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篠突く雨が降っている。
大学の中にある一番古い校舎が好きだった。レトロな木の廊下。石の階段。無駄にタッパのある建物は存在感があり、教室の中には、木の椅子と木の机。ギシギシ言う床板の音が心地よかった。ほんの一部の授業だけでしか使われないなんてもったいない、といつも思っていた。
「さすがにムリ、だろ?」
校舎の入り口で、恨めしそうに雨を見上げると、背後から声を掛けられた。
「通り雨じゃね? 小一時間も待てば、止むと思うけど」
「この校舎は禁煙」
煙草を咥えているそいつに言ってやる。
「知ってる。火はつけてねーもん」
なるほど。煙草に火はついていなかった。
「まずったなあ。授業終わってすぐに出てりゃ、降ってなかっただろうに」
あまり本心からしくじったとは思ってないようで、雨音の激しさとは裏腹に、雨に閉じ込められた時間と空間を楽しんでいるようにも見えた。玄関の石の柱に凭れ、小さく鼻歌を歌っている。
「そっちも、さっきのラテン語II、取ってたのか」
見れば、鞄も持っていなければ、教科書もノートも、持っていない。授業に出ていたとは見えないが。
「取ってたよ。出席だけで単位はほぼくれるっていうし。Sicut Latini. Quod esse non Latini(*)。ってな」
くす、と笑うと、向こうもにやっと笑いを返してきた。
「何科?」
「映像。そっちは?」
「演劇。メシ、一緒に行く?」
「雨脚がマシになったら走るか」
「止んでからでいーじゃん」
「三限、取ってるんだ」
「サボれよ」
オレもサボるからさ、と言われた。

@@@

雨の音で目が覚めた。
懐かしい校舎が夢に出てきた。大正時代のようなレトロな校舎が好きだった。講師職員たちは冷暖房もついていない、窓も扉もガタがきている校舎での授業が気に入らず、くじ引きで負けた一部の講師の授業だけがあの校舎を使用するのに当てられる、と聞いた記憶がある。もともと冷房は好きではないし、寒いのも、東京の冬程度なら、厚着をすればなんとか耐えられる。授業が終わっても、ゆっくり片づけをして、できるだけ長く校舎に留まっていたほど、気に入っていた建物だった。
「なんか久々に見たな。あの校舎の夢」
見るたびに鮮明になっていく夢。もしかしたら自分で脚色していっているのかとも思うが、そこは自分自身の夢と記憶の兼ね合い譲り合いだ。誰に迷惑をかけるものでもない。
あの後、結局、学食へ行く途中の教務課へ立ち寄って、三限の建築史IIが休講と知った。互いに名前も名乗らないままのちょっとした袖の擦り合いだったが、建築史IIが休講でなく、一緒に90分1コマの授業を受けていたなら、何か違う「今」があっただろうか。
あの学生が、今、こうして隣にいるというのが面白いといえば面白い。
昏々と眠っている姫の隣で、そっと起き上がる。多少のベッドの軋みも、毛布の衣擦れも、姫を起こすことはないだろう。
「睡眠不足もほんと限界って感じだったしな」
姫の前髪を引っ張ってみるが、一向に起きる気配もない。鼻をつまんでみる。
「さすがに苦しいか」
はふ、と、閉じていた口を開けて、口呼吸をするのを見て、ひとりでくすくす笑う。
うつ伏せになっている背中の上に自分の身体を重ね、髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
姫の髪の匂い、体温、こうしてうつ伏せたときに感じる、背中の骨格、膚の弾力。
何も着ていない姫の背中の上に、何も着ないでこうして重なるのが好きだ。そもそも姫が、背中の上に温もりがあるのが心地いい、と喜ぶ。
「20代の半分と、30代の半分、か」
20代の前半、10代の最後の最後の時間を、せっかく同じ学び舎で学んでいたのに、一緒に過ごさなかったのは、今となれば、悔しい、といえる。
70歳になった自分が想像できない、と歌っていたのは、サイモン&ガーファンクルだったっけ。
想像、つかないわけじゃないけどな。
後頭部を改めてぐしゃぐしゃとかき混ぜて、「カッパ型だろーな」と呟く。
まあ、仕方ないか。想像は尽きない。禿げ、入れ歯、眼鏡・・・は今も掛けているけど、老眼鏡になるんだろう、膝が痛いの、腰が痛いの――。
「どんなんなっても許してやるからな、姫」
背中の上に乗って、ぎゅうと抱きしめる。これで起きないんだから、幸せなやつだ。
枕元に軽く握った姫の拳に指を伸ばす。そおっと姫の拳の下に自分の手を滑り込ませて、指を組む。
自分の指より少し太さがあったはずだが、ここのところ忙殺されていたせいか、少し痩せたような気もする。
「なんか、掌の厚みが薄くなったような気がするな」
こいつ、見てないところで、平気で食事抜くし、と指の太さを確認するように爪の先から指の股まで摘んでみる。やっぱり少し細くなった。
「あ」
大事なことを思い出す。姫の手の下から手を抜いて、毛布から抜け出す。さすがに毛布から出ると、深夜の寝室の空気は肌に冷たい。落ちていたTシャツを拾う。
「あ。姫のか」
ロゴの色だけが違うそろいのTシャツは、姫のほうのシャツが洗い晒しになってしまっている。一方、自分のほうのTシャツは、まだ新品のまましまってある。たまたま旅先で一緒に買ったものだったが、初めて「揃い」と言えるものだった。家の中で男ふたりが色違いのTシャツを着るのも気恥ずかしくて、しまったままにしてあったのが、結局タンスのこやしになっている。「Tシャツ後」には、マグカップだのバスローブなど、お揃いのものも増えたというのに、「使わずにとって置く」格好で今もある。最初は「着ないのか」と聞いてきていた姫も、たぶん、もう色違いを俺が持っているってことすら忘れているかもしれない。Tシャツだけじゃ寒いな、と腕を抱きながら、リビングに置いた自分の鞄から包みを持ちだしてきた。
ベッドに戻り、毛布の中に潜って、姫の背中にくっついて暖を取る。じんわりと温かさが伝わってきたところで、持ってきた小さな正方形の箱のリボンを解き、箱の中から天鵞絨張りの深い藍の小箱を取り出した。
蓋を開けると、枕もとの間接照明から光をもらい、柔らかく光る銀色の環が収まっている。
石なしの本当にシンプルな指輪だ。内甲丸に整えた指輪の内側には、二つだけアルファベットが彫ってある。
どのタイミングで渡そうかと思って、ここしばらく持ち歩いていたが、このタイミングでいいか、と、はたと気づく。
ジュエリーケースから摘んで取り出し、灯りに透かして内側の文字を確認すると、姫の左の第四指を環っかに通す。
やっぱり、ちょっと緩い。思ったとおり、指が少し痩せてしまったらしい。
「食わせて太らせなきゃ」
それでも、薬指に柔らかく光るリングは見ていて嬉しい。
もう一度、背中に身体を預けて、肩に唇をつける。
「・・・俺のもん」
口に出して言ってみると、尚、嬉しかった。
そもそもが、「男が好き」なのではなかった。ということは、勿論、最初から姫を「そういう対象」で見ていたわけでもなかった。いや、今でも、たぶん、姫はそういう対象ではない。「姫だから」そういう対象になるだけである。
姫と肌を合わせることは考えても、「誰か男と」ということは考えるべくもない。
ところが不思議なもので、姫とこういう間柄になってから、周囲には男が恋愛対象になっている人間が増えた気がする。実際は、自分たちがそういうことに意識が回るようになったから、そういう人たちの存在が「見える」ようになったというのが本当だろう。
つまり、自分たちが気づいてなくても、姫が気づかなくても、周囲にはそれなりに自分たちを「対象」としていた人たちもいた、ということになる。
そういう人たちに粉をかけられるようになると、互いに焼もちが出る。なのに、「縛る」ことは怖くて出来ないできた。
「その一言」を言ったら、その途端に何かふたりの間のバランスが崩れる気がして。
なのに、姫はそれを軽々と口にする。
一度目は「結婚でもするか」だった。
「冗談(言うな)」と返しておいた。
二度目は「そろそろ結婚しちまおー」だった。
聞こえなかった振りしてスルーした。
三度目は先々週。
「買ったらする? ゆびわ」
そう言われた。
好きなデザイン言ってみろよ。ブランドでもいい。石付きがいいなら、それでもいい。あ。ただし、あんまり高いのは買えねーけど。
「なんでそんなに着けさせたいの」
笑って訊くと、少し拗ねた。昔、一組のピアスを一個ずつ分けてつけようとしたら、姫はものすごく心配した。そのせいで俺が社会からはじき出されるのが嫌だと言った。その姫が、俺に指輪を着けさせたい、と言う。
オレのもん、って徴、つけさせたい。
「徴つけたって、カムアウトしてるわけじゃないんだから、周りはそんなのわかんないだろう」
オレが自分で自分に自慢したいの。おまえがオレのもんなんだ、って。
我ながら恥ずかしいけど、そんな姫の言葉にしっかり、してヤラれた。
yesもnoも返事しないまま、翌日早速、こっそりと自分のほうが指輪を買いに行った。
ざまあみろ。俺の勝ちだ。
「徴」が光る薬指をそっと口に含んだ。

@@@

「あー、もう! 五月蝿いって!!」
依嶋が両手で耳を塞ぐ。
「だって、依嶋、ずるいー!」
いつの間に。
自分だけ。
ひとりで決めて。
しかも寝てる間に、勝手に人の指に嵌めて。
「うるさいな、もう」
ぐい、と依嶋に手首を掴まれて、薬指を摘まれる。
「返・せ」
「やだ」
慌てて依嶋の手を振り払う。
「文句ばっか言うんだから、返せよ」
「や だ ね」
あっ。
と言う間もなく、薬指から指輪がすっぽ抜けた。
カチーン、と窓に当たって跳ね返って転がる。
依嶋に背中から羽交い絞めにされていたせいもあるが、一瞬、動けなかった。ちょっとしたショック。指にあっていない指輪。
「あーあ」
オレの身体から腕を解いて、依嶋が事も無げに床の指輪を拾った。
「姫が痩せたせいだからな。痩せてさえなければ、ちょうどいいサイズのはずだったんだ。覚悟してろよ。当分、俺が食事を作ってやる」
そう言って、拾った指輪を握りこんでしまう。
「あ。それ」
「指のサイズが元に戻るまで預かっとくよ」
それとも、サイズ直ししたほうがいいかなあ、と依嶋が指輪を自分の指で挟んで窓に透かす。
「依嶋」
思わず今度はオレが背後から抱きつく。
「なに?」
「それ、ちょーだい」
「だって、サイズ合わないし」
「サイズ合わせるよ。指太くする」
「腹、出るくらいなら止めとけよ」
「アホか」
指輪を握っている依嶋の手を、外からさらに握る。
「じゃあ、やっぱりサイズ直しに出すか。指から抜けて落とすのも嫌だし」
「んー。それはまた考える」
「落としてからじゃ遅いぞ。二度と買わないからな」
「落とさない」
少しずつ、握りこんだ依嶋の指を解いていく。
「な。嵌めて」
不承不承、と言った様子で、依嶋が指輪を俺の左の薬指に入れる。
「ほら、やっぱり大きい。抜けちまいそう」
「うん。気をつける」
背中から、依嶋のウエストを、ぎゅう、と抱きしめる。依嶋の手が、オレの前髪をくしゃとかき混ぜた。
抱き合って、抱きしめて、キスをする。
「朝っぱらから?」
シャツのボタンを外して鎖骨に手を当てると、依嶋が意地悪く笑う。
「休日スケジュール進行」
抱き合うための理由ならいくらでも思いつく。
「姫」
掠れた声で囁かれる。
俺にも買ってよ。
・・・はなからそのつもりだってーの。
返事の代わりに、依嶋の左手を手に取り、指に口付けた。もちろん薬指。
互いが互いの名を呼ぶ声と、相手の熱さを感じて漏れる声は、外がどれだけ大雨でもダイレクトに耳に届く。その声にまた煽られて、休日の午前中は互いに互いを欲しいだけ求め合う。
指を含んでいた依嶋の歯が指輪に、カチリと当たった。
「どんな気分?」
「何が?」
「自分のもんって徴がついた指の味」
「まあまあ美味?」
指輪と一緒に薬指をぺろりと舐められる。
バーカ、と笑う。ふたりして笑う。
「どんな指輪がいいんだ?」
「姫に任せる」
「一緒に買いに行く?」
「だめ。俺、ちゃんとひとりで買いに行ったんだから」
背中からすっぽり包むように依嶋を抱く。依嶋がオレの指を見ながら嬉しそうに意地の悪いことを言うのが嬉しい。オレが指輪を買って嵌めてやったら、自分の指を見ておんなじくらい嬉しそうな顔をしてくれるだろーか、こいつ。
自分の指から指輪を抜き取る。
「姫?」
「サイズ。教えて」
依嶋の薬指に嵌めてみる。ぴったりだ。
「これと同じサイズでいいってことか」
「16号」
「おっけ」
依嶋が自分の指から抜いた指輪を、もう一度、オレの薬指に嵌めてくれる。
腕の中の依嶋が温かい。腕に力を込めて抱きしめながら、うなじに鼻先を埋めて、温もりとにおいに安らぐ。
「姫、鼻の頭、冷たい」
依嶋からいつもの文句が出る。もちろん、無視して、犬っころのようにさらに鼻先を押し当てる。
エアコンの要らない、少し肌寒さを感じるようになってきた季節には持って来いの温もり。少々口うるさいことを除けば、まあまあ柔らかくて温かくて、何より愛しい。
少し和らいだ雨脚と依嶋のトーンの落ち着いたバリトンが、気持ちよく眠りに引き込もうとする。
「姫、寝るなら腕外して。また腕痺れても知らないぞ」
腕外したら、ぬくもりが逃げるじゃんか。
「姫。おい。何ぶつぶつ言ってんの」
抱き合ってるときにちょっと掠れるのもいーんだけど、普段声っての? トーン落としてなんでもないことを喋るときの声が柔らかくて心地いーんだ。シルク毛布の肌触りみたいにさらりと、それでいながらしっかり肌にまといついてきて。

@@@

「三限、サボれよ」
結構な勢いの雨だ。だけど、空はそう暗くないから、そのうち止むだろう、と言うと、相手も頷いた。なので、雨が止んだら、あるいは少しマシになったら、メシでも食うか、と誘ったら了承したくせに、三限をフケようと言うと、それは嫌だと即答が返ってきたのだった。
「ムリ」
「なんで?」
「好きな授業だから」
真面目なやつなんだな、と思った。そういえば、この前のラテン語IIのときも、割合前のほうできちんとノートを取っていた気がする。オレなんて、完全に出席率頼りで、試験は試験前にノートを買えばいいか、と思う程度だが。
「三限、なんの授業?」
「建築史II」
あ。オレ、去年、Iを落としたせいでIIが取れなかったんだ、今年。
ちょっと面白くない。というか、こいつ、Iも一緒に受けてたのか、と、ちょっとまじまじと見てしまった。
「なに?」
「あ。いや。ごめん。Iのときにあんた、いたかなー、って思ったもんで」
「――いたよ。・・・俺は、そっちがいたのも覚えてる」
「え」
意外な返事だった。
「おたく、割と真面目に授業出てただろう。前のほうの席で受けてたのを覚えてるよ」
記憶力のいいやつ、と思うが、同時に照れくさくもなる。そんなに真面目に見えたんだ、オレ。
「なのに、試験に出てこなかっただろう。なんで受けなかったんだ?」
「よく覚えてるな」
「まあね。なんでもいいことには記憶力はいいんだ。授業の最初のほうで、『古代ギリシャ様式の特徴を言え』って当てられて、『とにかく柱。柱さえ作ってりゃ”良かった”って評価されるやつ』って言ったろう」
うわ。そんなこと覚えてやがんだ、こいつ。赤面ものだ。
「実にわかりやすい端的な回答だなあ、と思ったんだ」
顔を見合わせて笑った。
「バイクで事故ったんだ」
「え?」
「建築史の試験の日。おかげで試験がパア。バイクもパアになったけど」
「そうか。それでIIは取ってないんだ?」
「試験取れてても、II取ったかどうかはわからないけどな」
「潜り込んでみる?」
思いがけない提案。確かに建築史の担当の講師は出席を取らない。
「授業、相変わらず面白い?」
「たぶんね」
それならメシを急がなきゃ、と軽く背を打たれて促され、雨の中を一緒に走った気がする。
――強い雨音の中、誰かと飛沫を上げて一緒に走った記憶。
あれ。
オレ、なんでそんなこと思い出してんだろう。
腕の中の温もりに鼻を埋めながら、どうでも良さそうな古い記憶に心地よさを覚える。
「蓮」
ぴくりと背中が揺れる。こいつ、未だにまだ、名前で呼ばれると緊張するんだ。その緊張を知るたびに、抱き締めたくなる。
腕に力を込める。――はずが、右腕に力が入らない。
依嶋がくすっと笑った気がした。腕の中の背中がくるりと回って胸が合わせられる。重りの外れた腕が呼吸を再開する。
背中に回された依嶋の右腕が、とん、と優しくオレの背を打った。

@@@

「――・・・だめ、かも」
その日にでも指輪を買いに来たかったが、なかなかまとまった時間が取れずに三日空けて漸く来た宝石店。店の前を行ったり来たりして、とうとう逃げ出して宝石店の入っている古いレトロな煉瓦ビルの角で大きく息を吐く。
「マジ、恥ずかしい。ガラじゃねーし」
ぺアリングを買いに来たわけではないのだ。男がする指輪を一個、買えば良い。それだけなんだが、どうにも照れくさくて店に入れない。自分から依嶋に指輪を買ってやると言ったくせに。
「ったく、どの口でそんなこと言ったんだっての」
思わず自分で自分の頬を抓る。
壁に凭れて少し頭を冷やしていると、聞き慣れた声で呼びかけられた。
「姫路さん、こんなところでどうされたんですか」
黒い小さな形の良い頭が、ちょうど目の前あたりで揺れた。太市の照明仕事のパートナーのトリだった。
「・・・トリ、ちょっと時間ある?」
指輪を買わなきゃいけないんだ。だけど、ひとりじゃ、どーしてもああいうところ入れなくってさ。
そう言って件の宝石店を指差すと、トリは最初、不思議な顔をしていたが、すぐに飲み込めたようで、にっこり笑って、「私で良ければ」と同伴者を演じることを引き受けてくれた。
そこまではいいんだ。だが、男が「指輪を買わなきゃ」と言ったなら、普通は女のための指輪を買いに来たと思われるだろう。いくら仕事でよく組んでいるトリにだって、オレたちのことは話していない。つまりトリは、おそらく女性のための指輪を買いに来たと思っているだろうと思うと、今度はそこが障壁となる。慌ててトリに、意見を翻した。
「トリ。やっぱり今日は止めておく・・・」
「思い立ったときがいいですよ、こういうことは」
あっさりと言い抜けられて、さっさと店の中へと入っていく。
追いかけて店に入ると、すでに店の店員に話しかけられているところだった。
「今日はどのようなものをお求めですか」と品良く問うてくる店員にもたじろぎ、トリの肩を引っ張って、「今日はやっぱりいいから」と言いかけると、トリのやつ、肩にかけたオレの手を軽くはたいて、店員に告げた。
「男性用の指輪を、彼に」
店員の女性はにっこり笑って、「それでは、こちらへ」、と一角へとオレたちを誘った。
「トリ」
「私の見立てになりますから、センスは保証しませんよ。最後は自分で選んでください」
そう言われた後は、店員とトリでオレの指に嵌めては外し、を何度か繰り返し、最終的には、なんとなく、昨日の依嶋からもらった指輪に似た感じのものをオレが指差して決定。
「お支払いは?」と店員に言われたときに、トリが自分のカードを出したのには驚いたが、店員がカードを切りに言っている間に「あとで返してくださいよ。他人様の婚約指輪買ってあげるほどお金持ちじゃありませんから」と囁かれたときにはもっと驚いた。というより、心臓が飛び出すかと思ったぞ、ほんと。
手数料はコーヒー一杯で手を打ちましょう、と言われ、その後入ったカフェで指輪代を耳を揃えて返し、ほかには多くは語らず礼を言った。
「お気に召さなくても、文句は姫路さんが甘んじて受けてくださいね」
マグカップからコーヒーを啜って言うトリの顔を見ながら、確認しようかどうしようか躊躇っていたが、結局何も言わずに別れ、その後にじっくり考える。

・指輪を買いに来たと言っただけで、男物の指輪を買うと理解していたこと
・そのくせ、指輪を着けるのがオレではないことを理解していたこと

恐らく、買った指輪を誰が着けるのかもお見通し、ということだろう。
オレ、もしくはオレたちって、これまでにトリの前で何かしくじったか?
「バレてる・・・のか」
ひとつだけため息を吐いた。が、実はあんまり落ち込みはしない。誰にも言えないと思っていることを、誰かが実は理解してくれていた、ということが胸にじんわりと温かみをくれる。そういえば、トリからは、指輪のサイズすら訊かれなかったのに、オレが嵌めるサイズで買うことに躊躇がなかった。恐るべし。
「でも、ま、トリなら、いっか」
口も固そうだし、何より、オレたちに対して、嫌悪感の微塵も感じられなかった。
大事な箱が入ったまま小さな紙袋を折り、ジャケットのポケットに入れる。反対のポケットから小銭入れを取り出し、そこに入れてあった細い銀色の環っかを取り出して薬指に嵌めた。
いつ、渡そう。
ポケットの中の四角い包みを、優しく握る。
たぶん、嬉しくて、帰宅してすぐに渡してしまいそうに思うけど。
依嶋の好みの豆がなくなりそうだったことを思い出し、いつもコーヒー豆を買う店に立ち寄った。

@@@

帰宅すると、依嶋が黙々とリビングで模型を作っていた。
「ただいま」
「うん」
集中していると、まあ、こんなものか。顔も上げずに「おかえり」と言われたが、お互い様だとも思う。オレなんて、「おかえり」まで言っていながら、依嶋が帰宅したとも認知しておらず、依嶋が風呂に入っているとも知らずに自分が入ろうとしたことがあったくらいだ。
テーブルの遠くに置いてある空のマグカップを取りあげ、新たに入れたコーヒーで満たして持っていく。コーヒーの匂いに釣られたか、依嶋が顔を上げた。
「さんきゅ」
おかえり、は無い代わりに、少しだけ顎を上げてこちらを見るもんだから、マグカップをテーブルに置いて顎を摘む。2度目のただいまを言いながら口付けた。
「捗った?」
「まあね」
そう言いながらあまり手元を休める様子もない。少しだけ仕事に嫉妬する。
「少し休めよ。どうせ根つめてやってたんだろ」
「ん」
あー。こいつ、意識が完全に仕事の世界に行ってるなー、と生返事に諦めを感じる。
ちぇ、とため息をついて、依嶋から離れた。たぶん、コーヒーも口をつける隙がないだろう。仕事を汚すとまずいので、マグカップも引き上げて、暫く、ソファ横のダイニングテーブルから依嶋の仕事している姿を凝と見ていた。
長い指で器用に紙を切っていく。楽しいんだろうなあ、と思う。淡々と飽きもしないで作業している横顔は、意外にリラックスしているように見える。家に仕事を持ち込むのはオレもそうなので、仕事に焼もち焼いても仕方がない。こいつが作る家に住みたい、と引きも切らないという目に見えないクライアントにまでついつい妬きそうになる。依嶋がこんなに丹精込めた家を手に入れるのか、そいつら。
くだらない嫉妬はちっとも建設的ではないので、深呼吸して気持ちを入れ替え、せめてメシでも作っておくか、と時計を見た。もう2時を回っているけど、おそらく朝、オレが家を出てから何も食べていないだろう。
できるだけ音が出ないように調理できるものを考える。
トマトを煮込んでスープを作っていると、不意に背中が温くなった。
「一段落ついたか?」
「ん。悪いな。メシ作ってくれてるのか。手伝おうか」
「当分おまえが食わせてくれるって言ったくせにさ」
少しだけ意地悪くなって言う。
「うん。ごめん」
肩に顎を預けてくる。重み=温もりの心地よさに、つい食欲とは別の欲も出てきそうになるが、メシを食わさなくちゃならないし、どうせ仕事も終わっちゃいないだろうから、ここは調理に専念するよう自制。
「コーヒー豆買ってきたから、コーヒー入れて」
「うん」
そう言った割には離れない依嶋に、調子でも悪いのかとふと不安を覚えるが、その視線が
オレの薬指にあるのに気づいて、胸の裡でくすぐったく喜ぶ。
どうやって渡そう。頭の中に何も浮かばない。オレ、本当に演出家か?
「ほら。コーヒー。さっさとメシ食って、仕事の続きやるんだろ? いつまでもくっついてっと、メシよりほかのことしたくなるから離れろって」
「あ。姫、下品」
「なんとでも言え。大事な欲求」
そう言う割りに、人の腰をひと撫でしてから依嶋が離れる。このやろ。
肩越しに睨んだら、背中をとん、と叩いて笑われた。
あ、と何か思い出しそうになる。思い出なのか、既視感か。

@@@

食事を終えると、目を擦り擦り、依嶋は再び模型の前に座る。
「まだしばらく掛かりそうだな」
「・・・んー。今日中にはなんとか終われるかな」
首を右に左に傾けてほぐすのを見て、後ろに立つ。
「じゃあ、夕メシもオレな」
「あ。ごめん」
献立、テキトーだぞ、と念押ししながら、首筋と肩を揉む。昔はものすごく嫌がられた。人に肩を揉まれるのはだめなのだ、と。それがいつの間にか、オレの手を受け入れるようになったのは、一緒に住みだしていつごろからだったっけか。
「姫のメシのほうが美味いから好き」
あまりにも唐突に、あまりにもストレートに褒められて、一瞬で顔に火が点く。一拍おいて、ふと我を取り戻すと、依嶋が首を捻るようにして後ろに立つオレを見ている。ニヤニヤして。
「依嶋!――このっ! 心にもないこと言いやがって」
「心にもないことなんて言ってないって。ほんとだって」
腕で頭を抱え込んで、ヘッドロック状態で依嶋を抱き締める。
「離せよ、姫。ほら。仕事させてくれって。夜までに終わらせたいから」
いい年して、ふたりでひとしきりじゃれあって、最後は暫く黙ったまんま、互いの体温を確認するように抱き合う。5秒、10秒、15秒。
「姫」
「――・・・うん」
少しずつ少しずつ体を離していく。
「仕事するから」
「うん」
完全に体を離す前に、依嶋の手がオレの背中をとん、と柔らかく叩いた。
椅子に座りなおして模型に向かった依嶋の左手を、背側からそっと取る。
「すぐ終わるからさ、・・・指、貸して」
薬指に指輪を嵌めた。

@@@

姫の首の後ろを何度も舌と唇で往復する。ここが弱点とは聞いてはいないが、首を縮めるように肩を少し竦め、身体に回した俺の腕を握る手に力が入っている。
「もー、いいだろ、そこ」
「くすぐったい?」
「そう」
ひっ、と息を呑む音が続いた。ついで、と思って、耳朶を口に含んでやったからだ。やわやわと唇で噛んだり、歯で齧ったりしていると、姫の手が俺の後頭部に掛かる。
「いい加減、調子に乗ってんなよ」
脅しもにならないような甘い声で、姫が脅しをかけてくる。
「これ、何針縫ったんだ?」
「さあ? 十針くらいだったかな? もう忘れちまったけど。目立つ?」
「うっすら線が残ってる」
「あー。Collarboneのスチル撮影のとき、メイクさんにファウンデーション塗った方がいい、って言われたもんな」
もう、それも随分前の話だ。
「車はともかく、バイクはもう乗るなよ。ただでさえ姫は怪我が多いんだから」
「あれ以来乗ってない・・・ん? オレ、バイクで転んだって、いつ、おまえに話したっけ?」
記憶の中で、初対面の大学生の姫の顔が甦る。
「サボれ」と言われた三限の授業が休講だったとき、教務課の休講の掲示の前であのまま別れなければ、あのときからもっと仲良くなっていたかもしれない。その後、知り合ったことは知り合ったのだが、姫の記憶力は俺の上を素通りしていたようで、次に出会ったたときには「はじめまして」からだった。そう言われたときのちょっとした不快感は、今なら理由がわかる。だが、今は自分だけの記憶として、大学時代の姫を胸の裡に置いている優越感があるせいで、楽しいとさえ思えるけど。
「ずっと前に聞いたよ。どうせ姫は覚えていないんだから。それより、やっぱり、全体的に痩せた気がする」
うつ伏せた姫の背中にぴったり伏せて、身体の厚みを実感する。脇から腕を胸に回して、自分の腕の感覚で測る。
「そんな大げさに言うほどは痩せてないだろ」
「体重は?」
「一々計るか、んなもん」
ちゃんと食わせてくれれば問題なし、と、左手を取られた。
指輪を嵌めた姫の手が、指輪を嵌めた薬指を弄ぶ。なんとなく満足気な姫の横顔を後ろから見て、俺も同様になんとなく満ち足りた気分になる。
と、つい吹き出してしまった。
「なんだ?」
「いや、ごめん。女の子が指輪欲しがるのとあんまり変わらないなあ、と思ったら、笑えて」
ちょっとだけ姫がムッとした表情{かお}になる。
「俺が、ね」
慌てて付け足した。
それを聞いてか、姫もその後、気恥ずかしそうに笑ってみせた。
オレも欲しかったし、と、ぽそっと言って、照れ隠しなのか勢い良く体を反転して頭を抱え込まれた。
強く胸に寄せ付けられて抱きしめられていると、姫の声が姫の胸腔に響くせいか、普段の声よりも深く響いて聞こえる。
「好きだって言葉に出して言うのも限界があってさ、どんだけ言っても足りない気がして」
指輪なんか、陳腐すぎ?と訊かれる。
「好きだなんて滅多に言わないくせに」
姫が黙りこくる。あ。地雷を踏んだかも。
「・・・言って欲しいってんなら、言ってやってもいいぞ」
「――べつに」
「意地張って」
「じゃあ、言ってみろよ」
姫の手が緩んだので、顔を上げてみると、案の定、姫が顔を朱くしていた。
「ほら、言ってみな。言ってほしいな」
姫の胸の上で乗り出して、顎の先に鼻をつけるまで近づいて迫ってやる。
「ほら?」
顔を朱くして困った顔をしている姫相手に、調子に乗りすぎたらしい。頭を手で挟まれて、ぶつかるように唇を合わせてくる。
演出家のくせに、演出も何もあったもんじゃない。照れくさかったりして言葉で言いづらくなると、すぐにこうして、いいように誤魔化される気がする。誤魔化される俺も俺か。
「何か言ったか?」
こういうときばかりは、妙に勘がいい。
「なにも」
すかさず姫の左手を取り上げて薬指に口を付けた。
俺のほうが誤魔化し方は上手い。

@@@

背中からすっぽり抱きこんで、自分の左手で依嶋の左手を迎えに行く。
「外では、しなくていいんだからな」
そう言いながら、薬指から指輪を抜こうとするように弄ると、依嶋が指を握り込んだ。
「俺の自由だろ、そんなの」
腕の中の温もりが、反抗を示すように体を捻る。
「・・・そんなの、いまさら」
笑いながら、耳朶を捉えられた。少し躊躇いはあったものの、オレもつられて笑う。
「いまさら、か」
「そう」
依嶋の声に救われた気分になる。耳を掴んでいる依嶋の手をそっと外し、体をもう一度うつ伏せて項のしっぽ髪に鼻をくっつけた。小さく、ごめん、と言って髪を口に咥えて引っ張って、「蓮」と名前を呼ぶ。
僅かに身動いだ依嶋が、うつ伏せたまま言った。
「プロポーズしてきたの、姫だからな」
一瞬にしてこちらの顔が火事になる。
「それはっ。――でも、指輪いそいそと買ってきて先に嵌めたの、依嶋のほうだろっ」
「いそいそ、って・・・。『いそいそ』って、そういうこと言うか」
返せ、と指を。握りこんだ指を一本ずつ剥がされそうになる。しまった。こいつのほうが握力強いんだ。
「だーめーだ、って。オレ、絶対これ、返さないからな!」
依嶋に指輪をとられまいと指をぎゅうと握りこんで、思わず声も大きくなる。
「・・・姫?」
「オレ、もう、依嶋じゃないとだめだから。たぶん、もう、ほかのやつじゃだめなんだ。だけど、自分で思ってるだけじゃ、どうしても自信が無くて。おまえがオレに自分のもんだって徴つけてくれて、それでやっと、オレ、おまえのこと好きでいていいんだって安心できた。この間、おまえに先にこれもらった時は、ものすごく嬉しかったんだ。・・・だから、依嶋がこれを取り上げるときは、もうオレのこと放り出すってときにして」
腕の中で依嶋が無理やり体を捻った。
腕でオレの頭を抱えたかと思うと、バカ姫、と言われた。
血が逆流したかのような頭も、めちゃくちゃに打っている心臓の音も、依嶋と唇を合わせているうちに、少しずつ少しずつ静まっていった。

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これを取り上げるときは、もうオレのこと放り出すってときにして。
姫が言った科白を頭の中で何回も反芻しながら、姫にそれ以上言わせないようにと塞いだ口を、漸く離して息継ぎをした。耳まで熱いが、姫はたぶん、もっと熱い顔を俺の肩に伏せているんだろうと思う。できれば、もう少し離れてくれると、こちらの心臓が早打ちしているのに気づかれなくて済むんだけど。
目の前にある姫の拳を外から包みこむ。少し力が抜けてきた拳を解いて、掌を開かせる。両手で挟んだ姫の左手を口許へ持っていき、指先を口に含んだ。
姫の手が一瞬逃げようとしたが、無視をする。一本ずつ、唇と舌で味わうように解いていくうちに、背中に触れていた姫の身体が次第に柔らかくなっていく。緊張が解けていくと、まるで体温が戻ってきたかのように、背に感じる姫の温もりが柔らかく感じられるようになってきた。
親指を含んだとき、姫の手が始めて自分から動き出して、俺の顎を連れて行く。唇を離すと、叱られる前の子どものように羞恥とプライドのないまぜになった顔を、もう一度肩に埋めて呟いた。
オレ、みっともねー。小さく呟く姫の背中を抱きしめる。
ああ。姫が言ってたのは、これか。
好きだって言葉じゃ足りないっていうやつ。
みっともない姫も、自分をみっともないと言う姫も、姫が呟いた「みっともねー」の科白も、どれも全部大切にする。その思いは、確かに、言葉じゃ足りない。

@@@

みっともねーし。
ガキだし。
男だし。
依嶋にとっちゃ、オレといることなんて、なんのメリットもないから、いつだって不安でたまらない。曲がりなりにも思いが通じてから何年か経ってもこのザマってのが、情けない。
ふたりで乗る満員電車の中、人混みに押されて身動きできない中で、仕方ない振りして抱き合う。
コートの影でこっそり繋ぐ手。
ふたりきりのエレベータで並んでくっつける肩。
非常階段で抱き合うキス。
手を振り払われないことに安堵して、今日もこいつが傍にいてくれたってことにほっとするなんて、まるで毎日が何かしら賭けをしているかのようだ。
怖いのは、相手が去っていくこと。それよりももっと怖いのは、それが怖くて耐えられなくて、自分から先に背を向けてしまうこと。
指輪ひとつで変わるものでもないと思いながらも、依嶋に指輪を贈ることを、自分が自分にする約束の徴にしたかった。
まさか、先にもらうとはね。
朝方、降り続く雨の音の中で微睡んでいると、依嶋の体温が背に気持ちいい。こうして包み込まれて目覚める朝が、一番温かいのは言うまでもない。ここのところ、起きてまず、薬指を確認するクセがついた。指輪をもらったのが夢じゃないことの確認と、「二度と買わないぞ」と念押しされたから、失くしてはいないかの確認。
左手に包まれた左手の、2本の薬指にそれぞれ環っかがあることを確認して、そのままもう一度眠りに引き込まれるに任せようとしたら、左手がきゅっと握られた。

@@@

「休講、かぁ・・・」
なんとか走って2号館から教務課まで。授業の連絡が貼られている掲示板の前で、ふたり、しばし呆然。
「来週、時間が空いてれば潜り込んでみたら」
「そだな」
そんな会話を交わしたと思う。
「姫。今日、六限、代返、おまえの番な」
掲示板の前で、友人らしきに肩を叩かれていた。男のくせに「姫」の呼び名は、忘れようとしても忘れられない思い出の「鍵」だ。
その名前で呼ぶなっつってんだろ、と気の置けないらしいやりとりが二、三、交わされる。
「教職、取ってるのか」
六限なんて、物好きな教授の趣味のゼミか、教職のための必須科目の授業ばかりだ。
「一応な」
苦笑いしたが、教職を取っているというだけで、意外と真面目なヤツなのかなあ、という評価が加わる。三限に出ないなら、一緒に昼を食べる必要もさほど感じられず、教務課の前で右と左に別れた。
三限は休講になったが、四限には自分の必須科目があるから帰るわけにもいかないので、学食の中の売店でサンドイッチと飲み物を買って、随分ましになった雨の中、2号館へと戻った。使っていない教室を勝手に使用するのは禁止されているが、授業のあと、食事をとるくらいは多めに見られている。
そっと扉を開けると、最後列の端っこの席で、さっき見たばかりの上着を被って机に伏せて眠っている影がひとつあった。
開けたときよりも気をつけて、もっと、そおっと扉を閉める。
ラテン語IIで座っていたのと同じ、前から2番目の長机の窓際に座り、鞄から取り出した文庫本を広げながらサンドイッチを食べた。
やがて、雨が上がると陽が射しはじめる。
後列の席からは寝息も聞こえない。
あのあと、どうしたんだっけか。三限が終わる前に自分が校舎を出たのか、姫のほうが先に教室を出て行っていたんだったか。
姫にいつか聞いてみようと思う。
2号館での雨やどりを覚えているか、と。
記憶の中の登場人物に、自分を付け加えてほしいから、と。

< 了 >

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(*)私はラテン語が好きです。でも、ラテン語は何の役にも立ちません。

 

 

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