜け、可笑しくなった。
「そうそう、黒侠電影{ヤクザ映画}みたいなことばかり起きるわけがないか」
ベッドの上に置き去りにされていた阿Bのページャーを取り上げる。履歴表示に、見覚えのある號碼から3度、連絡が入っていた。
しばらく小さな液晶画面を睨んでいたが、ため息をついて、ページャーを再びベッドの上に放り出す。
ペットボトルの水を水煲に注ぎ、火にかけてから、もう一度ベッドのところへ戻り、腰をかけてページャーを取り上げた。
と、液晶画面が明るくなり、一瞬遅れて音が鳴り出し、號碼が表示される。
ちっ、と小さく舌打ちして、音を止めて、自分の手機を取り出した。通話ボタンを押したと思ったら、すぐに電話の相手が出た。
「阿Bか。何度掛けたと思う」
これ以上無いと言いたげな機嫌の悪そうな声だった。エリックにすら容易にその表情が思い浮かぶ。間違いなく、ピークの邸で会った、不機嫌な眼鏡の青年である。間違っても電視{テレビ}に映っている営業用笑顔とは似ても似つかないだろう。
「悪いが、阿Bじゃない」
暫く沈黙があって、さらに低くなった声が、「邊個呀?」と訊ねた。
「申し訳ないな。阿Bが我の房{へや}にページャーを忘れていったんだ。覚えのあった號碼だったので、掛けた」
「佢{やつ}に、すぐに電話しろと言ってくれ」
最後申し訳程度に、「請(*1)」と付け足された。
「いつ取りに来るかわからないが、伝えよう。急ぎか」
「急いでなければ、連絡なんかするもんか」
相手が誰でもこうなのか、あるいはエリックだからなのか、陳輝火はいつでも噛み付けそうな雰囲気を声で醸し出している。演技だとしたら、たいした演技力だ。
「あ。待て」
電話を切ろうとした気配を察して、エリックがストップをかける。
「夜霧という男を知っているか。そこへ行ったはずだから、もし夜霧という人の連絡先がわかるなら、そっちへ連絡を取って・・・」
扉をノックする音が聞こえ、エリックは電話を肩に挟んだまま、内鍵を外した。
「・・・阿Bに代わる。ちょっと待て」
手機を渡されて、条件反射で「喂?」と言ったが、電話の向こうで火仔が名乗った途端、阿Bもまたこれ以上ない不機嫌な貌をしてエリックを見たのだった。
エリックが傍で見る限り、聞く限り、阿Bはかなり抵抗していたようである。発する言葉のほとんどが否定の言葉で応えていた。だがそれも、応答を重ねるごとに説き伏せられていくようで、最後にはむっつりと「OK呀」と言い、時間の約束だけして電話を切った。
手機をテーブルの上に「叩き付ける」と「置く」の限界ぎりぎりくらいの強さで音を立てて置き、その途端に、今度はエリックに噛み付いてくる。
「なんで火仔なんかと電話してるんだよ」
「履歴を見てみろよ。ずっと掛け続けてきたんだ。何か緊急の用事だと困るだろう」
この間のこともあるんだから、と、あまり良い例を引くわけではないので、エリックも声が小さくなるが、付け加えておく。正直なところ、阿Bの媽か、妹妹がどうにかなったのではないかと心配したのだ。
阿Bとて、それはわかっているのだろう。何か言いたげに口を歪めながら、最後は舌打ちだけで〆て、エリックの手からページャーを奪い取った。
「帰る」
短く言って扉に向かおうとした阿Bに、エリックが声だけで振り向かせる。
「どうせ来たんだから、傷の手当をさせろ」
振り返ったところには、エリックの真面目な貌があった。
「・・・唔要{いらない}」
視線を振りほどこうと、再び背を向けようとした阿Bの肩をエリックはすかさず掴んだ。
「すぐ終わるから」
暴力的でもなく、宥めすかすわけでもなく、淡白に言われると、こちらも大人しく聞かざるを得なくなるものだ、と阿Bは諦めてソファの前へ引き返した。

<十二に続く>

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(*1)  「お願いします」の意味。

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