| だが、春の嵐の晩、早緒は伊堂の元を飛び出さねばならなかった。 何処へともつかず、ただ伊堂の手から逃れようと走った早緒の背を追ったのは、荒れ狂った春雷か、それに似た伊堂の心だったのか。 「昔、伊堂さんのところにいたそうだが、」 尾末の語気は、早緒の黙秘を破り去る強い意志を見せた。しかし、それでもまだ抗うように顔を背けたままの早緒の頤を、尾末が捕らえた。大きな温かい手は、あの人の冷たい細い指とは違う感触であるのに、突然に引き寄せるその仕草と、尾末の着物から香る微かな土の匂いが、早緒に錯覚を起こさせた。一五年もの前の記憶がたちどころに蘇った瞬間だった。 「放せ」 だが尾末の手は早緒をしっかり捕らえて、放そうとしない。 「伊堂さんがどういう男か・・・・俺は、知っている」 「違う! あの人は・・・・・・!」 激しく否定をしかけて、し切れず、早緒はその続きを呑み込んだ。 早緒はゆっくりと自分の顎にかけられた尾末の手を外し、畳に目を落として言った。 「私は、あの人のことを・・・・・・」 ポツリと零した早緒の言葉の後を、雨だれが引き取った。 激しい雨脚が、束の間の気まずい寂黙を埋めていく。 「今夜、ここを、尋ねてくることになっている」 早緒の肩が、その言葉に身動いだ。 その時、玄関の戸が引かれ、雨音が近くに聞こえた。 伊堂を案内してきた尾末は、無言で立ち去り、部屋には早緒と伊堂が二人きり残された。 だが、早緒は伊堂から目を背けたまま、畳の線に見入っている体{てい}を取っていた。 「・・・・・・元気そう、だな」 沈黙を破った伊堂の声は、しかし、無理に押し殺しているのかと思うほど、小さなものだった。 早緒は、伊堂に向かうことを頑なに拒む振りをしながら、その一方で、目の端に入ってくる伊堂の姿を、できるだけはっきり捕らえようと神経を集中させていた。 一五年で、どこか変わったのだろうか。 面やつれがしている。神経質げな面ざしが、一段と強くなっている。だが。 寂しげに自分に問うてくるような眼差しは、変わらない。 どうして、こんなにも息苦しく感じるのだろう。まるで視線に絡めとられていくように、胸が締め付けられる。 まるで、伊堂の腕に抱かれているように。 「早緒、私は・・・・・・」 「何も聞きたくありません」 息苦しそうな互いの呼吸で途切れ途切れにされる寂黙を、縫い止めるように発した伊堂の言葉を、早緒は激しくはねつけた。 「私は、貴方を、憎んでいるんです」 畳から目を上げ、それでも頑として伊堂から反らしたままの早緒の瞳は、何処も見つめていなかった。否、一五年前のあのときの残像を見ようとしているのかもしれない。 だが、憎しんでいると言った口を裏切り、瞳から落ちる滴が畳に染みを作っていた。 「憎ませて、ください」 早緒の噛み締めた唇から、苦しげに懇願の言葉が出された。 伊堂は黙ったままだった。 触れることもできない。 撥ね付けることもできない。 詫びることもできない。 愛しむこともできない。 激しい雨はどこにも留まらず、葉を打ち、花を打ち、傷めるだけ傷めて流れていかざるを得ない。 止むのを待つか。 雨から逃れるところへ自ら去っていくか。 尾末が静かに障子を開けた。早緒は黙って立ち上がって出て行った。 |