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雨中感歎號 (五)

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雨中感歎號 (五)

「ここは?」
「我{ぼく}の西楼{アパート}」
肩に担ぐようにして阿Bを支えながら、エリックはベッドの上に散らかった雑誌や衣服をざっと払い、阿Bをその上に転がした。
「シーツが、血で・・・汚れる」
「うるさい。けが人は黙って転がっていろ。気にしてくれるというなら、後で洗わせてやるから」
口を動かしながら、エリックは手も動かす。あちらこちらの戸棚を開け、何かを次々と取り出しているようだが、痛みを堪えるのに精一杯の阿Bには、それを観察しているゆとりは当然ない。
「おい。程よく破れているこのジーンズは、ヴィンテージものとかじゃないよな?」
「悪かったね。年季が入っていて。一張羅だ」
「そりゃ残念だな。諦めろ。切るぞ」
言うが早いか、エリックは阿Bのジーンズの裾に鋏を入れた。
「動くなよ。足の傷が増える」
膝まで鋏を入れると、阿Bに命じた。
「横向きになれるか? 傷のないところに鋏を入れる。でないと傷に鋏がひっかかって裂きそうだ」
どうやら、太腿の前面に傷が出来ているようである。
「おい。我{おれ}、なんかものすごくカッコ悪い・・・」
「好呀{いいの}。男に脱がされているだけで十分カッコ悪いだろうが」
横向きになると血が流れて、シーツに血がつくだのなんだのとまだ呟く阿Bをエリックは無視して、慎重にサイドの縫い目の横に鋏を進ませて、ジーンズをウエストまで開ききった。
「さてと、もう一度上を向けるか?」
阿Bの答えを待つまでもなく、エリックは阿Bを仰向けの体勢に戻すと、阿Bの頭を抱え起こして口にコップをあてがった。
「酒?」
「ジンだ。あと、これも」
阿Bの口の中に錠剤が押し込まれた。
「鎮痛剤。無いよりはいいだろ。麻酔なしで縫うんだから気休めだけど」
「縫う? 麻酔なし?」
「香港電影{えいが}ではごく当たり前だと思うが?」
「実生活では当たり前じゃない!」
思わず半身を起こしかけて、痛みで卒倒しそうになる。
「嘘だよ。応急手当したら病院に連れて行ってやるから。とりあえずの痛み止めだ」
ところが、阿Bの体の下側のシーツに血が滲んでくるのを見て、エリックが慌てた。
「おい? 腿だけじゃないな、傷は? こっちを向いて」
痛い、という叫びにすらならないわけの分からない声を上げて、エリックに体の向きを変えられた阿Bが、これだけははっきり言った。
「保険が無いから病院は行かない」
「失血死するぞ」
「じゃあ、電影の真似事させてやる。縫ってくれよ」
「正気か? 麻酔なしの縫合は想像より痛いぞ」
「とりあえず、任せるから、生かすも殺すも好きにしろ」
そこまで言って、阿Bは気を失った。
「ま。醫生牌{医師免許}は持ってるけどね」
イギリスのだけど、と付け加えて、エリックは、阿Bのわき腹の傷をまず確かめる。
「こっちは縫うまでもないな。浅くて助かった。内臓まで行ってたりしたら、とてもじゃないけど面倒見切れない。腿は・・・ああ、こっちはダメだ。縫わなくちゃ。ざっくりやられてる」
ぶつぶつ言いながら、わき腹に止血を施してから、腿の傷に手をつけることにした。
わき腹の傷に止血のためのテープを切って貼る。傷は浅いが長さが5インチほどになるので、傷を縫いとめる代わりに、傷口に垂直に3箇所、テープを貼る。
ジーンズを切り裂いてしまった左腿に消毒液をかけて、術野を切り抜いたゴミ袋を、カバー代わりにかける。
そこまで行ったところで、阿Bが目を覚ました。
「我{おれ}、気を失ってた・・・?」
「ああ。今から縫うからどうせならそのまま気を失っててくれたほうが楽だぞ」
エリックが針を消毒する。
「縫うって、本当に? 唔笑{じょうだんだろ}」
「保険がないから病院へは行かない、と言っただろう」
「言ったけど、まさか素人が縫うなんて」
わき腹の傷をとりあえず処置したからか、少しは動きが良くなっている。わき腹のほうが腿よりも敏感なので、傷は浅くても痛みは強かったのだろう。
「なんでそんな手術用みたいな手袋があるんだよ? なんでそんな手術道具みたいのが」
「うるさいな。醫生牌は持ってるんだ。別に醫生仔{お医者さんごっこ}するために道具を持ってるんじゃない。どうする? 縫うか? それとも、このまま放っておいて、失血死するかどうか懸けてみるか? モグリの醫生でも知り合いがいるっていうんなら、つれていってやってもいいぞ」
「そういや、さっきもそんな会話したっけ。・・・やっぱり縫わなきゃだめなのか」
半ばあきらめた様子は、言葉尻が疑問形でないところに出ている。
「你は醫生じゃないのか。さっき、醫生牌があるって」
「我{ぼく}のはイギリスの免許だ。香港では勉強中」
「ああ。學生だって言ってたっけ。良くわからないけど、醫生は醫生なんだろ。じゃあ、・・・縫ってくれよ」
まあ、わき腹のように皮膚の薄いところを縫うよりは、腿のほうが堪えやすいだろう、とエリックは呟いて、タオルを阿Bに渡した。
「乜嘢{なに}?」
「しっかり口に突っ込んで噛んでおいたほうがいい。あと、悪いけど足は縛るぞ」
「咩話{なんだって}?」
「動くと縫えない」
「動かないよ」
「無理だ。痛いからな」
有無を言わせず、エリックが阿Bの足をシーツでがんじがらめにする。
「ほら」
枕を阿Bに抱かせる。
「これは?」
「腕まで縛られたくないだろう。これでも抱っこしてろ。とにかく、起きてしまった以上は、動かない努力をしろ。まったく。これじゃあ、本当に醫生仔{お医者さんごっこ}してるみたいだ」
「醫生仔よりもSMだ。そんな趣味はないのに」
強がりを言う阿Bに半ば呆れながら、エリックはマスクをかける代わりに、タオルで自分の口を覆い、頭の後ろで結んだ。

◆◇◆◇◆◇◆

目が覚めたら、雨の音が強く建物を叩いているのが聞こえた。
寝返りを打とうとして、わき腹と腿に激痛が走る。その瞬間に怪我をしたことを思い出し、阿Bは舌打ちを打った。
「目が覚めたか」
落ち着いた声で問われ、阿Bは目を開けた。分厚い本を何冊もテーブルに広げ、眼鏡をかけた真面目そうな青年を見て、小路へ引き入れられたところからの一連の流れを思い出した。
「面倒をかけたな。ここ、どこ?」
「我の西楼{アパート}」
「それは聞いた。場所、どこ? 九龍?」
「紅磡だ」
起き上がろうとするがわき腹がひりひりして痛い上に、腿の傷のせいか足に力が入らない。いや、全身がだるくて力を入れたくないのが本当のところだ。
「何か飲むか」
「ああ。水か何か・・・喉がひどく乾いた」
「痛み止めと抗生剤を飲ませたからな」
阿Bの背を支えながらコップを口許にあてがってやって水を飲ませると、エリックは阿Bを再び横にした。
「・・・唔該{ありがと}」
横になってシーツをかけられている下半身を見て、阿Bはまたもや頭を抱えたくなった。
「そうか。ジーンズは」
「ああ。悪いが捨てたぞ。傷のところが大きく切り裂かれていた上に、我も鋏で切り開いてしまったから」
「いいよ。それじゃ着ようと思っても着られない。それより悪いんだけど、何か着替えを貸してもらえないかな」
エリックが立ち上がって、阿Bのそばへやってきてシーツを剥がす。
「わ。何するんだ」
「傷の確認。処置した以上、責任は持たないとね」
腿に巻いた繃帶{包帯}を外し、ガーゼを外すと、割合キレイな縫い目が見えた。
「まだ血が止まりきっていないし、痛み止めもさほど強くないから、歩くとかなり痛いと思うぞ。急ぐ用事でもあるのか。拍拖{デート}か?」
「明日の朝8時から仕事」
雨音が大きくなり、暫く、二人とも雨の音に聞き入っているかのように黙っていた。
阿Bの額にエリックの手が当てられた。
「熱は上がってないな」
「熱なんて無い」
邪険にエリックの手を払う。
「どうした。何か気に触ったか?」
エリックのほうは全く気にしないかのように、阿Bに気遣いを見せる。
「嫌いなんだ。雨。それだけ。・・・唔好意思{ごめん}」
あんな、陽も射さない街のくせに、雨だけはちゃんと降る。路地も、ぼろぼろの建物の中も、人の心の中も、惨めに濡らして。阿Bはなぜだか久しぶりに九龍城砦をつぶさに思い出していた。あの、雨に濡れた路地の饐えた臭いまでも。
エリックが阿Bの耳元にクッションを積む。
「少しはましだろう。防御壁だ」
「・・・你{あんた}、やさしいな」
「冷たい」
「え?」
エリックが阿Bの科白と逆のことを言うので、阿Bは一瞬驚いた。
「你{おまえ}の背中。氷みたいだ。熱が出るどころか、こんなにつめたければ、具合も悪くなる」
エリックは戸棚から出した毛布を阿Bの体にかけてやる。
「仕事、行かなくちゃ」
「無理だろう。その傷で」
「うん。でも行かなくちゃ。代わりはいないもの」
「店、閉めてしまえ」
「救命呀{かんべん}」
くすくすと笑いながら、阿Bは、久々に温かい気持ちになれている自分に気が付いた。
「眠ってもいいか? ベッド占領しちまって悪いけど」
「無問題呀。我も眠くなったら横に入らせてもらうだけだ」
男同士で一緒に寝るのか?と言ったか言わないか、定かではないほどに眠気が襲ってきて、阿Bはすとんと眠りに落ちた。死ぬほど嫌いな雨の音を聞きながら眠ることができるなんて、考えられないな、と思いながら。

◆◇◆◇◆◇◆

まさか本当に横に寝ているとはね。
まだ止まない雨音が突然強くなった音に身震いして起きた阿Bは、すぐそばに触れんばかりのところに金色の睫毛が見えていて少し驚いた。ひとつ毛布の中に他人がいることの不思議さもさることながら、よく知らない他人と一緒の毛布で眠れるエリックそのものにも大いに不思議を感じる。
が、考えてみれば、ここはエリックの部屋だし、エリックのベッドなのだ。自分のほうがこの部屋の異分子なのである。腕時計を見ると、まだ朝の6時を回ったところだった。痛み止めが切れたのか、わき腹も、腿もズキズキと痛む。エリックを起こして痛み止めをくれ、と言いたいところだが、あまりにも気持ちよさそうに寝息を立てているのを見ると、起こすことも躊躇われる。それに、凝として人の体温で温もっている毛布に包まれていると、少しずつ痛みが薄れていくような気さえする。
「起きたか」
静かな声でエリックが言った。
「そっちこそ、起きてたんだ?」
「今、起きた」
目を擦りながら、下着しか着けていない上半身を起こすと、阿Bの額に手をやった。
「少し、熱いな。やっぱり熱が出たか」
「そうかな。自分じゃ感じない」
「傷を見せろ」
毛布とシーツを剥いで、まず阿Bのわき腹を見る。
「ああ。こっちはやっぱり思ったとおり、すぐにくっつくな」
「そういえば、你{あんた}の肘の傷は?」
エリックもシャツを切られて、その下にはナイフ傷ができていたはずだ。阿Bのシャツの胸元が赤く染まったくらいに出血していたのだ。
「それなら心配ない。きれいな傷口の傷は手早くくっつけてやれば、くっつきやすくできているんだ」
見せられた肘には、赤く線が1本走っているだけで、大きな傷痕にはなっていない。
「良かった。結構出血していたから、もっと大きな傷だと思った」
「そういえば、その血みどろの你のシャツは、バケツに入れて洗剤につけてある。たぶん、ちゃんと落ちると思うぞ」
「多謝哂{ありがとう}」
別に高価なシャツでもなんでもないが、つましい暮らしをしている身には、貴重なワードロープのひとつである。
「そうだ。昨夜からページャー(*)が良く鳴ってたぞ」
エリックがテーブルの上に置いてあった阿Bのページャーを指した。その途端、またページャーが鳴った。ベッドから乗り出して、エリックがページャーを取って寄越す。
「バイト先のオーナーからだ」
「ビデオレンタル店の?」
「そう」
「申し訳ないんだけど、電話ってあるかな」
「ああ。ちょっと待って」
壁にかかっていた電話機を持ってきて阿Bの横に置いた。
阿Bが電話をしている間に、エリックはジーンズを身につけて、コーヒーを入れた。阿Bの分をテーブルに置いて、自分はマグカップを持ったままベッドの端に腰を下ろしたときに阿Bの電話が終わり、狐につままれたような顔の阿Bに「どうした」と聞いたのだった。
「店、休みになっちまった」
「え?」
「昨夜、放火されたみたいだ。あ。小火で済んだんだけど。でも、火燭車{消防車}が水ぶっかけたんで店内は水浸しで」
「それで休みか」
「当分来なくていいってさ」
「それはラッキーだな。今日はこのまま寝てるといい」
エリックに真上から覗き込まれると、阿Bはつい、目を逸らすことなく、凝とエリックの瞳を見入ってしまった。
エリックは目を逸らさず、瞑りもせずにゆっくりと阿Bのほうへと顔を近づけてきてキスをした。そして、来たときと同じくらいの速度で、またゆっくりと離れていく。
「・・・動じないな」
「昨日はさすがにびっくりしたけど」
繁華街の小路で男にキスされるとは思わなかった、と阿Bが少し笑った。
エリックは阿Bの目を凝と見ていたが、暫く見ていたあと、ふっと目を逸らして再びマグカップを手に取った。
「咩呀{なんだよ}?」
阿Bが問いかける。
「わからないな」
「何が」
「你{おまえ}がどっち側の人間かって考えたんだが」
温くなったコーヒーを一気に飲み干して、エリックは阿Bの隣に座った。
「黒社会{ヤクザ}かどうかってこと? 確かに仕事は水商売だったけど、我は違うぞ」
「いや。そうではなくて。・・・まあ、いいや。明日、考試{テスト}があるんだ。しばらく大人しくしててくれると助かる」
「あ。唔該{ごめん}・・・」
しばらく、エリックが入れてくれたコーヒーを飲みながらベッドの上でシーツを体に巻きつけて、ぼんやりしていたが、そのうちクッションに凭れたままうとうととしかける。
「ほら。薬」
良いタイミングでエリックが毛布を掛けなおしてくれ、痛み止めと抗生剤をくれた。なんとか薬を飲み込んで、そのまま心地よい二度寝に身を任せる。雨脚はまだ強かったが、阿Bには気にならなかった。誰かがいる部屋で眠りに落ちる自分を、昨日まで想像もしたことがなかった。
眠ったような眠れていないような心地で、どのくらい経っただろうか。毛布に包まったままでふと目を覚ました阿Bは、エリックが自分のほうを凝と見ていることに気づいた。
「乜{なに}?」
「別に」
「さっきからずっとこっちを見てる」
「まあね」
「何か言いたいことがあるのか?」
「没{べつに}」
カウチソファの上で片肘ついて寝転んで、分厚い本とノート、プリント類をソファや膝の上に並べ、エリックは手に持った眼鏡のつるを噛みながら、それでも阿Bを見ていた。
「言いたいことがあるなら言えよ」
少し声を大きくして阿Bが言うと、エリックは笑った。
「人の家でベッドまで占領していながら、偉そうなヤツだな」
エリックに笑われて、「唔該」と小さく謝った阿Bは、続けて何か言いかけて止めてしまい、毛布を顔半分まで引き上げて目を閉じた。昨晩の路上での、そしてさっきのエリックとのキスを思い出す。
「エリックは男でも女でもいいわけ?」
「好きなら関係ないかな。女を好きになったこともあるよ」
「男を好きになったことも?」
「基本的には男」
あけすけに言うエリックに、阿Bは少し驚いた。そういえば、ビデオレンタル店でも、誰かが上書きしたゲイの性行為のビデオを、「好みじゃない」などと評していた。
「それって、男の身體が好きってことなの?」
エリックは開いていた本をパタンと閉じて、身體を起こして足を組んだ。
「随分はっきりとした質問だな」
憮然とした顔をして、阿Bは立てた膝に顔を埋めた。
「我、蠢{バカ}だから」
「どういうことだ?」
「我、十六まで城砦に棲んでたんだ。学校もほとんど行かなかった。あの街市{まち}、あれを街市と言っていいならだけど、政府があの街市を壊さなければ、きっと我は今もあの暗い迷路で生きていたと思う。学もないし、金もないし、・・・そんなヤツらばっかりが集まったあの街市に」
貶しながら、どこか懐かしげな色を浮かべて、阿Bは九龍城砦を語った。
「城砦・・・九龍城砦か。だが、読み書きはできているだろう? 計算も。レンタルビデオ屋の仕事はできているはずだ。電脳{コンピュータ}も扱ってる」
「教わった」
「学校で?」
「同じ小路の隣の大厦に住んでいた日本人。でも、読み書きと電脳を少しだけだ」
「それすらできない香港人は、山ほどいる。不幸を数えるなんて莫名其妙{ナンセンス}だ。きりがない。幸福を数えたほうが、数え切れなくても嬉しいと思うが?」
エリックは全く揺るがない話し方をする。阿Bは、それがまるで自分の心の中を見透かして指摘されているようで、気恥ずかしくなって俯いた。それを見てだか、エリックは話を変えた。
「さっきの你の質問だが、普通、男は女の身體が好きで、女の愛情を求めて、女をパートナーにするっていうのが人類特有の勝手な概念上のカップリングだからな。守らなきゃならないってものでもないと我は思っている。・・・你はどうだか知らないが」
突然自分に話を持ってこられて、阿Bは一瞬戸惑った。
「どう、って・・・。どうかな。我は、そんな難しく考えたこと、ないから」
エリックが、手にしていたプリントを脇へ置いて、阿Bのそばに座った。
「考えたことがない、か」
阿Bの顎を持ち上げて、エリックが阿Bの目を凝と見る。そのエリックの目を見返しながら、言ったのは阿Bのほうだった。
「エリックって、不思議な瞳の色してるんだな。茶色でもない、緑でもない、你{あんた}とおんなじ、つかみどころのない色」
「你{おまえ}のほうこそ、つかみどころがない」
「我?」
「そうだ。男が好きなのか、女が好きなのか。だいたいはわかるものだが、你はわからない。かと言って両方とも、ってふうにも見えない。良く言えば真っ白で、悪く言えば何もない」
エリックが阿Bに唇を重ねた。
「ほら。動じもしないが、感情も動かない。同性がだめなら、嫌悪感が表れててもいいのに。男が相手でも、女が相手でも、いつもそうなのか?」
そっと、エリックの手を外した阿Bが目を逸らさずに言った。
「我、できないから」
「・・・點解呀{どういうことだ}?」
「だから、その。女と、できないんだ」
エリックから目を逸らす。これまでは、翡翠の経理{マネージャー}の許{ホイ}にも、美紅にも、果ては薇薇にまで平気で言えたことだ。平気どころか、むしろ、それを堂々と言うことで自分の身を守れていたことだったのに。
「・・・ふぅん。じゃあ、女とやったことはないってわけだ」
「全く無いってワケじゃ・・・」
「『最後まで』できたことはないってことか?」
「可能、係定啦{たぶん、そう}」
「『たぶん』?」
阿Bの答えにエリックが首を傾げる。
「健康な男子ならもっと心配するだろう? 醫生{医者}にかかったことは?」
「必要ないよ。別に困ってない。―― ついこの前も別のコに言われたけど」
幾分気まずそうなものの、さほど心配してなさそうな阿Bの様子をエリックは訝しむ。
「ふーん。・・・起たないなら起たせてやればいいだけなんだけど?」
「うるさいな。やってくれようとした女仔{おんなのこ}もいたけどダメなの」
「そりゃ女仔{おんな}のやりかただからだろう」
『鳩が豆鉄砲を喰らう』という言葉があるが、自分の顔は今まさにそうだと阿Bは思う。
「エリック。你、一体何が言いたい? 你、何者なんだ?」
真顔で割りととんでもないことを言っていると思われる目の前の青年に、阿Bは呆れて訊いた。
「醫學生。香港大学の博士課程。イギリスの醫生牌{医師免許}は持ってる」
「・・・泌尿器専門? それとも醫生仔{遊び}?」
「どっちでもないよ。香港の醫生牌はないから治療じゃないし、ごっこ遊びというよりは、你が興趣{きょうみ}があるかどうかだと思うが?」
「興趣・・・」
阿Bにとっては、その単語は、これまで無縁できた言葉だったかもしれない。
「そうだ。自分の身體のことなんだから興趣があってもいいだろう。その年なら、男が相手でも女が相手でも、そうしたいと思って寝たら、体がどういう反応をして、どういうことをするかぐらいは知っているだろう。」
エリックがまっすぐに阿Bを見つめてくる。阿Bの何もかもを読み取ろうとしているかのようで、阿Bは怖くなって目を閉じた。
その阿Bの顎に手をかけると、阿Bは余計に力を入れて瞼を閉じようとする。
「・・・少しは、感情があるんだな」
「え?」
阿Bが思わず目を開ける。
「無問題。そうそう心の中が読めるわけじゃない。怖がるな。男が好きだの、女がいいだのっていうのは、あくまで性的嗜好の傾向が顔に現れている気がするだけだ。オレの勝手な推測なだけ。細蚊仔{コドモ}相手にからかって悪かった」
エリックは阿Bの顎から手を外し、肩を優しく叩いて離れた。
ソファに戻ろうとするエリックの背に、阿Bは問いかけた。
「なあ。我って、・・・我の身體って、おかしいのか?」
エリックが少しだけ振り返るのに、重ねて問う。
「これって、・・・なんで・・・我・・・」
エリックが阿Bのそばへと引き返してくる。
「朝は?」
「朝?」
「朝起きたときも、なんにも変化はないか。健康な男子なら、朝は起つだろう」
「・・・そんなの、・・・ない」
エリックは微かに口を歪めた。

< 六に続く >

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