![]() 箏の音が激しかった。 夕刻から降り始めた雨は、二刻の間その雨足を休めることなく、今ではすさまじいばかりに瓦を、地面を、叩いている。その雨音に呼応するかのようにかき鳴らされる十三弦の音が漏れる自宅の門前で、早緒は、怪訝に眉根を寄せた。 「嗣郎?」 雨にしとどに濡れて帰ってきた早緒は、水をたっぷり吸った雨套{マント}を丸め、雨染みになった白足袋の小ハゼを外しながら弟のいつにない激しさに心地悪さを覚えた。 (滅多にこんな弾き方をしない人なんだが・・・・) 何があったのだろうか。 七歳年下の嗣郎は、激するという言葉からはほど遠い穏やかな性分をしている。だが、そんな嗣郎の中に、このような激しさが隠れていることを早緒は知らないわけではない。その激しさを表に出すときは、余程のことであって、尚且つ、嗣郎がそれを見せることを許すのは、幼い頃から早緒だけであった。 しかし、今では自分の身の活計にもなっている筝に対して、ここまでにきつくあたるとは、早緒はこれまでに耳にしたことがなかった。 早緒は、嗣郎のいる奥の間に近づくと、閉めきってあった障子に手を掛けた。少し勢いを込めて開けたにも係わらず、嗣郎の箏は止まなかった。 盲目である嗣郎は、音に敏い。普段ならば、玄関の戸が引かれる音、廊下を歩く足音だけで、嗣郎は早緒の帰宅を知る。 だが、今の嗣郎には、何も聞こえていないようだった。 一瞬、早緒は立ちつくした。嗣郎は全く表情を無くしたままで、何かに憑かれたように弦をかき鳴らしている。幼い頃から、外界との触れあいの頼みの綱と思えばこそ、嗣郎の筝の稽古への真剣な取り組みようは早緒の目には珍しくはなかったが、熱心さは弦の音色を美しく紡ぎこそすれ、今の音はまるっきり八つ当たりとしか言いようのない荒れた音色であった。 早緒は気を取り直し、嗣郎の後ろに膝を着いて、その肩を押さえた。 「嗣郎」 嗣郎の肩がぴくりと反応し、流爪が弦にかすって、嫌な音の残鳴で箏が止んだ。 「爪が・・・・割れています」 早緒が嗣郎の手を取った。オシデをする左の手の中指の爪が割れて、ぽたりと血が一滴落ちた。 白い弦が一点、紅に染まった。 嗣郎は一言も口を利かない。 ただおとなしく、早緒の成すがままに従っていた。 「嗣郎さん」 早緒は包帯を巻き終えて、嗣郎の顔に手を掛けて、うつむいている嗣郎を上向かせた。 嗣郎は無言でいたが、閉じられたままの瞳はもの問いたげに真っ直に早緒を見つめていた。 「嗣郎? 何かありましたか?」 こういうとき、ふ、と、早緒は七つ下のこの弟が愛しくなる。 自分たちの伯父の令次も、十二年離れていた弟の自分たちの父には、年が離れているというだけでも可愛がりようがあったものだと早緒に話したことがある。それはこんな感じであっただろうか、と早緒はそれまで強くしていた眉根の険しさをほっと解いた。 が、嗣郎が漸く口を開いた瞬間に、早緒の表情は硬く凍りついた。 「伊堂、という人はどなたなんですか」 早緒はその名に顔色を変えた。 こんなときほど、嗣郎の目が見えなくてよかったと、早緒は思わずにいられない。 しかし、すぐに反応しない早緒の気配を感じ取って、嗣郎はますます早緒のただならぬ様を知った。 「今日、尾末さんに誘われていった陶芸の展覧会で会いました」 吐き気とも言える怖気が早緒を襲った。 伊堂。 あの人の、鋭く光る瞳。 「その人は、早緒さんのことを、尾末さんに尋ねていました」 一言一言、区切るようにつきつけられる嗣郎の言葉に、早緒は、耐え切れずに嗣郎の傍を立って、部屋を出ていった。嗣郎の、自分を呼ぶ声は耳の遠くにしか聞こえず、早緒の耳許に大きく響き残るのは、嗣郎が口にした人物の名前だけであった。 |