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Happy Thanksgiving Day

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Happy Thanksgiving Day

『今日は遅くなる見込み』
とメールをしたら、1時間ほどして返信があった。
『帰りにスポーツドリンク求ム』
なんだ?と思って携帯に電話をしてみるが不通音。電源を切ってあるならアナウンスが流れるわけだから、着信を拒否して即切りしているに違いない。
思わずムッとして、依嶋の事務所のほうに電話を入れた。
「ああ、依嶋さんなら今日は早退けしましたよ。風邪引いたみたいで熱があるからって」
「さんきゅ!」と言ったはいいが、事務所の女の子に聞こえたかどうかはわからない。携帯を握ったまま、とりあえず、踵を返して今出てきたばかりの地下鉄の駅に駆け戻る。
どうせ、「面倒見なくていい」だとか「世話はかけたくない」だとか「黙って寝てれば治る」だとか考えてるだろうし、言うんだろうが、と舌打しながら、ホームへのエスカレーターを駆け下りた。
最寄り駅の駅前にあるドラッグストアでスポーツドリンクとついでに栄養剤を買って店を出かけたところではたと思い出し、冷却ジェルシートと冷却枕を買って家に急いだ。
こんなときに限って、今朝は鍵を持たずに出てきている。部屋番号を押しても出てこれないかもしれないし、そもそもインターフォンでオレの顔見てそのまま知らん振りされるかも、と思うと、頼るのは当然マンションのコンシェルジュの橘さんしかいない。
クロークに電話をかけて橘さんに預けてある合鍵を借りる(オレがしょっちゅう鍵を忘れるので)。「お早いですね」と言われたのに、なんと答えたかは記憶にない。
部屋に入ると、リビングのカーテンを半分だけ閉めてある。陰になるほうのソファで依嶋が横になっているらしい。
「おーい。遅くなるんじゃなかったの」
ドアを開けて、そろりと靴を脱ごうとしたら、リビングから声がかかった。
「なんだ。起きてたか。ほら、スポーツドリンク」
ちょっとほっとして、とりあえずご所望の飲み物をコンビニ袋から出して渡すと、依嶋も体を起こし、「ドアの鍵はあんなにがちゃがちゃしなくても開くだろうに」と、目を擦りながら笑って言われた。
「熱があるって?」
「なんだ、聞いたの。事務所で?」
「そう。高いのか?」
「計ってない。体温計、無いし」
「買ってくりゃ良かったか」
「要らない。あー、美味しい」
早速スポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けて口飲みしている依嶋を見て、あー、こりゃ、本当にしんどそうだ、と思う。普段なら絶対、2リットルペットボトルの口飲みなんてしないやつだ。
「ベッドに行って寝ろよ」
「そうだな」
と言いながら、頭を両手で抱えたままソファから動かない依嶋を暫く見ていたが、堪えきれずに声をかけた。
「頭痛いのか?」
「ん~~~。あのさあ」
「なに?」
顔の前にくしゃっと落ちた髪の間から不機嫌そうな目でこっちを見たが、すぐに苦笑しながら髪をかき上げた。
「わかった。姫に代わりにやってもらおう」
「何を?」
「冷蔵庫の一番上の棚に、昨日仕込んでおいたロースト用の丸ごとの鶏肉が入ってる」
「んなもん作ってるから風邪引く・・・ん、だ」
ぎろりと睨まれて最後は細った声になってしまう。
「オーブン220℃にセットして、あ、『予熱アリ』ね。で、鶏にオリーブオイル塗って、鶏の周りにジャガイモ並べて。ジャガイモも切って冷蔵庫に入れてあるから。それで、40分焼いたら」
「ちょい待ち」
慌てて手にしていた封筒の裏にメモを取る。
「40分焼いたら多分イモが焼けてるから、ジャガイモだけ取り出して、鶏にはもう一回油を塗ってもらって。いい?」
「もう一回油、と」
「今度は180℃で1時間くらい」
「くらい、ってなんだよ」
「くらい、は”くらい”。あーやっぱり姫には難しいか」
「馬鹿にするな」
メモを最初から読み上げさせられ、細かい指示をいくつか付け加えて、依嶋がふらっと立ち上がった。
「ヘンに焦げるにおいがしたら呼んでくれ」
大丈夫かな、姫はニオイに鈍感なところあるからな」とかなんとかブツブツ言いながら寝室へ引っ込んでいく依嶋を見送り、とりあえず、コートもスーツも脱いで、ワイシャツ袖を折り上げた。
「鶏なんかより粥でも作ったほうが正解なのに」
依嶋が消えたドアのほうを見て、ため息を漏らした。
大体、マメ過ぎるんだ。かみさんじゃあるまいし、寝込んでまでメシの心配もなかろうが。そもそも・・・。
携帯のメール着信音が鳴る。
『早く動け』
ダメ亭主のように扱われる自分が情けなくなりながら、次のメールが来ないうちに、と立ち上がらざるを得なかった。

@@@

結局、オーブンの前に椅子を持っていき、ノートパソコンを開いて演出プランを練りながら鶏の様子を見る。しかしなんでこんな面倒なことができるんだろう、あの男は、と思う一方、鶏の焼けるにおいに空腹は反応し、先に取り出したジャガイモを3つばかり腹に納めてしまった。怒られるかな。怒られるだろうな。
と、寝室のほうを何気なく見ると、リビングのテーブルに置かれたスポーツドリンクの2リットルボトルが目に入った。
「買ってきた意味ないじゃないか」
寝室のドアを開ける理由ができたと、ある意味いそいそとペットボトルを抱えて寝室へ向かう。うるさい、と怒られるだろうか。ちゃんと眠れているだろうか。そういえば、冷却シートも渡していない。
鶏を焼く間、冷凍室に放り込んでおいた冷却枕を取り出してタオルを巻いて、これも持っていく。そっとドアを開けると、部屋は真っ暗になっていた。遮光カーテンがきっちりと閉められている。
「よりしま?」
小さく小さく声を掛けてみたが、反応はない。
「さすがに、寝てる、か」
ほっとして、衝立の反対側にある自分のほうの枕元のライトを点ける。依嶋は普段は真っ暗では寝ないから、ドアを閉めきるなら点けておいてやったほうがいいだろう。依嶋の枕元にペットボトルを置いて、さて。
「これを置くには頭を持ち上げないとダメなんだよな」
冷却枕を頭の下に置いてやりたいが、そうすると起こしてしまいそうで出来ない。
そもそも熱は上がっているんだろうか。
自分の右手をしばらくグーパーして悩む。が、結局熱の加減を見るには触れてみるしかないので、額にそっと手の甲を当ててみた。確かに熱い。
「依嶋。頭上げて」
意外にあっさり、目を瞑ったまま頭を持ち上げて枕を頭の下に受け入れた。
「さんきゅ」
「起こしたか。悪い」
「いや。気持ちいい。冷たくて」
そのまま引き込まれるように、すうと眠るのを確かめて、寝室を後にした。

@@@

 鶏も焼けて(オレにしては上々出来)、メールをチェックしていると、アメリカから妹がメッセージカードつきのメールを寄越していた。

“Happy Holiday! 家には帰っているワケないか。依嶋さんによろしく。”

それを見てようやく今日がサンクスギビングだと気づいた。
「そっか。それで昨日、依嶋は」
ターキーじゃないけど、まあいいだろう。
そう言っていたっけ。
まったくあいつは。
閉まっている寝室のドアに目笑を送りながらのため息をついて、冷蔵庫の引出から、深い黄金色になった液体の入った壜を取り出し、小鍋に入れて火にかけた。
オレが転がり込むようにして、ここでなんとなくそのまま一緒に暮らすのを、全く自然なことのように依嶋がそのまま受け入れてくれてから、どのくらいになっただろう。居候していることになんの文句も言われたことはない。自分が厚かましいということすら忘れてしまうくらい、ごくあたりまえに居ることを許してくれている。
「不思議なやつ」
首を振って、鍋の中を焦げ付かないようにかき回した。
「なんか、甘いニオイがすると思った」
依嶋が頭からバスタオルをひっかぶって、後ろに立っていた。
「具合は?」
「うん、まあ」
歯切れの悪い応えのまま、ソファに腰を下ろす。
「寒くなったり、熱くなったりする。まだ上がるかも。シャワー浴びたいと思ったんだけど」
「まだ無理だろ」
汗で前髪が撥ね上がった額に手を当ててみると、乾いた熱さが感じられた。
「着替えて、もうひと寝入りだな」
やれやれ、と言いたげに、依嶋は肩周りに巻いたバスタオルに顔を半分埋めて不満げな息を漏らした。
「それ、飲ませてくれるの」
「ん。ホットジンジャーな」
家で蜂蜜に漬け込んだ、いつもならジンジャーエールに使う生姜と、こちらも自家製のカリンシロップをアルコールを飛ばしてお湯で伸ばしたホットドリンクだ。
「よし。じゃあ、着替えてくるか」
依嶋がバスルームで着替えている間にシーツでも換えてやるか、と寝室に行って帰ってきたら、着替えを済ませた依嶋は、再びソファで眠り込んでいた。
「しゃーねーな」
取り替えてきたリネン類は洗濯機に放り込んでおき、すっかり温くなった冷却枕に舌打ちをする。こういうときはふたつ買ってくるもんだろ、と自分で自分に毒吐いて。
これが反対に、寝込んだのがオレで世話をするのが依嶋だったなら、もっとこまめに気がついて、たぶん、気を使っていることなぞ気づかせないほどうまく世話をしてくれるんだろうに、と思うと、気が回らない自分の世話に申し訳ない気までしてくる。
ともあれ、起こさないように距離をとって、依嶋が起きるのを待つ格好で、傍らで大人しく仕事でもしているしかなかった。なんて能の無いことか。
半分カーテンが開いている大窓の向こうですっかり陽が沈んだ。
開けてあった残り半分のカーテンを閉めると、暗くなった部屋で、コンピュータのブルーライトが依嶋の横顔を浮き上がらせている。あまり熱が下がらないようなら医者に引っ張っていくべきか、医者を引っ張ってくるべきか。
廊下の灯りだけを点けて、コンピュータの画面のライトが依嶋の顔に当たらないように座る場所も変えると、普段は見ない角度からの依嶋の顔が見える。ふと思い出したのは、再会した最初の最初に「鎖骨、鎖骨」と騒いだあの時だ。今は肩まわりにバスタオルを置いて、その上からすっぽり肩まで毛布に包まっているから(オレの)自慢の鎖骨は見えていないが。
そんなことをぼんやり考えていると、掠れた声で呼ばれた。
「姫」
毛布の中からもぞもぞと腕が伸びる。指先が、あっち、と寝室を指していた。
「なに? 寝室に連れていくのか?」
ちがうちがう、と更に嗄れた喉から搾り出した声に苛立ちも含まれる。
「・・・向こう、行ってて。風邪、うつる」
呆れた。人の心配してる場合かよ。と、無視を決め込んだら、出しにくそうな声をさらに出して、早く行け、と言われた。
病人相手に張り合うのも大人気ないので、とりあえず、行く気配を作る。立ち上がって、コンピュータを持って、寝室まで実際に一応行ったのは、スポーツドリンクを置きっぱなしだったことに気づいたからだ。片手に2リットルペットボトルの首を持ち、片手に画面を開いたままのコンピュータを持つ。戻ってみたら、依嶋は少し苦しそうだが、寝息を立てていた。
汗もかかずに相変わらず乾いた熱い額に手を置いて、できれば水分を摂らせたいと思う。
しかし、コップを持ってきて3分の1ほど飲み物を入れてから、依嶋の肩を揺すってみたが、今度は深く眠っているようで、反応がない。
飲ませたい、のも事実だが、ふとイタズラ心が持ち上がる。
ペットボトルと依嶋の顔とを暫く見比べて、ボトルのキャップに手をかけた。温くなったスポーツドリンクを一口分だけ口に含み、ソファの上に屈み込んだ。
寝ている相手の口許を目指すってのは案外難しいんだ、なんて考えながら、少し開き加減の唇に自分の口許を近づけていく。ああ、そういえば、キスってこうやるんだっけ、とか思いつつ、少し角度をつけて口に含んだ飲み物が零れないよう隙間を作らないよう液体を送り込んだ。そこまでは成功。
だったはずが。
ごほ、げほ、ごほと大音声をBGMに真正面からスポーツドリンクの噴水を浴びせられた。
「バカ、姫。何を、一体」
体をふたつに折り曲げて噎せながら、咳だかくしゃみだか混じりあった罵りの科白を搾り出す。
「ごめん。おい、依嶋、大丈夫か? 依嶋?」
首元に巻いてあったタオルで慌てて口許を拭いてやろうとするが、咳き込む勢いで拭いてやるどころではない。
「このバカ。何を急にトチ狂って」
語尾はごほごほと咳にかき消される。
噎せに噎せて、ひとしきり咳き込んだあとに、ぐったりとした顔を上げて、険のある目でいつになく迫力を見せて責めてきた。
「何考えてるんだ。俺が具合が悪いっていうのは理解できていたよな。せっかく気持ちよく眠れていたのに、何をどう思っていきなり寝ているところに、キ」
言いかけた言葉を淀ませて、そのまま飲み込み、空を仰いだ。
頬に朱を刷いたような顔色と、具合の悪さからややもやつれた風情の横顔が、口許に当てた手を杖にしてぼんやりして何も言わないでいるのは、具合が悪いからか、それとも、あー、怒らせたか、と叱られた子どもの気分で黙っていると、依嶋がふとこちらを向いた。
前髪の下からひたと睨んできたくせに、こちらを振り向くと、そこに初めてオレがいることに気づいたような顔で、やがて、大きくため息をついて言った。
「顔、洗ってこいよ」
「え?」
「モロに顔に吹っかけたみたいだから」
と、タオルを差し出してくれたが、すぐに
「ああ。洗面所に、洗った綺麗なのがあるか。ほら、行って来いって」
クックッと、喉の奥で笑いながら、手だけで追い払われた。すでに顔や他にかかったスポーツドリンクは乾いていたけれど、確かに顔にかかったところはべたついてもいるし、何より目に入ったのか目をしばたたかせてみても、沁みて痛い。
洗面所に向かう背後で、まるで酒を飲ませたときのような笑い上戸な依嶋の笑い声が聞こえていた。

@@@

 洗面所で顔を洗って、ついでにTシャツに着替えてしまい、コンタクトを外して目も洗うとさっぱりした。ついでに、依嶋の分のバスタオルを一枚ストッカーから取り出す。たぶん、さっきまで首に巻いてあったものも、噎せて吐いたスポーツドリンクで汚れたはず・・・と考えたところで、考えるともなしに依嶋が口許を押さえていた横顔が蘇り、いきなり自分の顔が熱くなった。
「ひーめー。水を1本、持ってきてー」
ガラガラな声を絞り出して依嶋が呼ぶ。さっき噎せたのが原因なのか、それとも風邪がひどくなっているのか。
「スポーツドリンクならテーブルの上に」
「水がほしい」
慌ててざばっと顔に水をかけ、メガネをかけていたことに気づくが、水滴の飛んだメガネをかけたままキッチンのストッカーから水の2リットルボトルを取り出して、思い直して500ミリリットルのボトルにする。
「なんだ、びしょぬれ。着替えに行った意味がないな」
ペットボトルを渡す前に、依嶋がオレの顔に手を伸ばしてメガネを取った。
タオルでメガネの塗れているレンズを拭いてくれる。
「あ。ごめん」
「久々に見る。姫のメガネ」
「あ、ああ。起きてから寝るまでレンズ入れてるから。さすがに酢酸は目が痛くて」
何をうろたえてコンタクトを外した言い訳なんてしてるんだか。
「メガネ、似合ってるんだから、普段からメガネがいいのに」
こいつは時々、面白いことを言うな、と思う。こういうものは似合う似合わないよりも生活必需品なんだから、機能性と利便性が一番だ、と言っても、視力がいいやつにはわからないか。
「依嶋にはわかんないかも。暑い、寒いで曇ったり、鼻の上に乗ってるだけで頭痛のタネになったり、何より、視界がこれで限られるんだから」
拭いたレンズに角度をつけながら、そういうもん?と問うてくる。
「そう。だから、コンタクトでいいの。目に直接貼り付けたレンズは、一応、視界は眼球が動く範囲すべてだからな」
ほい、と拭きあがったメガネを鼻の上に乗せてくれた。
「俺は、メガネでいい、じゃなくて、メガネがいい、って言ったつもりなんだけどね」
そして、続けて、真正面から一言。
「で、さっきのは何」
ぶわ~~~と再び顔面が熱くなる。赤くなっているんだろうか。
「え、と、あれは」
「『あれは』?」
「・・・じ、人工呼吸」
「は!?」
「あ、違った。えっと、・・・口移し? 口・・・うつし・・・」
あー。だめだ。依嶋の口許に目が行く。
「違うんだ。キスしたいとかそういうんじゃなくって、口移しで飲み物を飲ませるのってどうなんだろうって、その、どうやるかっていうか、どうすれば上手く飲ませられるか、とか・・・」
依嶋が面白がっている。絶対、面白がっている。ふうーん、って顔をしている。に違いない。
視線が上げられない。依嶋がどんな顔をしているかなんて、本当はわからない。
「そういう場{シーン}があるってことか」
「そ、そう、そう!」
依嶋の顔がものすごく真面目になる。
「最初からして間違ってる」
「え?」
「口移しで飲ませるときには、誤嚥しないように、まず、体は横向きにさせないと」
依嶋が体をずらして、ソファにオレの場所を作る。
「右が下? 左が下?」
「左」
言われるがままに、ソファの上に左を下にして横になってみる。
「で、顔だけこうして斜め上を向かせる」
依嶋の手で顎と額に手をかけられて、顔を仰向かせられる。
「この体制で、本当に一口だけ。するっと喉を通る量だけ」
ほんの一口。
するっと、喉を通る、少し温い水。依嶋の口越しに。
「飲ませる。・・・飲んだか?」
「飲ん、だ」
思わず起き上がる。
「はい。じゃあ、仕事しな」
ぽんぽん、と腕を叩かれ、依嶋は何事もなかったかのように、まるで寝返りを打っただけのようにして、毛布を被りなおして横になった。
「・・・はい」
命じられるままにソファを降り、床に直に座ってコンピュータを膝に載せる。
「姫」
「うん」
「つまみ食いしただろ」
「ジャガイモの味がしたか!?」
「語るに落ちる、ね。ジャガイモか」
「すまん。3個食べた」
「いいよ。どうせ姫に食べさせるために作ったんだから」
「サンクスギビングのご馳走、だよな」
依嶋の返事はない。
「でも、一緒に食べるためのご馳走、なんだろう、あれ」
今度は、少し間が空いた後に、小さく「・・・そのつもり」と毛布の中からくぐもった声で返してきた。
「だったけど、食欲わかないから、好きなだけ食べてていいぞ」
顔半分だけ毛布から出して言うのへ、額にまた手を当ててみる。熱いのには変わらないが、さっきまでよりも汗ばんでいることにほっとした。
「しっかり寝てー、水分摂って、汗かいて、それで明日の朝、熱が下がらなければ、医者だな」
「寝てれば治る」
「寝込む気か?」
依嶋が渋い顔をする。自分でもわかっているのだ。抱えている仕事の状況から、ゆっくり寝込んでゆっくり治す、とはとても言えない状況であるということが。
「・・・あっ」
栄養ドリンクを買ったことを思い出した。
「これ、ほら。水分と養分と」
「栄養分と言え」
「そうそう。栄養分。ほら飲んで」
「こんなの気休めだからいい。ちゃんとスポーツドリンクを」
起き上がってテーブルの上の2リットルペットボトルに手を伸ばそうとするから、手渡してやったが、依嶋は飲もうとせずにピタと動作を止めた。
「どうした?」
「当分は、こいつ見る度に思い出しそうだ」
また、顔が熱くなる。
「えっ。あれは、だから」
「酷く噎せる飲み物としてトラウマになったらどうしてくれる」
あ。そういう意味か。変に解釈しかけた自分に更に赤面の思い。
「じゃあ、やっぱりこっちをドウゾ」
にやりと笑って、キャップを捻って開けてから渡してやる。
鼻でもつまみかねないほど嫌そうな顔をして一口飲んで、恐らくわざとオーバーアクションで顔をしかめて見せる。
「姫は、自分は絶対飲まないくせに」
オレのほうの稽古が佳境に入ると、依嶋は必ず栄養ドリンクを大量差し入れしてくれる。オレが栄養ドリンクが大の苦手で絶対飲まないことを知っていながら、デカデカと「姫路様」と書いて持ってくる。
役者、音照、大道具・小道具等々、演劇畑という名の不健康で不摂生な輩は、何故かそろいもそろって、これが大好物らしく、深夜稽古が続き、通し稽古が繰り返され、朝までガンバロウモードになればなるほど、この差し入れは呆れるほど「よく売れる」。大体の現場で、飲まないのはオレ一人だ。
「こんな薬臭いもの、誰が飲みたいもんか。あいつら全員、味覚がなくなってるんだよ、きっと」
「どっかの演出家がしごきすぎるせいなんじゃないの」
ちびちびと一口ずつ飲んでいく。こういうところ、真面目なんだよな、と思いながら見ていると、
「何、にやにや見てるの」
「べつに」
にやにや、していたかも。慌てて頬を引き締めた。つもり、で話を別方向に急いで振る。
「ああ。そうだ。鶏のソースをまだ作ってない」
「ソース? もしかしてクランベリーソースのことか」
「そう。さっき、ネットで調べてたんだ。どんなレシピがいいんだろう。沢山ありすぎて」
これなんか、あんまり甘くないみたいで旨そう、こっちは少し甘めってあるけど、甘いほうが美味しいものなのか? といくつか候補になりそうなレシピを挙げてみる。
「な、依嶋。・・・依嶋?」
自分の膝の上で頬杖をついて、凝とこちらを見ている依嶋に、繰り返し声をかけた。
「疲れた? 横になったほうがいいんじゃないか?」
「クランベリーソース。オリジナルのレシピがある。作ってくれるなら教える」
どきっとするほど優しい表情{かお}で言うもんだから、思わずすぐに返事ができなくなる。
それは絶対にあり得ないイメージだけれど、芝居で言えば、まるでプロポーズの言葉でも言うかのような雰囲気の笑みに思えて。
「めんどくさいか。明日も稽古だろうし」
「作る、作る! 大丈夫。ちゃんと作るから!」
依嶋のレシピなら、味には絶対的な信頼がある。
「たぶん・・・姫好みの味だと思う」
心にくい脚本のようなダメ押しの科白は、下手な役者が言えば気障でギトギトのベタな科白になるのに、全く素人のこいつが言うと、どうしてこんなに嬉しく思えるんだろう。
材料とスパイス、レシピを細かく細かく細かく言われてメモを録っている最中は、そう思ったことを撤回しそうになったが、どうせ作った後は、その味に、さらに5割増しで感動するんだろうと思う。
「たぶん、スパイスも全部棚にあると思うから」
レシピをすべてさらえたあと、依嶋はそう言って、栄養ドリンクの壜をぐいと飲みきるほどに持ち上げた。
「よしよし。ちゃんと飲んだな」
自分は飲まないくせに偉そうに言ったのが悪かったのかもしれない。
「姫」
ちょいちょい、と指で呼ばれる。
「ん?」
何か話があるのかと思い、顔を近づけると、「もう一個、言うの、忘れた。ちなみに」と言いながら、顎を捉えられ、わずかだが栄養ドリンクの大嫌いな味が口許から喉へと移された。

「両方ともが意識がある状態なら、寝かさなくても口移しはできるからな。こっちのほうが簡単だ」

 それじゃあ、おやすみ、あとはよろしく、とリリースされる。
どうしようか。今聞いたレシピ、ちゃんと作れる自信が途端になくなった。
そこへ、携帯のバイブとともに、待ち受け表示ウインドウに今日すっぽかした打ち合わせの相手の名前が流れる。
「げ。連絡し忘れてた」
依嶋からのメールと、事務所に確認した電話のあと、アポの相手に連絡もせずに地下鉄に向かったことを今になってようやく思いだした。
すっぽかしの理由をなんと説明しようか。
クランベリーソースを作りたいから、では、あまりにも甘すぎる理由だろうな。
依嶋は知らん顔をして毛布の中で目を閉じている。狸寝入りなのか、本気寝なのかは知らないが、今度から、ホットジンジャーもほかのレシピも、アルコール分は念入りに飛ばすように心がけよう。
後は、あいつが自分の行動に責任を持てるよう、体温計も買っておいてやった方がいいだろう。
ともかくも、明日は一緒にクランベリーソースで鶏が食べたいから、とりあえず、依嶋の眠りをこれ以上妨げないよう、携帯を持って廊下へと急いだ。
(了)

 

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