| その深夜、早緒は尾末{おぜ}の住まいを訪ねていた。 茶を淹れに立った尾末を待つ間、黙ってうつむいていた早緒の鼻に、尾末の陶芸の土と薬品のにおいがぷんとした。いつもならその匂いに早緒は落ち着いた感を覚える。その理由を、早緒は、気の置けない友人の部屋であるからだと思っていた。 だが今夜、早緒は知ってしまった。 自分がくつろげるこの土の匂い。 それは、その昔、自分が確かに知っていた匂い。 陶芸の部屋。―― 伊堂の。 「あの人が陶芸家の集まりに出てきたのは、久しぶりだ」 湯呑をふたつ載せた盆を手に戻ってきた尾末が、懐かしそうに言った。それとは対照的に、すぐさま早緒は吐き捨てるように言った。 「何を言ったんだ? あの人は? 嗣郎に何を言った?」 「・・・・・・ 何も。ただ、早緒は元気か、と。それだけだ。それから」 尾末の言葉の切り方は、実に効果的だった。早緒は、伊堂のことなど、ましてやその人が言った言葉など聞きたくもないと思いながら、尾末の話の続きを待ちきれない思いを心の裡に感じ、身の内がざわめく思いだった。 「それから?」 「それから、久しぶりに早緒に会いたい、と」 「お断りだ!」 早緒の語気に押されて、尾末が鼻白んだ。だが、屈託した早緒の様子にすぐに気付いた尾末は、問いを口にした。 「伊堂さんと、・・・・・・何かあったのか」 尾末の言葉に、早緒は身をすくませた。 瞬間、窓の外に稲光が走った。 奇しくも一五年前の夜と同じ春雷が、早緒の耳に響く。それは、早緒を一五年前に引き戻そうとした。 早緒が伊堂と共に暮らしたのは、十四歳のわずか一と季{とき}だけ。春から夏の始まりにかけての短い時間でしかなかった。七歳から早緒をひきとって育ててくれていた令次が、身体を壊して入院した為に、已む無く早緒を伊堂に託したのだった。令次と早緒は古くからの友人と聞いていた。 伊堂が共に暮らしていた伊堂の母親が亡くなったのは、早緒が伊堂の家に預けられてから間もなくだった。 母親の菩提を弔った後で、伊堂は早緒に向かって言った。 「来たばかりで色々ごたごたしたが、床についている令さんの処へ帰るわけにもいくまい。母が逝ったとて、さほど暮らし様が変わるわけでもないと思うから、このまましばらくは私のところでおまえを預かろうと思う」 春とはいえ、眩しすぎるほど明るい陽射しの中で、伊堂はそれとは対照的に、寂しく目を伏せた。その姿が、悲しみに静かに耐えているように、早緒には思えたのだった。 何故だか、この人の傍にいてあげたほうがいいのではないか、と思ったのだ。自分に何ができるわけでもないとは知りつつも。 伊堂は早緒にやさしかった。陶芸の制作と、母を失った悲しみで一杯であろう心を、早緒のために砕いてくれた。 早緒はあの時、紛れもなく伊堂を好いていた。 陶芸家というより、神経の繊細な文筆家の様な人。制作のための思考が口をついて出る、その説明は、詩でも語るかのように美しいものへの憧憬を語る。そして、容姿の端麗さが、伊堂を尚美麗に見せていた。 けれど、逆にそんな外見が、どこか冷たく、人を寄せつけない様だったのは、彼の瞳だけは見るものを射抜き、また近寄るのを拒むかのように鋭い光を放っていたからかもしれない。 早緒はそんな伊堂を見て、寂しい人なのだ、と思った。 偏に才能の世界とは言っても、芸術の世界ですら年功序列ですらあることは、伊堂に連れられて訪う展覧会などの芸術家たちの集まりの中で、まだ少年の早緒にも見て取れた。それは早緒が七歳で赤子の頃から育ててくれた両親にも別れ、以来、他人の中で幼いながらに自分を一個の人として自覚せざるを得ず育ってきたせいで感じたことだったかも知れぬ。 作陶家の中でも年若いほうの伊堂は、いつも孤独だった。一応の師や兄弟弟子はいるらしかったが、あまり彼らとのつきあいも巧くないようで、ただ一人で周囲からの重圧を身一つに受けている伊堂の肩は、それに耐えていくには余りにもか細く映り、そのことが早緒に伊堂を悲しい人と見せたのだった。 だが、そんな伊堂が、目を自分に向けている時だけ、瞳が光を和らげていることを早緒は感じ取っていた。 早緒は自分が、伊堂にとって唯一の安らぎに成り得るとすら思っていた。それは裏を返せば、幼い頃から流転の居にしか育てなかった早緒が、伊堂の許にいることを安らぎに思っていたということだった。 |